エドウィン・S・ポーターが始めたカッティング技術を更に進化させ、映画を芸術の域にまで高めたのが、云わずと知れたD・W・グリフィスである。
ポーターが『大列車強盗』で用いたクローズアップは、あくまで観客の奇を衒うことを目的としたものに過ぎなかった。しかるに、グリフィスは物語を語るためにこれを活用した。例えば、表情のクローズアップを挿入することで、登場人物の心理面を表現したのである。これを見たプロデューサーが不平を述べた。
「どうして全身を映さないんだ。つま先まで金を払ってるんだぞ」
ところが、観客の心は大きく動かされた。映画の中の人物に初めて感情移入したのである。その意味でグリフィスを「アメリカ映画の父」と呼ぶのはあながち間違いではない。彼が今日の映画の原形を作り上げたことは紛れもない事実だからだ。
しかし、私はグリフィスという男があまり好きではない。『國民の創生』の中でKKKを美化しているからだ。いくら南部の出身とはいえ、思想的にかなり片寄っている。
そして、彼には芸術家としての奢りが感じられる。その最たる例が『イントレランス』だ。
作品的な評価はともかくビジネスとして見た場合、『イントレランス』は間違いなく失敗作である。1巻ものの短編が主流だった時代に12巻180分という異例の長さ。投じた費用は250万ドルというから頭抜けている。ところが、複雑な構成ゆえに大衆からはそっぽを向かれ、興業は惨澹たる結果に終わった。芸術家としての奢りが見事に空回りしたのである。
多額の負債を抱えたグリフィスは、オープン・セットを解体する費用を捻出することが出来なかった。現代に再現されたバビロンの都は10年以上も放置され、「ハリウッド・バビロン」と呼ばれてハリウッドの象徴となった。かくして悪徳の都ハリウッドは、バビロンの残骸と共に歴史にその名を刻んだのである。
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