「北欧神話の文字資料といえば、”エッダ”なんだよね。」
…と、いう言い方をしてしまうと、エッダという本は一冊しかないように思うかもしれないが、実は、エッダと呼ばれる書物は、同一の内容のものが複数ある。
これは、どんな文学にも言えることだが、印刷技術の無かった時代のあらゆる書物は、すべて手写しで、写すたびに少しずつ、装飾や文体が変化していた。
その意味で、近代以前の資料に完全な「オリジナル」は存在しない。 残っているものは、すべてオリジナルから何度か転写した、何世代めかの「写し」と、いうことになる。
また、途中が欠落している場合、別々の写本をつなぎ合わせ、欠けている部分を補って、一冊に直すことも少なくないのだ。(考古学で、出土品を修復する作業に似ているかもしれない…)
写本が複数あった場合、どれが最初の一冊にいちばん近いものなのかが論じられるのは勿論のこと、補完しあう場合においても、どれとどれをつなぎ合わせるのが妥当か、といったことが、学者たちによってひたすら論じられることになる。
ちなみに
「ニーベルンゲンの歌」の場合では、主要な写本が三つあったため、三つのうちどれがもっとも古い時代の、もっとも作者の書いたものに近いものかが、何十年にも渡って議論された結果、「B写本がもっとも大元に近い」という結論に達したという。
現在、全世界で出版されている「ニーベルンゲンの歌」はB写本を元にしたものだが、かつては、別の写本こそが真のニーベルンゲンの歌、と言われた時代もあったわけで、写本における「どれがもっとも原典に近いものか」は、時代が変れば覆される可能性を持っていると言えるだろう。
話を元に戻す。
「エッダ」で言うならば、有名な「巫女の予言」などは、学者にとって解釈に苦しむ題材と言えるかもしれない。
巫女の予言は、主に「王の写本」「ハウク本」「スノリのエッダ」という、三種類の別々の写本に登場するが、どれが一番元の形に近いのかについては、ずいぶん色々な論争がある。
通常、日本で「エッダに登場する巫女の予言」と言えば「王の写本」からの和訳を指して言っているようだが、「王の写本」からとられた「巫女の予言」がもっとも古いわけでも、もっとも原型に近いわけでもないようだ。(一般の読者が手にするような本でもないので、この違いはあまり気にされることがないかもしれないが。)
ところで、作者がはっきりしている「散文のエッダ」には、こういった混乱がないと思われるだろうか。
実は、スノリの書いた「散文のエッダ」にも、多数の写本が存在するのだ。著者が当時、高名な学者であり、本が多くの人に求められたことから、沢山の写しが取られたというのは、至極当たり前のことと言えよう。
最初にも書いたように、人の手で筆写された書物は、オリジナルとは少しずつ違ったものとなる。
散文エッダの場合、「ニーベルンゲンの歌」ほど写本ごとの大きな違いが無かったため、どれが最もオリジナルに近いものなのか、という点については、あまり討論する必要が無かっただけなのだ。
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神話に限らず、古代文学なら皆そうなのだが、「原典」とは、このように、たった一つの絶対のものが存在するのではなく、複数ある場合が少なくない。
日本語に訳されている資料が一冊の本にまとまっていたとしても、実は別々の本から取ってきた話で構成されていることも多い。
それゆえ、神話は「解釈次第」であり、解釈に裏づけをとろうとすると、あちこちに散らばった膨大な資料をかき集めることになり、果てしなく深い学問になり得るのである。
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ちなみに、この写真は、PCがブッ壊れる前にWebサイトのどっかからパチってきた画像です。どっから持ってきたか自分も忘れた。元サイトにチクらないでください。^
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