サイトTOP別館TOPコンテンツTOP


ホルスとセトの戦い



 セトとホルスの王位をめぐる争いといえばエジプト神話の中で最も有名な話の一つだが、その話は、第二王朝時の争いが元になっているのではないか、という説がある。

 神話に歴史的な原型がある、と信じる人はいるが、もちろん神話のすべてか過去の真実を表しているわけではない。
 テレビもビデオも無い時代、何百年か経つうちに、事実が形を変え、様々な物語に変化していくことは想像に難くない。
 「歴史から生まれた神話」、だが、時として、既にある神話が歴史による出来事を取り込んで、後世に変化することも在り得るかもしれない。

 セトとホルスは、もともと全く別の地域で信仰されていた神と考えられている。
 セトはナイル下流地域、ホルスは上流地域。
 第二王朝以前、つまり、古代エジプトの国土が統一された直後というのは、まだそれほど人口も多くなかった。(100−200万人だったと推測される。By「古代エジプト 都市文明の誕生」)
 各々の集落はある程度離れて存在していたはずで、信仰する神の違う集団同士の接触も、そう頻繁では無かったかと思う。

 その二柱の神々がなぜ敵同士として争うことになったかというと、そもそも、セト神を主神として擁する下流地域の有力者と、ホルス神を主神として擁する上流地域の有力者とが、エジプト全土の派遣をかけて争うことになったからだ。

 エジプト全土を統一した初期の王(分かっている中では二代目とされている)「ナルメル」は、ホルス神を主神とするグループの出身だった。
 何故そのように言えるかというと、社会科の教科書にも載っている「ナルメル王のパレット」に登場する王の守護者が、ホルス神だからである。そこにはセト神は影も形も無い。ちなみにホルス神以外に登場するのは、牛の角をつけた女神、つまりハトホルだ。

 この時点では、エジプトの「首都」は、ナルメルや、それ以前の王スコルピオンの出身地と思われる、ナイル上流地域にある。しかし、第一王朝時代に、治世の利便性を求めてナイル川のちょうど真ん中、メンフィスに都が移される。
 つまり、ホルスを主神とするグループが、セトを主神とするグループのテリトリー内に移住して、都を築いてしまったのだ。
 当然、「ウチの神様がいっちゃん偉い」、いった悶着が起こったと考えられる。

 その悶着が第二王朝時代に激化し、王がホルス信仰からセト信仰に鞍替えするといったことも起こった。王のひとりが、突如、「セト・ペルイブセンという名を持って登場する。その王の頃、もっとも宗教対立が激しかったらしい。
 どちらの神が王の守護者としてふさわしいのか、というよりどっちの神がエジプトでいちばんエラい神=神々の中の王なのか、という人間たちの争いは、後世に神々の争いとして語り変えられたとしても不思議ではない。

 ところで、王の名前や信仰にさえ影響を及ぼしたということは、セトもホルスも、ともに、既にかなりの数の信者を擁する大神だったことが伺える。
 まだセトとホルス、どっちが偉いかと決着のついていない時期…神話の中では「神々が80年も協議した」と語られている辺りだが、その時代は、セトは決して完全な悪者ではなかった。
 王がセト信仰に鞍替えしたこともあり、セト信者による反乱が成功したことも、あったのだ。
 もしも、その後もセト神が「主神」とされていたならば、悪者となるのは、かえってホルスのほうだったかもしれない。

 ちなみに、下エジプトには、戦の女神ネイト様の神殿があった。
 のちの時代になると下エジプトの守護神はコブラを化身とするウアジェト女神になるが、より古い時代ではネイトである。従って、セト神を擁する人々は、「戦を司る下エジプトの守護者ネイト様、どうか我らに勝利を。セト神に勝利を」…と、祈ったはずなのである。
 何しろナイル下流地域ではセトが主神に近い地位を占めていたはずなので、元々は、下流地域の神々は、セトの見方もしくは眷属だったのではないかと思われる。


 さて、セト信者たちの反乱だが、ある程度成功してしまう。
 首都・メンフィスを制圧したのちはるかに河を遡り、彼らは、上エジプトの聖地のひとつ、女神ネクベトの守護するブート(ブト)の町まで攻め込んだという。
 しかし、天はホルスに味方した。
 セト派に媚びを売って改名までしたセト・ペルイブセン王から次の世代、カセケムイへと王権が移ると、彼は聖都ブートでの激烈を極める戦いの末、辛くも勝利を収め、反乱軍の侵攻を防ぐことに成功する。
 そして、打開策として、セトとホルスを同列とし、双方を王権の守護神として時間を稼ぎながら、部下に指令を下すこととしたのだった。
 セト信者たちの後ろで糸を引いていたのは、かつて王権を争った、下エジプト地域の有力者たちだった。
 王の狙いは、信仰をかけた戦いの裏で王権を狙う、目障りな豪族たちの勢いを殺ぐことであったとも考えられる。

 カセケムイの名には、セトとホルス、両方のシンボルが使われており、表向き両者は並列であり、同格の主神であるかのように見える。しかし、実際のところ邪魔者を潰すまで民衆を黙らせておくための策だったようで、次の代、サナクト王になると、あっさりホルスのシンボルだけを使って名前を表記している。
 反乱をあおった人々がその後どうなったのかは、神のみぞ知るということで。

 なお、史実と神話が一番違うところは、ホルスが上エジプトの神セトが下エジプトの神だった、というところにある。
 神話では逆に、太陽神ラーが領土を二分割して2人に分け与えようとした時、セトに上エジプト、ホルスに下エジプトが与えられたことになっている。
 このことから、セトとホルスの王権争いを描いた神話は、ホルスが下エジプトの神になった時代以降に作られた―――と、推測出来るのである。

 もしも、現実でのホルス派とセト派の戦い――上エジプト王家と下エジプト王家の戦いの結末が、違っていたなら…。
 ホルスとセトの戦いの結末もまた、違ったものになっていたのかもしれない。