【ここの概要(歴史、自然など)】
1180(治承4)年頃、源頼朝の下で朝光がここに本拠を構え、以来、1601(慶長6)年の国替えまで、約400年17代に渡り、結城氏として勢力をふるった場所である。その間、11代氏朝が、1440(永享12)年から約1年に渡り幕府を相手に戦ったが、破れた(結城合戦)。その後、そのときに助けた鎌倉公方足利持氏の子成氏が、1449(宝徳元)年に氏朝の子をして結城氏を再興させた。
結城は紬で有名でもある。この地は古代から織物で有名で、室町時代に結城氏から幕府に紬が献上されたことから結城紬を呼ばれるようになった。
このように歴史の古い土地柄であるため、古い寺社が数多く残っている。地図を見るとびっくりするくらい。それぞれ、何らかの形で結城氏や徳川などにゆかりを持っているようだ。
【行ってみた感想】 2002.12
茨城百選の中で、このスポットほど漠然としているものはない。行こうとするたびに、どこに行ったものか悩んでしまう。そこで、今回、行く前に丹念にインターネットで情報を集めてみた。が、あんまりピンと来るものがない。そのなかで、参考にしたのはここ。実際には、行ったときは雨が降っていたので、車での移動となり、そのため、すぐ近くに駐車場のないところには行けなかった。
さて、車で各駐車場を起点に巡っても悪くはないのだろうが、百選の雰囲気を味わうためには歩いて巡るのが一番だろう。なにぶんにも、町全体が歴史的な雰囲気を醸し出していて、ちょっとした普通の民家も、なんとなく歴史的な感じがする。
その際には、是非とも地図をちゃんと持っておこう。
なお、ここで紹介した以外にも歴史的な寺社は(たくさん)あるので、時間をかけてゆっくり巡ってもらいたい。
【看板説明文】
● 結城市指定史跡 結城城跡
結城城は治承年間(一一七七〜一一八〇年)に結城朝光が築いたとされるが確証はない。むしろ南北朝動乱期に築城されたと見るべきであろう。
その後、結城家は室町時代に関東八家の一に列して勢力をふるい、戦国時代には宇都宮・佐竹氏らと伍して生き残り、天正一九年(一五九一年)徳川家康の二男秀康を一七代晴朝の養子にもらい受け、慶長六年(一六〇一年)越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた。
結城氏の転出後、結城城は廃城となったが、元禄一三年(一七〇〇年)水野勝長(一八〇〇〇石)の入部によって再興され、明治に至るまで水野家の居城となった。
結城の名を不朽にしたのは永享一二年(一四四〇年)の結城合戦である。関東公方足利持氏が将軍義教と争って滅ぶと結城家十一代氏朝(一四〇二〜一四四一年)は、持氏の遺児春王丸を奉じて兵を挙げた。
幕府は諸将に氏朝らの討伐を命じたが、結城落城まで一年余の歳月を費やし、結城の名を天下に轟かす結果となったのである。
結城氏教育委員会/贈 結城ロータリークラブ/平成九年四月四日建立
● 乗国寺
見龍山覚心院乗国寺と称し、宝徳元年(一四四九年)結城家十三代成朝公が結城城合戦で戦死した十二代持朝公の菩提をとむらうために松庵宗英を招いて建立したと伝えられています。
創建当時は現在の場所とはちがい、鬼怒川・田川に挟まれた常陸、下野、下総の三国にまたがり建てられていたことから三国山の号を有していました。
一四七九年に大洪水により寺地が流失したため現在の地に移建され、「見龍山乗国寺」と改称され今日に至っています。
結城家とは密接な関係に在り、千四百石の寺領を有した時期もありました。
当時に伝わる文化財には、建造物として「三門<桜門>」、「四脚門」等があり、いずれも市指定文化財になっています。
● (武家時代文化ライン) 称名寺
浄土真宗の名刹、新居山称名寺は、鎌倉時代のはじめ頃親鸞聖人の教えを信仰した結城家初代の武将朝光が聖人の高弟真仏を開基として建立したもので、称名の寺号は朝光が出家して、親鸞から賜わった法名によったものという。
真仏は常陸の豪族平国香の血をひく真壁城主平晴時の出家後の名である。
寺には朝光から結城家四代までの墓と恵心僧都(源信)の「往生要集」と片仮名交りにしたものがあり、親鸞の自筆で茨城県文化財に指定されている。/結城市
● 弘経寺
寿亀山弘経寺は、浄土宗の名刹で桃山時代の文禄四年(一五九五)結城家十八代の城主秀康(徳川家康の子)がその息女松姫追善供養のため飯沼(水海道市)の弘経寺の住職檀誉上人を招いて建立したと伝えられ、のち浄土宗の学問所関東十八檀林の一つに数えられ、広くその名を知られました。
寺には、江戸時代の俳人、与謝蕪村が滞在中描いたすぐれた「襖絵」や室町時代作の「当麻曼陀羅」があり、ともに茨城県文化財に指定されています。
また市指定文化財となっている史跡「砂岡雁宕の墓」があります。
なお、境内には蕪村の句碑「肌寒し己が毛を噛む木葉経」がある。
結城氏教育委員会
【備考】
(ばしょによる)
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