ピーター・クイーンはアルコールの問題を抱えていた。彼自身が飲むわけではない。まず、妻が酒に溺れ、次いで、愛人までもが引きずられるように溺れてしまったのである。
ピーターが結婚したのは20歳の時だった。だが、結婚生活は僅か2年で破綻した。前述の如く、妻が酒浸りの日々を送っていたからだ。それでも離婚しなかったのは宗教上の理由があったのかも知れない。とにかく、クイーン夫妻は離婚することなく別居した。
実家に戻ったピーターは、やがて乳母のクリスティーン・ガルと恋仲になった(彼女は年少の弟や妹の面倒を見ていた)。ピーターは当時24歳、クリスティーンは21歳である。この年齢の男女が一つ屋根の下で暮らすのだから、デキない方がおかしいだろう。不倫の関係がしばらく続き、「夫婦」として独立の家を持ったのは6年後、1931年のことである。
その頃にはクリスティーンは既に酒に溺れていた。正妻がいる男の愛人であることに良心の呵責を感じていたのだ。そのことを紛らわすために酒を飲み、泥酔しては醜態を晒し、酔いが醒めたら己れを恥じて、紛らわすために酒を飲む。この繰り返しの日々を送っていたのである。自殺を仄めかすこともしばしばだった。
1930年11月20日午後2時30分頃、友人のジョンソン夫人がクイーン家を訪問した。クリスティーンはいつものように泥酔しており「死にたい、死にたい」と呟いていた。その10分後、ピーターが帰宅した。夫人は彼を叱りつけた。
「このままじゃ駄目よ! 彼女を医者に診せなさい!」
しかし、世間体を気にしてか、ピーターは医者に診せることに乗り気ではなかった。ジョンソン夫人は一旦帰宅し、午後4時頃に夫と共に再訪問した。
「いいか、ピーター。世間体を気にしている場合じゃないぞ。このままではクリスティーンは本当に死んでしまう」
夫妻の熱心な説得を受けて、ピーターは渋々ながらも約束した。
「判ったよ。明日、医者に診てもらうよ」
やがて眠っていたクリスティーンが目を覚まし、夫妻と共に食事を摂った。先ほどよりは落ち着いているようだった。
「いいか。必ず明日、医者に診せるんだぞ」
ピーターに念を押して、ジョンソン夫妻が帰宅したのは午後11時頃のことである。
その4時間後の午前3時頃、ピーターが最寄りの交番に駆け込み、机の上に鍵を置いて云った。
「ダンバートン・ロード539に来て下さい。私の妻が死んでいます。私が彼女を殺したとは思わないで下さい」
(Go to 539 Dumbarton Road. I think you will find my wife dead. Don’t think I have killed her.)
実はこの言葉の最後の部分は後に法廷で争われることになる。交番にいた2人の警官はこのように聞こえたと証言したのだ。
「私が彼女を殺したのだと思います」
(I think I have killed her.)
その真偽はともかく、現場に急行した警官は、ベッドの上に横たわるクリスティーンの遺体を発見した。その首は物干し綱で絞められ、舌が飛び出している。状況的にはどう見ても絞殺体である。ピーターが容疑者として逮捕されたのは云うまでもない。
法廷における争点は「他殺か自殺か?」だった。クリスティーンが抵抗した痕跡がなかったことから、高名な法医学者であるバーナード・スピルズベリー卿とシドニー・スミスは「自殺」であると断言した。それでも陪審員が他殺と判断したのは、ピーターの「冷静な態度」に原因があった。
仮に自殺であったとして、どうして彼は物干し綱を解かなかったのか?
また、どうして彼は交番に駆け込む前に医者を呼ばなかったのか?
もう心臓が止まっていると判った時点で、綱を解いても、医者を呼んでも意味がないんだけどね。だから、現状を維持して警察を呼んだピーターの行動は正しかったのだが、そのことが却って心象を悪くしてしまったのだ。
かくして、ピーター・クイーンは有罪と評決されたが、情状が斟酌されて終身刑に留まった。そして、仮釈放された数年後の1958年に死亡している。
冤罪とまでは断言出来ないが、その可能性が極めて高い事件である。
(2012年11月3日/岸田裁月)
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