No. 65 西金砂神社

にしかなさじんじゃ

一言メモ 樹林にたたずむ神殿
市 町 村 常陸太田市
東  経 140.27.15.0
北  緯

36.39.14.4


 詳しい地図↓

 

最終更新日:2002.7.30.

  トップ  一覧  茨城のそのほか  茨城のそと  トピック別  日記帳  概要  更新履歴  リンク  プロファイル


イチョウと鳥居


歴史民族伝承館


拝殿


頂上の社殿


頂上からの見晴らし


西金砂山の断崖と頂上の社殿

【ここの概要(歴史、自然など)】

 この神社は大同元(806)年創建。天台宗の宝珠上人が日吉権現を祭ったのが始まり。社殿は京都の比叡山延暦寺の伽藍を模しているといわれている。
 歴史民族伝承館の向かい側の鳥居をくぐり、階段を上るときれいな拝殿があるが、更に奥へ行きたい。西金砂山の頂上には社殿があり、断崖絶壁の上から見る景色は足がすくむほどに見晴らしがよい。天気がよい日には富士山も見えるという。
 73年目ごとに大祭礼が催される。来年(H15/2003年)3月がそれにあたり、今現在準備の真っ最中。あちこちでポスターも見られるので、知っている方もいるのでは?

【行ってみた感想】 2001.12

 ここの見晴らしはかなり良い。頂上の神社近くにある展望台から下を見ると、本当に足がすくむ。茨城県内のハイキングコースとしても紹介されている。

【看板説明文】

● 金砂城址
 西金砂山は「頼朝の金砂攻め」として史上名高い金砂城址である。
 もっとも城とはいえ城郭を構えたものでなく、天険の山そのものが城であった。
 治承四年(一一八〇)十一月四日、源頼朝の佐竹氏討伐に、三代佐竹秀義は太田の本城を捨てて西金砂山に籠城・応戦。要害険阻なこの山に籠った秀義軍は、数千の強兵を相手に一歩も退くことなく奮戦、攻め手頼朝軍勢は雨霰れと降りかかる矢・石にうたれ苦戦、狭小絶壁の道なき道に進退ならず、放つ矢は敵に届かず、空しく矢をつがえて機を待つばかり。兵法に迷う激しい攻防の二日後、味方のスパイ行為によってついに落城した。
 尚この西金砂山は、南北朝争乱期に南朝方と激戦を交えた時の籠城の地となり、さらに応永十年から一〇〇年余にわたって繰り広げられた氏族山入氏義との内紛の折、佐竹義舜が籠城して死力を尽くした地であり、佐竹家初代昌義が尊信するようになってから、佐竹が西金砂山に籠城の都度戦いが有利に展開したので、金砂山は佐竹開運の山として崇敬された山であり神社であった。
  金砂郷町教育委員会

● 西金砂神社田楽舞
国指定 選択民俗芸能(昭和四十六年指定)
県指定 民俗芸能(昭和三十五年三月二十八日指定)
 平安朝頃より行われた舞踊で、元来田植の折に畔に立って胸に太鼓をつけた者が、太鼓を打ちならし田植唄の伴奏をしたものであるが、後には神社仏閣に於いてその祭事に奉納芸術として伝わった。
祭事
一、磯出大祭礼(大田楽)七十三年目毎執行
  昭和六年第十六回目大祭礼執行
二、小祭礼(小田楽)七年目毎執行
  公開演技を行う
田楽舞内容
 四方がため・獅子舞、種子蒔き・一本高足
県指定 天然記念物
一、西金砂のイチョウ 一株
  根本周十二メートル 目通り八.二メートル
二、西金砂のサワラ 一株
  根本周十二メートル 目通り六.五メートル

【備考】

 関連サイト: 茨城県林業技術センター   
  トップ  一覧  茨城のそのほか  茨城のそと  トピック別  日記帳  概要  更新履歴  リンク  プロファイル