本と出合う
はじめて読んだワタリガラス神話は、主人公が鳥(カラス)でありながら人、という、斬新な感覚の物語だったと記憶している。
この物語を語り継いできた人々が暮らしていたのはアラスカの大地、私は、アラスカの写真集とともに、この物語を読んだ。
圧倒的な視覚で訴えかけてくる、北アメリカの自然。
命とは炎に似たるもの、命尽きるまで燃え続けるもの、そこに薪を一本投げ入れただけで激しく燃え上がるようなもの。
その薪を投じたのは、星野道夫という写真家だった。写真とともにエッセイも書かれていたが、ワタリガラス神話を収集するためアラスカを探検中、クマに襲われて不幸にもご落命された。
その時、私が手にした本は、その星野氏の最期の本、…と、いうより、未完成のエッセイに、事故の日まで書き綴られた手記を出版社が編集したものだったと思う。星野氏が生きていて、彼の手によって仕上げられていれば、どんなに素晴らしい本になっていただろう、と思うと残念でならないが、星の消えゆくように途切れ途切れに綴られた死直前のメモの、生の声が別の意味で、この本の文章に重い響きを与えていると思う。
もう一冊、私の手元にある本は、「ワタリガラスの謎」という、全く系統の違う自然科学の本である。
神話にも言及されているが、アプローチ法は星野氏とは全く違うし、神話の引用の仕方も全然違う。な
動物の生態を研究している学者にとって、ワタリガラスは「チト頭のいい珍しい鳥」でしかない。目に見えないものは認めない、データに裏づけされない結論は虚偽と同じ、という立場に立ってみれば、ワタリガラスが人になることはないし、人間に大いなる知恵を与えたかどうかは、疑わしいに違いない。
ワタリガラスの神秘性を全部剥ぎ取って、データの示す高度な知的習性を貼り付けるその態度に、実に見事な客観視の姿勢を感じずにはいられない。
対象となっているのは同じカラスなのに、片や神格化され、あがめられる神秘的な存在、かたや徹底的なまでに監視・記録され、行動パターンを分析にかけられる理論的存在。物事を説明するのに使われている方法が正反対。だが、私はそのどちらの本も面白いと思ったし、語られるワタリガラスの姿は、どちらも間違ってはいないと思った。
ありし日の視点と、現在の代表的な視点と。
空の旅人
はるか昔に読んだ本では、ここで主人公として語られているカラスは、「ワタリガラス」ではなく、「オオガラス」と表記されていた。
オオガラスと呼ばれるからには、、ワタリガラスは、かなり大柄な鳥だ。黒い鷲のようにも見える。
英語では主にRaven(レイブン)と表現される。日本では、北海道の一部にしか生息しない。
このワタリガラスに「ワタリ」とつくのは、もちろん、旅をする鳥だからだ。だが、季節ごとに群れ成して渡って来る、白鳥や雁のような鳥とは違うようだ。長距離を飛ぶことの出来る強い翼と、住処を追われれば、大陸を越えても新天地を目指して飛んでゆく行動力を指して、「ワタリ」の名をつけたのだとう。(デカいカラスが群れになって渡ってきたら、それだけで町じゅう大パニック。ヒッチコックの映画じゃないんだから…)
世界中に、さまざまな種類のワタリガラスがいるのは、旅好きだったワタリガラスの祖先たちが、新天地めざして散らばっていったからだろうか。
ゆえに、神話の中のワタリガラスたちが旅をするのは不思議なことではないし、遠くを旅してきた者が深い知恵を持つことは、不思議ではなかった。
ワタリガラスは、つねに知恵者だった。時には信頼の置けない、流れ者のようなイメージもありながら。
旅をすることは、おそらくワタリガラス神話が形成される上で、重要な要素だったと思う。
日本にもヤタガラスなど神格化されたカラスがいるが、それも、どちらかと言うと「神の御使い」=使いっ走りであって、自分から能動的に動く存在では無い感じがする。それというのも、群れ成してたむろっているカラスでしかなかったからではないだろうか。
インディアンの神話では、ワタリガラスたちは、常に自主的に動く自由な存在だった。(時には人の頼みも聞くかもしれないが)
神ではないため「救済者」とは呼べませんが、ある意味では「英雄」みたいなものではなかっただろうか。
ワタリガラスに象徴されるのは、誰にも出来ないことを、その翼と知恵とで実現してしまう存在であり、伝説となって語り継がれる先駆者である。
どこの地代にも、また、どこの国にも、そのような存在は居るもの。簡単そうに見えて、どんな小さなことだって、最初の一歩を踏み出すのはとても大変だ。集団から外れたことをしたがる者は、時折、人間離れして見えたり、何がしかの不思議な力を宿しているような見えたりする。
不自然に擬人化されたり、いつしか自分が鳥であったことさえ忘れてしまうような神々と違い、自分らしさを変化させないワタリガラスは、もしかしたら、神になることよりも、単なる生き物であることを選び、伝説の彼方に消えて行った実在の人間の影であったかもしれない。
共存の神話
ワタリガラスは、決して他の神話に言うような「神」ではなかった。
一方的に崇められ、人に何かを与える存在では無い。人々に知恵を与えたワタリガラスは、そのまま人間となって人々の家系に入り、「現在」を生きる子孫たちの血の中に受け継がれる「祖先」でもある。
世界の多くの神話・伝承が、権力者を神の子孫とすることによって支配の正当性を説こうとしたことからすれば、これは一見、奇妙なことに映るかもしれない。ワタリガラスやそのほかの神聖な動物たちを神とするならば、なぜ、一介の村人までがその子孫なのか。なぜ、部族の全ての人間が、神聖な血を受け継ぐ者なのか。
これは、神話が、支配とは別の目的を持って創られたからではないだろうか。
神が絶対的な支配力を持つならば、その子孫(王)もまた、支配力を受け継ぐ。しかし、支配者のいない部族には、支配的な神は、必要ない。
インディアンの各部族たちが権利を主張したかったのは、人間の群れからなる一つの王国や世界ではなく、「自然界そのもの」だったのではないだろうか。
自分たちの住む場所は、決して人間だけのものではない。そこに生きるカラスやクマやクジラ、それら全ての共有するものなのだと考えた上で、共に生きる者同士、当然の関係を結ぶ。ワタリガラスが村長となって村にとどまるのも、人間の娘がクマと結婚するのも、自然と人間とが別々ではなく、同一であることを示すための伝承ではないのか。
支配する権利を得るのではなく、「共存」する権利を得るための神話。それが、鳥や獣たちとの血縁神話ではないだろうか。
現実と神話が結びつくとき
全てを見、全てを知ることを、アイルランドでは”ワタリガラスの知恵”という。
ワタリガラス神話の中には、そのまま「ワタリガラスが世界を創造した」と、なっているものと、「世界の創造者から自由を勝ち取った」ものが存在するようだ。
最初に紹介した、星野氏が収集した神話は後者のものが多かったようだが、アメリカ人(つまり、インディアンを追い払った白人の子孫たち)が収集した話は、前者が多いような気がする。
それは、収集者がキリスト教徒だったことにも関係するかもしれない。
キリスト教は「絶対の創造主」が居て、そのお方が世界を創るという宗教だ。創造主が複数いたり、天地創造物語が無かったりする神話は、あるいは理解しがたい内容だった可能性がある。(つまり、内容の真意を取り違えたのではないか、と)
しかし、どちらのパターンにしても、ワタリガラスは、世界を創ろうと思っていたわけでも、人を助けようと思ったわけでも、ないらしい。
空を飛んでいて、「何か暗いなぁ」と思えば、星をちりばめてみる。気まぐれに地上に動物を作ったんだけど、作りそこなって人間というヘンな生き物を作ってしまう。その気まぐれさも、実際に生きているワタリガラスたちの生態からすると納得出来る。
自然科学的な視点で語られる、バーンド・ハインリッチ氏の本によれば、ワタリガラスは、「エモノを多くの動物と分け合う鳥」、なのだという。
死んでいるクマを見つけたとしても、カラスのくちばしでは、その分厚い毛皮を引き裂いて肉にありつくことは出来ない。そこでワタリガラスは、手近なところにいるオオカミを探し、連れてきて、毛皮を剥いでもらう。
オオカミに食べ物のありかを教えるかわり、自分も苦労することなく食べ物にありつける。
ハインリッチ氏によれば、このような行動こそ、かつてインディアンたちが言った「ワタリガラスについていけば獲物にありつける」という諺の裏付けなのだとか。
なるほど、翼を持つワタリガラスは、空から大地の全てを見渡せるわけだし、地面の上にいる人間やその他の動物たちよりは、はるかに「視界が広く」、「世界を識る者」でも、ある。
しかし同時にワタリガラスが獲物の居場所を教えてくれるのは、他者に恩恵をもちらすためではなく、自分が満腹したいがため、なので、ワタリガラスが「与えてくれる」行動に、人間への思いやりなんてものは無い。そのあたりも、神話での「身勝手さ」のイメージにつながっていく。
多くの動物崇拝神話と同じく、インディアンのワタリガラス神話も、実在する動物の生態を忠実に再現したものとなっている。
分かりやすく言うならば、荒々しいクマは力の神となり、頭のよいカラスは知恵の神となる…決して本質からは外れない。
現実のワタリガラスの気まぐれさ、自由さ、賢さを無視して、神話の中のワタリガラスだけが堅実で正直な存在に為ることは、在り得ない。自然に忠実で、人間の理想だけで歪めなかった、ありのままを受け入れる生き方が、この神話に現れているのだろう。
神話が形成された背景を理解する上では、単に神話を収集するだけではなく、彼のような観察手法も有効だといえるだろう。
ある一つの神話
それは、まだ世界に火が無かった時代。
火山の火を見つけたワタリガラスは、自分で危険を冒して取りにはいかず、勇敢な若いワシをつかまえて、「オマエ、ちょっと行って来いよ」と言う。「人々のために苦しむのだ。この世を救うために炎を持ち帰るのだ」と。
だが、ワタリガラスは、実は自分が温まりたかっただけかもしれない…
ワシが燃え尽きるかもしれないことを知っていて、面白がって言ったのかもしれない…。
真意は分からないが、
この神話で英雄になったのは、全身を炎に包まれながら命がけで帰ってきた若者であり、ワタリガラスは完全な傍観者である。
ゲームで喩えるなら、勇者に伝説の剣のありかは教えるが、取りに行くのを手伝ってはくれない大賢者のようなもの。
もしくは、世界を救う勇者様を村の利益のために理由をつけて使いっ走らせる長老。
だが、ワタリガラスの知恵が無ければ、世界は今だ光を持たず、火もなく、そもそも人間自体が誕生していなかったかもしれないのだから、侮ってはいけない。
RPGの賢者や長老だって、居なきゃ居ないで話が進まない。
ワタリガラス…、それは、勇者でも賢者でもなく、主人公が住む村の村長さんのような、ご近所にいる「はじまりの知恵者」のようなキャラクター。
決して主人公にはなれないけれど、話を、世界を動かし始める重要な人物。
そんな「彼」に、他の誰が、取って代われるだろう。
魂の帰還
ワタリガラス神話はインディアンの各部族に伝えられているものだが、エスキモーたちもまた、同じような神話を語りついでいるという。そこでのワタリガラスも、やはりインディアンのものと同じく、大いなる知恵を持ちながら、勝手気ままに振舞う…、という、現実の姿に即した形で描かれているそうだ。
彼らが、こんな神話を創造したのは何故なのか?
それは、最初のほうにも書いたとおり、その土地における「生存権の主張」のためだったと、私は思っている。
厳しい自然の中で、人はあまりに非力で、生きることもままならないような存在である。そんな中、人間だけを特別視して神格化するような神話が生まれることは、考えにくい。アラスカなど厳しい自然に囲まれた場所に住む人々は、自然との関わりの中で、つねに自分たちの思い上がりを戒められなくてはならなかったのではないだろうか。
彼らの神話は、自分たちがその土地に生きる者であることを証明するために作られている。
他人の言葉を借りて言うならば、「彼らは、神話に力を与えることで、その土地を所有する」。かつての日本人が。山の神様に祈りを捧げ、田んぼの神様に実りを乞い、その土地の所有権を認めてもらおうとしたのと同じように。
それは、人には自然を支配する力が無かった時代では、ごく当たり前だった感覚のはずだ。
ワタリガラス神話を受け継ぐ人々は、厳しい自然の中で、自分たちがワタリガラスやクマの子孫であること、その土地に住まう他の動物たちの仲間であることを物語として織り成すことで、自然界でのアイデンティティを確立することが出来たのではないだろうか。
それを裏付けるように、彼らは「人が血を流した場所は、永遠に人のものとなる」と言う。
たとえ何も痕跡が残っていなくとも、自分たちの祖先がかつて暮らしていた場所は、子孫たちに受け継がれた伝説の中で、永遠に彼らのものとなるのだと。
神話も伝承も、単なる物語ではなく、人の、何かを求める意思あってのものだと思う。
過去の人々が伝えたかったのは、決して「過去の事実」では無い。字面のままではない、伝承という形を取った「真実」、…人が辿ってきた精神世界の軌跡なのではないだろうか。そこには、人の心が見てきた風景が、いつまでも息づく。
神話を通して、人の魂はどこへ還っていくのか。どこに心の安らぎを求めるのか。
行ったこともない氷の大地と、灰色の空を舞う大きな黒い翼を思う時、冬の風は響きを変える。私は神話を受け継ぐ血筋の者ではないし、ワタリガラスの家系でもない。けれど、その神話は、支配のために作られたどんな神話とも違い、自分が小さな人間であると同時に、地上に生きる多くの生き物たちの仲間だということを証明してくれる。
人間は、神話の中ではワタリガラスが創るのに失敗した出来そこないの生き物だったけれど、美しい神話を語り継ぐことの出来る、唯一の存在である。
環境破壊だ、戦争だ汚職だ殺人だと悪いことばっかりな人間ですが、そう思うと、捨てたものでもない気がする…多少のなぐさめにしかならないとしても。
物語にも似た神話の世界を通して、たとえばこの私は、自分の魂が帰るべき場所を探しているのかもしれない。
・森と氷河と鯨-ワタリガラスの伝説を求めて- 星野道夫,世界文化社,1996
・ワタリガラスの謎 バーンド・ハインリッチ(渡辺政隆・訳),D.B.S,1995