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プトレマイオス王朝
王朝の首都;アレクサンドリア 埋葬地;アレクサンドリア 出身地; アレクサンドリア
家族構成; 妻 アルシノエ1世 ベレニケ2世 息子 プトレマイオス3世
先代と違い、プトレマイオス2世はエジプト生まれエジプト育ちの王になる。ただし、周囲がギリシャ人ばかりなのでエジプト語は話せなかったとされる。
前285年頃に父親と共同統治を開始。アレクサンドリア繁栄の頂点を極めた時代をつくりあげた人物である。
両親を「テオイ・ソテレス(救済者たち)」という名で神格化。また、自らも実の姉妹アルシノエ2世と結婚したのち、「テオイ・アデルフォイ(姉弟神たち)」として神格化される。プトレマイオス王朝の王たちが神殿に埋葬されたのは、自らを神格化させていたからでもある。
両親同様に、自らをギリシャ神になぞらえて讃えさせることに熱心で、王夫妻がゼウスとヘラに見立てられたり、プトレマイオス1世同様にゼウスの象徴であるアイギスとともに刻まれたりもしている。アポロンやヘラクレスに比される例もあり、この傾向は、プトレマイオス3世、4世と続いていく。
★対外戦争
カルタゴとローマの間でシチリア島を巡って起きた第一次ポエニ戦争(紀元前265年〜)ではカルタゴ側に多額の軍資金を貸付け、インド経由で手に入れた象の寄贈も行ったという。だがこの戦いではカルタゴはローマに破れている。
また、紀元前267年〜261年のクレモニデス戦争では、アテナイ・スパルタ側について対マケドニアで戦ったが敗北、エーゲ海の島嶼部の支配を失う結果となっている。(ただし次のプトレマイオス三世が第三次シリア戦争で勝利して取り戻す)
★その他の時代背景
アレクサンドロスの後継者を争うディアドコイ戦争の第二世代にあたる。セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト、アンティゴノス朝マケドニアのみつどもえ時代。紀元前277年にアンティゴノス朝がガラティア人(黒海沿岸のケルト人集団)を撃退してのち、第一次マケドニア戦争(前214-205年)でローマが台頭するまで、この状態が続く。
★通商
現在のエチオピアを通じ南方貿易を行っていた。また紅海への進出も盛んだった。
紀元後1世紀に書かれたギリシャ系のエジプト商人による交易路の記録「エリュトラー海案内記」に登場する紅海沿岸の港ベレニケはこの王の時代に作られた。
★プトレマイエイア祭の創設と生前の神格化
紀元前279-278年ごろ、祖神、プトレマイオス1世をたたえる祭り「プトレマイエイア祭」が創設された。
また、王妃とともに「テオイ・アデルフォイ」と称し、エジプト各地の土着の神々との合祀を制度化させ、エジプト支配を固めようとしたという。また、アレクサンドロス王の祭祀を行う神官が神格化された王家のメンバーの祭祀も兼ねる伝統がここから始まっている。
プトレマイエイア祭は紀元前3世紀末まで執り行われており、オリンピックを真似て4年に一度、馬術や体育、音楽などで競い合う祭りだったという。また、この祭りにはギリシャ各地から使節団が訪れていた。
また、プトレマイエイア祭にはデュオニュソス神のテクニタイ(芸人集団)が参加し、お祭り騒ぎを盛り立てる役割を果たした。
デュオニュソスのテクニタイはギリシャの様々な都市で結成されていたが、プトレマイオス朝はそれらに独自に支援を与える文化政策を行い、自らをギリシャ文化の保護者として表現していたようである。またプトレマイオス2性の時代、エジプトでは、都市プトレマイスに所属するテクニタイが、デュオニュソスと「テオイ・アデルフォイ」(王と王妃)のテクニタイと称して活動していた。
【参考案件】
エジプトに来ていたケルト人? ファイユームの盾に秘められたドラマ
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