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新王国時代 第18王朝

トトメス2世

ThutmoseU
綴りはバラバラ→ Thutmosis Tuthmosis Thothmes

在位年代;前1482−1480年
誕生名;トトメス(トト神が生み出せしもの)
マネトー名;トトモシス Thutmosis、チェブロン Chebron
古代エジプト語(より古い読み方);ジェフティメス Dhwtymess/ジェフウトモス Djhutmose
即位名;アアケペルエンラー 'Akheperenre'(偉大なるはラーの形)
治世;3年

王朝の首都;テーベ 
埋葬地;王家の谷、KV42?
出身地;テーベ

家族構成;
父/トトメス1世 母/ムトネフェルト 妻/ハトシェプスト(異母姉)、イシス
息子/トトメス3世(側室イシスの子) 娘/ネフェルウラー(ハトシェプストの子)


下位の王妃から生まれたトトメス2世は、王位継承の正当性を高めるため、第一王妃の子だった異母姉ハトシェプストと結婚。しかし息子が幼いうちに命尽きてしまった。
(別の兄弟ワジュモセ、アメンモセがいたが、トトメス2世の即位以前に死亡している。)

トトメス2世が非嫡出だったため正妃から生まれたハトシェプストと結婚しなければ王位を継げなかったという説は、エジプトの王権が母系で継承されると考えられていた時代の誤り(それによって近親婚の多さを理由づけようとした)であり、実際はハトシェプストとの結婚前に共同統治によって王位継承者となっている。また、息子トトメス3世はハトシェプストとの結婚以前に生まれており、別の妃を持っていたことも分かっている。


●妻ハトシェプストとの関係

ハトシェプストの即位した時代に、「ハトシェプストこそ正当な王位継承者である」といった碑文が作られたのは、おそらく女王の即位を正当化するためのプロパガンダである。
彼の碑文は、のちにハトシェプスト女王が書き換えて自分のものとしてしまったものが多い。
このあたりが、日本の創作物ではハトシェプストとトトメス2世が不仲だった設定がよく使われる理由かもしれないのだが、ぶっちゃけトトメス2世が何かしたというよりハトシェプストが一方的に酷いことをやっているようにしか見えない…。


●即位年について

治世については、マネトーをソースとすると13年になるが、彼の治世が長かったことを示す証拠が無く、長すぎると考えられている。子供の頃の共同統治期間も含めた期間の可能性があり、多くの場合、単独統治としては2-4年くらいが妥当とされているようなので、とりあえず3年に修正して当てはめておいた。尚、10年短縮することに妥当性があるわけではないため、今後の発見によって書き換わる可能性は大いにある。


●その他の記念碑

カルナック神殿の塔門は、息子トトメス3世が完成させている。
シャスウ(ベドウィンの国とされる。アジア方面)への遠征がイアフメスの碑文で知られている。


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