ロスコー・アーバックル 《主な出演作》 |
チャップリンと共演するアーバックル |
ロスコー・アーバックルという名前のコメディアンを諸君は御存知であろうか?。「でぶ君」の愛称で我が国でも親しまれ、全盛期にはあのチャールズ・チャップリンと人気を二分にしたという。サーカス芸人だったバスター・キートンに映画入りを勧めたのも彼である。淀川長治氏によれば「ニコニコ大会」という当時の活動喜劇フェスティバルでは、アーバックル、チャップリン、ロイド、そしてキートンの4人のフィルムがかからないと観客は納得しなかったという。ところが、現在、喜劇王といえばチャップリン、ロイド、キートンの3人とされている。アーバックルは何処に行ったのだ?。 ロスコー・アーバックル、通称「ファッティ・アーバックル」は1887年3月24日、カンサス州スミスセンターに生まれた。ホテルの雑役夫からボードヴィルの芸人に転身。150キロの巨体に似合わぬ鋭敏な動きで人気者となり、「ドタバタ喜劇の父」マック・セネットにスカウトされてキーストンに入社。キーストン映画名物のドタバタ警官隊「キーストン・コップス」の一員として活躍した後、主役に抜擢。チャップリンと共にキーストン喜劇を支える大スターへと成長する。 |
ヴァージニア・ラップ |
さて、ここでヴァージニア・ラップという無名女優が登場する。シカゴ生まれの25歳。写真で見る限り、清楚な感じの美人である。 一方、アーバックルはというと、その頃にはセネットの下を離れてパラマウントと契約、長篇の製作に乗り出していた。契約金は当時としては破格の300万ドル。これで浮かれぬ者はいない。サンフランシスコのセント・フランシス・ホテルで盛大なるパーティが催された。しかし、このパーティーの後、アーバックルの新作は一切撮られていない。 |
キーストン・コップス時代のアーバックル(右) |
でぶ君は予てからヴァージニア嬢にモノにしようと挑んでいた。しかし、彼女も一応は相手を選ぶようで、でぶの誘いには応じなかった。 1921年9月5日月曜日。土曜日の夜遅くから始められたパーティーはまだ続いていた。ゲストは50人に膨れ上がり、パジャマとバスローブ、スリッパがけのホストは泥酔。ヴァージニアを含めた娘たちも御同様で、中にはトップレスで踊り出す者もいたという。 数分後、ベッドルームからの金切り声でパーティーの喧噪は途絶える。ヴァージニアの友人、バンビーナ・デルモントはベッドルームに走るとドアの取っ手を掴んで叫ぶ。 |
タブロイド製「アーバックルズ・ボトル」 セント・フランシス1221号室:騒乱のあと |
と、ここまでが前掲『ハリウッド・バビロン』の記述をもとにした「事のあらまし」である。そして、これが当時のタブロイド誌や、果てはメジャーな新聞までもが書き立てた「真相」だった。記者たちは膀胱破裂の原因をアーバックルの変態性戯と決めつけた。曰く、拒絶されて腹を立てたアーバックルがコカコーラの瓶をぶち込んだとか、いや、シャンパンの瓶だったとか、実は氷で責めたのだとか。 《検視官マイケル・ブラウンのもとに病院から不審な電話が入った。そこで何事が起きているのかと調べに行ったブラウンが目にしたのは、懸命なもみ消し工作だった。折りしもガラス容器を持った雑役夫がエレベータを降り、焼却炉に向かっていた。容器に中に入っていたのは、傷ついたバージニアの局部だった》 少々劇的に過ぎる。とても真実とは思えない。 《ヴァージニアはトイレを我慢していた。そのために膀胱がぱんぱんだった。その体にアーバックルが全体重をかけてのしかかった。ヴァージニアの膀胱は風船のように破裂した》 しかし、これも真実ではない。 |
バンビーナ・デルモント アーバックルの逮捕を伝えるハーストの新聞 |
まず、先ほどの「真相」をもう一度読み返して頂きたい。当事者以外に実名の者が登場していることにお気づきであろう。そう。「ヴァージニア、どうしたの!」とドアの取っ手を掴んで叫んだ、自称「ヴァージニアの友人」、バンビーナ・デルモントこそ、先ほどの「真相」を警察やマスコミに語った人物なのである。 では、どうしてそのような胡散臭い人物の話を鵜呑みにしてしまったのか?。 かたや、検察はアーバックルの容疑に予断を持って臨んでいた(理由は後述)。とにかく、デルモントの証言を信じたかった。そして、これに基づき、アーバックルの訴追が決定された。 |
ヴァージニア・ラップの墓 証人席のロスコー・アーバックル |
では、ヴァージニア・ラップは何故に死んだのか? この疑問に答える前に、彼女の悲惨な生い立ちについて触れておかなければならない。 「その日、私は友人のメイ・トーブ(ビリー・サンデーの義理の娘)との約束がありました。パーティーはまだ続いていましたが、私は彼女と落ち合うために出掛けることにしました。午後3時頃のことです」 ビリー・サンデーは禁酒法の成立に貢献した「元大リーガーの伝道師」である。酒飲んでどんちゃん騒ぎのパーティーから、その酒を禁止した男の娘に会いに行くとは、これまた皮肉なはなしだ。 「服を着替えるためにバスルームに入ると、ラップさんがトイレの前で倒れていました。吐いていました。私が彼女を抱きかかえると、また吐きました。腰を支えてトイレの中に吐かせました。それから寝室へと運び、ベッドの上に寝かせました。 皆に引き上げられたヴァージニアは取り乱して、己れのドレスを引きちぎり始めた。これが膀胱炎の発作に基づくものなのか、それとも単に酒癖が悪いだけなのかは判らない。とにかく、周囲の者は酒癖が悪いだけと判断。バスルームに連れて行くと、酔いを醒ますために浴槽の冷水に浸けた。 ヴァージニアが入院したのは3日後の9月8日のことである。それまではホテルの医師にモルヒネを投与されただけで、ベッドの上に放置された。しかも入院したのはデルモントが呼んだ医師、メルヴィル・ラムウェルの診療所だった。総合病院ではない。産婦人科だ。 |
オリーヴ・トーマス |
さて、それではアーバックルはどうして、物証もないのに、いい加減な証言だけで起訴されたのか?(検察はどうして、アーバックルの事件に予断を持って臨んだのか?)。 1920年9月10日、一人のうら若き女性がパリのホテルで塩化水銀を飲んで自殺した。彼女の名はオリーヴ・トーマス。清純だがお転婆な「アメリカの妹」として人気を博した国民的アイドルだった。しかも、彼女は大女優メアリー・ピックフォードの弟ジャック・ピックフォードと結婚したばかりだ。自殺の原因など到底考えられなかった。 この事実を知った合衆国市民は愕然とした。そして、可愛い妹をジャンキーにした悪魔を怨んだ。 |
アーバックルのマグショット |
しかし、陪審員は極めて冷静だった。物証がなく、証人もいいかげんであることを知ると無罪を評決。アーバックルに対して以下のような声明文を読み上げた。 事件から実に12年を経た1933年6月29日、我らが「でぶ君」はようやくワーナーから短編喜劇の仕事を依頼される。この祝いの宴がニューヨークで催された。その晩、帰宅した彼は心臓発作で急死。享年46歳だった。 |
参考資料 |
『ハリウッド・バビロン』ケネス・アンガー著(リブロポート) |