ニーベルンゲンの歌-Das Nibelungenlied

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古代北欧に源泉を求めて

<参考書より抜粋・まとめコラム 2000年度 −そのままコピペしてレポートに使うと、バレるのでヤメましょう♪>


 「ニーベルンゲンの歌」といえば、北欧神話の一種だといわれることも多いのですが、この物語が作られた時代は既に北欧神話の記憶自体がかなり薄れており、発祥地であるドイツは、民族は同じでも、いわゆる「北欧」とは異なった文化圏であったとする考え方があります。

 この考え方は、かつて、ドイツにも固有の神話が存在したのだという推測に基づいています。
 民族系統が同じで文化的な繋がりがありますから、ドイツ神話も北欧神話もモチーフが似通っているのは当然なのですが、デフォルメの仕方、とらえ方や細かな展開は違っています。
 たとえば、ドイツに断片的に残る神話では、北欧神話で神の子孫と見なされていたシグルドを、より人間に近い存在ジーフリトとして焼きなおそうとした試みが見られます。
 些細な違いといえばそうですが、この違いは、いわば、その国独自のアイデンティティに基づくものかもしれません。
 ドイツという国のアイデンティティと呼べる文学は、そう多くはありません。中でも、世界に誇れる文学といえば、「ニーベルンゲンの歌」と「ファウスト」のふたつだといわれています。
 様々な民族のいりまじるヨーロッパの中央にあって、幾度もの思想弾圧に言論の喪失を体験してきたドイツにとって、過去の遺産を守ることは、日本のような島国には想像もつかないほど難しいものであったかもしれません。
 現在では、「ニーベルンゲンの歌」はドイツに存在する唯一の神話だとさえ言われています。

 かつては、ドイツも北欧神話の神々の住む国の一つでした。
 しかし、キリスト教の布教が進むにつれ、神々は、急速に人々の手から離れていきます。世代を重ねるごとに古い神話は忘れ去られ、
 「ニーベルンゲンの歌」が作られた時代は、古い時代の神話が完全に過去のものとなろうとしていた最後の瞬間とも呼べる、13世紀初頭でした。物語の中で、キリスト教思想のつくる新しい世界と、ゲルマンの神々のつくる古い世界は不完全に入り混じり、キリスト教的な倫理観が語られながらも、ブリュンヒルデはワルキューレとしての性格を残し、ジーフリトは異教の英雄のまま、ハゲネやグンテルは、荒々しいゲルマンの理に基づいて戦う人々のままです。
 神無き神話…、「ニーベルンゲンの歌」は、神々が、その神性を失っていく過程で、いまだキリスト教の洗礼を受け切れていない状態なのです。

 人は、新しく与えられた文化を受け入れるのに、世代を重ねながら血肉としてゆく生き物なのだと言います。
 理性ではなく、本能の根底から、心の奥底で求めるものを変化させていくには、幾世代もの時を必要とする、精神の変容なのだそうです。
 1000年以上の時を経て、北欧神話は過去のものとなり、人々は、その神々がどこから来たのか、祖先たちがどのようにして神々を崇めたのかを忘れ去ってしまいました。

 彼らは一体どのような人々だったのか。
 彼らは、どこで生まれ、どこからやって来たのか。

 失われていた「ニーベルンゲンの歌」物語の再発見は、同時に、民族の過去の「再発見」でもありました。
 考えても見て下さい。もしも過去に日本の国が他国に占領されていて、神社や寺が完全に破壊され、過去の文化が根こそぎ失われていたら? 誰一人、日本の過去の文化を知りません。
 そんなときに、「枕草子」や「源氏物語」が「発見」されたなら…。
 それは、異教のものとして認識され、失われた過去の遺産としてしか映らないでしょう。それを書いた人々と、自分との間に連続性を見出すことは難しいかもしれません。
 「ニーベルンゲンの歌」の再発見は、ドイツの人々にとって、まさにこのような状況だったのではないでしょうか。
 失われていた物語の研究を通して、人々は、「失われた民族の記憶」を取り戻そうとしているのかもしれません。

 彼らは過去を辿り、糸をたぐり、祖先たちの綴る物語のはじまりを語ろうとします。
 それは、まだ古き神が息をしていた時代。
 最初の「エッダ」が編纂される8世紀よりはるか以前、347年、ゴート族の王エルマナリクが、フン族との争いの中で命を落とす場面にまで遡ります。


 かつて神話とは、与えられるものではなく、人々が自ら育てるものでした。
 同様に、神々もまた、そこに住む人々によって生み出されるものであり、人は、自ら生み出した神のもとで暮らしていたのです。
 当たり前なことながら、この、当たり前な前提を覆してしまったのが、キリスト教でした。
 3世紀からあと、1000年にも渡り続く弾圧の時代。その責任は、意外にアッサリ滅びてしまったローマ帝国だけに押し付けられるべきではないでしょう。
 文明は、時に固有の支配力を持つといいます。
 たぶん国の力ではなく、個人の支配者の力によるものでもないのでしょう。キリスト教の本質がどんなものであるかは、当時のヨーロッパを知らない日本人には、想像がつきにくいものです。

 しかしながら、自然界に存在してはならない完全なるものを神とし、理性によってのみ救済を説く宗教が、いかにして原始的、人間の本質的な考えを追い払っていったかは、哲学者の語るところです。
 支配下に入った民族からは、彼ら自身の持っていた神と神話が奪われていきました。荒々しいゲルマン神話も、まさにそのひとつです。理性の光の名のもとに、血なまぐさく、争いを好む物語は、原始的なものとして追い払われていったのです。

 神々さえもキリスト教の洗礼を受けさせられ、聖者や悪魔として組み込まれ、かつての、本来の性格を失い、片隅へと追いやられていく時代が長く続きました。
 しかしながら、「ニーベルンゲンの歌」が成立した12世紀初頭とは、十字軍遠征の号令により、神の名において、人間の最も根源的な、野生への回帰が認められた時代でもあります。理性の光は人間の本能を完全に打ち消すまでには至らず、民族の血の根底に眠る闘争本能や、刻みこまれた過去の神々の記憶までは否定出来なかった、ということでしょうか。

 新たな神の名を借りながら、人は、略奪の時代さながらに戦いに赴く。そんな時代で、詩人たちは密かに古き神々を蘇らせ、キリスト教の衣を着せたまま、新たな物語の中に生存させようとしたのでした。

 ゆえに、「ニーベルンゲンの歌」の中に登場する人々とは、かつてゲルマンの神話に描かれていた人々と本質的には変わりません。
 教会へ通い、ミサを受けようとも、その魂まではキリスト教の光に染まらない、遥か古えの世界に属する神であり、精霊であり、人間離れした英雄たちなのです。
 その証拠に彼らが神の名を口にするとき、それは形式上の神に過ぎず、人生の重要な部分においては何も意味を成しません。クリエムヒルトは神に祈らず、プリュンヒルトは殺人によって相手に罪を贖わせ、人々は、誇りのために死んでゆきます。
 登場人物たちを突き動かす衝動は、キリスト教の神によって認められたものではなく、古えの神々の理に他なりません。
 彼らが本当に住んでいたのは13世紀のドイツではなく、失われつつあった、民族としての本来の神話の世界なのです。


 どんな神話にも、喪失の時代はやって来ます。
 かつて被征服者であった人々が、新たな神に完全に帰依した時、古えの神々は、その信仰を失い、形骸化されていきました。詩人が「ニーベルンゲンの歌」を書いた時代からはるかに時は流れ、代を重ね、人々は、新たな神と神話を自らの血肉としてしまいました。
 失われた神話は蘇らず、消えた神々は二度と元の姿で戻って来ることはない…と、詩人たちなら語ったでしょうか。
 19世紀、ワグナーによって書かれた戯曲「ニーベルンゲンの指輪」でさえ、神話として全くの不完全で、かつての神話の形をなぞりながら、実際は単なる文学作品に過ぎない…と、批判する声さえあります。
 そこに登場するヴォータンは、もはやオーディンであった形跡はなく、フレイヤもフリッカも、ジークフリートも、単なる物語のキャラクターへと成り下がっており、神性は全くない、というのです。

 「神性を失った神話は、童話となって語り継がれる」。

 大人たちの手から零れ落ちた神話は、形を変え、無害な物語としてしか生き残ることは許されませんでした。神話はもはや神話ではなく、単なる物語となってしまいました。世界中に散らばる数多くの童話、「しらゆきひめ」や「シンデレラ」のようなよく知られた童話でさえも、かつては神々が織り成していた物語です。
 その中に、かつての神々の姿を追い求めることが出来るのは、限られた人々だけなのです。

 まだ心の内に完全な理性の光を持たぬ子供と、自ら進んで光を覆い隠す大人だけが、原始的な闇に包まれた神話の原型を蘇らせることが出来ると言います。
  その闇の中で、もはや弱々しい光しか持つことの出来なくなった古代の神々は、どのような輝きを放っているのでしょうか。本来の力を失い、「おひめさま」や「おうじさま」として画一化されてしまったかつての神々は、もう元には戻れないのでしょうか。

 「いま、我々は、神なき時代に生きている。」

 過去の偉大な哲学者のひとり、ニーチェの叫んだ「神なき時代」とは、単に、彼がキリスト教の神を信じたくなかったための言葉ではありませんでした。
 彼が言いたかったのは、各民族が本来持っていた神話の喪失であり、本来ドイツに在ったはずの神々の喪失なのです。
 彼の言う「神」は「神」であると同時に民族のアイデンティティを指し、民族に属する彼個人の根底でもありました。
 ツァラトゥストラを通じて、彼は、古えの神々を蘇らせ、自らの属する民族が育てた、かつての神話を、取り戻したかったのかもしれません。

 長い長い喪失の時代を通じて、ようやく失ったものに気付き始めた人々は、物語の中に、古き時代の神々の痕跡を捜し求めています。
 けれど、本当はもう遅いのです。
 いちど死んでしまった神話は、そのままの形で蘇ることはありません。

 だから、そのままの形をなぞることは、もしかしたら無意味なのかもしれません。
 掬い上げた泥の中から新しい形を作るように、この時代に生きるもの自身の手で、新しい物語を刻んでいくことこそ、実は、失われたものへ続く最短の道なのではないでしょうか。


 かつて、「ニーベルンゲンの歌」の作者が、そうしたように。





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