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三木秀夫法律事務所
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ニュース六法目次
桐生一高野球部員事件で高野連が出場を承認(2008年08月01日)連帯責
○日本高校野球連盟(脇村春夫会長)は1日、大阪市内で全国理事会を開き、2年生の野球部員が強制わいせつ容疑で逮捕された桐生第一(群馬)について、2日に開幕する第90回全国高校野球選手権記念大会への出場を認めることを決めた。また日本高野連などによる大会本部は1日、青柳正志野球部長(53)を更迭し、桑原孝規コーチ(29)を後任とする桐生第一からの届け出を受理した。

日本高野連は7月31日に同校から事件に関する報告を受け、「対外試合を差し止める必要はない」との判断を示していた。しかし、この日の理事会では「高校野球にとってあってはならない事件」「万引きやバイク無免許運転などの非行と同列に考えていいのか」との意見もあったという。このため桐生第一の高橋昇校長に対し、被害者への謝罪と再発防止などの努力を求める要望書を出すことを決めた。

理事会後に記者会見した脇村会長は「事件を決して軽視したわけではなく、被害を受けた方の心の痛みを思うと慙愧(ざんき)に堪えない。野球部員が関与したことを重く受け止め、再発防止に全国の加盟校と一丸となって取り組みたい」と語った。(毎日新聞 2008年8月2日 大阪朝刊)

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○野球部員が強制わいせつ容疑で逮捕された桐生第一高校について、全国大会への出場を認めるかどうかが問題となっていたが、幸いなことに認められた。発生した事件そのものは許せないものではあり、被害者女性には気の毒な事件であり、実行犯自体はきっちりと謝罪し反省すべきである。しかし、今回の事件は帰宅後の私的な時間帯に起きており、責任のない他の生徒たちに対して連帯責任を問い、せっかく勝ち取った出場を断念させることの理不尽さ、非条理からして、出場を認めることは当然の判断と思う。

「事件があったのに辞退せず出た高校」だと言われながら出場する生徒たちは、一面でつらいことだろうとは思うが、ぜひこの騒ぎに惑わされず、日頃の練習を最大限生かしたプレーをして活躍をしてほしいものである。

○以前は、こういった不祥事に対しての「連帯責任」が声高に言われ、それを負うことが長く当然のこととされてきた。牧野前会長の頃から、非常に遅まきながら、こういった前近代的な連帯責任は、ようやくに緩和されてきた。ここ最近の傾向としては、不祥事が「その野球部全体の体質」であると判断された場合にだけに限定する方向にある。報道では「5人」を目安としているとのことである。

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○連帯責任とは
法律用語として連帯責任を使う場合は、例えば法人における「役員の連帯責任」というように、不正の未然防止のための相互監視を促すシステムとして、管理責任を負う者同士がともに責任を負う場面で、各自がそれぞぞれ全額について責任を負うという意味で使用する。

しかし、今回のような場面で使用される連帯責任とは、複数の人間が、責任発生の直接の原因となる行為をしているか否かにかかわらず共同で同じ責任を負うことをいうものと考えられる。

こういった「連帯責任」制は、古代の「大宝律令」から江戸時代の「五人組」や「切腹」行為、近くは戦時中の「隣組」まで、日本の歴史の上では多数見うけられる。 

○連帯責任と教育
そもそも、この連帯責任という言葉や考え方は、軍隊や教育現場で残ってきた教育方法であり、互いに支えあうという精神からのものであろうが、現実には当事者がいじめられるだけの場合がほとんどであり、現代の教育場面で使うのは問題が多すぎる。しかし、いまだに時代錯誤的な一部教育者によりこの言葉が生き残っており、残念なことにスポーツ教育者においては、この考え方が大勢を占めてきたように思えてならない。高野連は「高校野球は教育の一環だから」と何かにつけて言い、連帯責任を口に出すが、教育だからどんな連帯責任を負わしてもいいというのは、極めて前時代的な発想である。ルールとフェアプレイを重視するスポーツにおいては、違反に対するペナルティは合理的でなければならない。
 
そもそも、誰か一人のせいで責任を負う必要が無い立場の人間や関係ない人たちまでもが責任を取ることは非条理である。何でも「連帯責任」という名の下に、その組織全体に「けじめ」をつけさせてよしとして、全員に「切腹の美学」を押しつける馬鹿さ加減は、教育的意味がない以上に害がある。「責任の所在が曖昧になる」のが一番の問題で、直接の責任がない生徒にペナルティを課すことに、果たしてどれほどの教育的効果があるのだろうか。悪いことをした者は、その者自身に罰を課して悔い改めさせることに意味はあるが、「仲間に迷惑がかかるから悪いことはするな」という教育は、「悪いこと」の意味を根本から考えていないという意味で、全く教育の本質からずれている。

○スポーツのチームワークと連座制
今回の問題をマスコミは「連帯責任」という言葉で表現しているが、ここでいう他の生徒へのペナルティは「連座制」と表現したほうが正しいと考える。

「連座制」は公職選挙法で、運動員の行った選挙違反に対して、候補者が当選を失うというものであり、運動員のしたことだとしての逃げ得を許さない制度で、当選という目的のために利害関係が完全に一致する集団内で行われた違反行為に対してのものであって、その合理性は高い。しかし、高野連が行ってきたような「連座制」は、むしろ、かつて、一人の犯罪に対して一族郎党ともに死刑が課せられたものに等しい。これほど理不尽で残虐な刑罰はない。スポーツのチームワークと連座制は全く別次元である。

○自己責任と連座制
近代法の原則に「自己責任」という考え方がある。これは、「各人は、自己の行為についてだけ責任を負い、他人の行為については責任を負わないという近代法の原則で、過失責任主義とともに、個人の活動の自由を保障する機能を営んでいる。」(有斐閣・法律学小辞典第4版から)

古代や中世においては、一族の者が何か問題を起こした場合に、同じ一族の者が連座して責任を負わされたりした過去を改め、人は一人一人独立した主体で、他人が行った行為については責任を負わなくてよいというもので、これによって、たとえ親や兄弟が他人の財産身体に損害を与えたにしても法的な責任は負わないという考え方である。

かつて、長崎市で発生した少年犯罪事件に対して「親なんか市中引き回しの上、打ち首にすればいいんだ」と、ある大臣が発言したことが物議をかもしたが、これこそこの自己責任原則に真っ向から逆らう発言であった。

高校野球をはじめ、学校で不祥事が生じた際に問われる連帯責任は、まさにこの古代・中世での旧態依然とした非自己責任的発想から流れてきていると考えるが、どうであろうか。

この「各人は、自己の行為についてだけ責任を負い、他人の行為については責任を負わないという近代法の原則=自己責任」という考え方からいけば、野球部全体として個人の不祥事の責任をとらなければならないのは、「他の野球部員各自が自己の行為として関わった中で不祥事が生じた」と評価できた場合であろう。この「自己の行為」には、目にしていて止めなかったという意味での不作為行為まで含むものであるが、それが他の個人の行為にどこまで「関わった」と評価し得るのかが問題となろう。

今回のように、部員の私生活の場面で発生した場合には、関与性は極めて薄くなる。なぜかと言えば、もし「部員が起こした私生活も含むあらゆる不祥事の責任を負う」という立場を取るならば、必然的に、部員は、他の部員の私生活のすべての場面で監視し、介入しなければならないことになる。

万一そういうことになれば、まさに、現代の自由主義・個人主義でなく「全体主義」そのものである。部員の私生活の自由は、完全に失われ、基本的人権という理念は全く排除されてしまうこととなる。私生活上のことまで、他の部員が監視し、その責任を負わされるような社会になってはならないと思う。
                                            弁護士 三木秀夫

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