ロバート・ギャロウは1936年3月4日、ニューヨーク州北部のダンネモラで生まれた。鉱夫の父親は大酒飲みで、日頃の不満を子供たちにぶつけた。本来ならば母親が彼らを守るべきである。ところが、この母親(身長150cmで体重120kg)が父親よりも凶悪で、何かと子供たちに体罰を加えた。少年時代のギャロウは毎日のようにベルトやバール、時には煉瓦で殴られていたのである。後に法廷で、彼の妹はこのように証言している。
「或る日、母親はストーブの焚き木でロバートの頭を思いっきり殴り、彼は意識を失いました。私は死んだのかと思いました」
7歳の時、ギャロウは近所の農家に働きに出された。その給金はすべて母親がガメていたというから酷い話だ。奴隷同然の扱いだったのである。
学校に通うことは許されず、故に友達は一人もいない。交友を深める相手は家畜しかいなかった。そして、やがて思春期を迎えた彼は家畜と恋愛したのである。牛と。馬と。羊と。犬と。
プラトニックにじゃないよ。フィジカルにだよ。
また、彼は法廷でこのように告白している。
「私はよく牛の搾乳機を自分に用いていました…判りますよね。それで自慰をしていたんです」
いやはや、凄まじい少年時代である。こんな生活が8年も続いた。そして、15歳の時に口論の末に父親を殴り、教護院に収容された。
1年後、釈放されたギャロウは空軍に志願入隊した。鬼畜の両親から解放されて、さぞかしバラ色の人生かと思いきや、そうでもなかった。まず、夜尿症がバレて笑い者になった。更に、上官の金をくすねたことがバレて、軍法会議にかけられて6ケ月の禁固刑を云い渡された。身から出た錆とはいえ踏んだり蹴ったりである。フロリダの軍事刑務所に収容されたギャロウは、やがて脱走を試みるが、数日後には逮捕された。そして、1年の刑が追加されて、より警備の厳しいジョージアの軍事刑務所に移送された。
2年にも満たない空軍生活の殆どを獄中で過ごしていたのである。
釈放後、故郷のニューヨーク州北部に戻ったギャロウは、様々な職を転々とした。いずれも長続きしなかった。
1957年6月にはイーディスという女性と結婚した。彼女はギャロウが肉体関係を持った最初の女性だった、人間の。
やがて一人息子が生まれるが、ギャロウの生活態度は悪くなる一方だった。後に彼が法廷で語ったところによれば、この頃に或る男と倒錯的な同性愛の関係に至っている。
「私はかなりいい体をしていたんです。彼は地下室で私の裸の写真に撮りました。そして、様々なことをしました。私が逆らうと、彼は私を鞭で打ち据えました。その痕は今でも背中に残っています」
その後、ギャロウは勤務先のファストフード店で金をちょろまかして解雇された。そして、1961年には少女を強姦した容疑で逮捕され、10年から20年の刑を云い渡された。
7年後の1968年にギャロウは仮釈放されたが、更正は全くしていなかった。その後もシラキュース近辺で強姦を繰り返していたのである。
1973年5月31日、ギャロウは自らを警官と偽り、2人の少女(9歳と11歳)を誘拐し、林の中に連れ込むと3時間にも渡って性的に虐待した。間もなく彼は逮捕されたが、保釈中に逃亡し、指名手配された。
逃亡中のギャロウは大胆にも犯行を繰り返した。しかも、その犯行は凶悪になる一方だった。
1973年7月11日、ギャロウはヒッチハイクをしていた高校生、アリシア・ハウク(16)をライフルで脅して強姦し、彼女が逃げようとすると、その胸にナイフを突き立てて殺害した。遺体は現場のオークウッド墓地に遺棄されていた。
9日後の7月20日、ウェヴァータウンのキャンプ地でダニエル・ポーター(22)の遺体が発見された。彼は木に縛られ、ナイフで胸を刺されていた。ギャロウがキャンプ中のカップルを襲い、ダニエルを殺害後、その恋人であるスーザン・ペッツ(20)を誘拐したのである。彼女はその後、4日に渡って強姦され、最終的に殺害された。ギャロウ曰く、
「私がナイフを落すと、彼女はそれを拾って私に向けたんです。揉み合いになりました。そして、私はナイフを奪い返すと、彼女に突き立てました」
スーザンの遺体はマインヴィルの炭坑跡に遺棄されていた。
9日後の7月29日、ウェルズ近郊のキャンプ地で高校生のフィリップ・ドンブレウスキが殺害された。彼は3人の友人(うち2人は女性)とキャンプをしていたのだが、テントで就寝中にギャロウにライフルで脅されて、4人とも木に縛られて、フィリップだけがナイフで刺し殺されたのだ。どうやら、彼が最も反抗的だったようだ。
ギャロウの目的はガソリンを得ることだった。ところが、間もなく警察犬の吠える声が聞こえた。追っ手がすぐそこにまで迫っていたのだ。ギャロウは何も盗むことなく、慌ててその場から逃げ去った。
11日後の8月10日、ギャロウはマインヴィルの森の中でようやく逮捕された。彼はライフルで武装していたために警官たちの銃撃を受け、背中と脚と左腕を負傷した。
かくして、車椅子で出廷したギャロウは精神異常を主張し、自らの過酷な幼少期や、獣姦等の恥ずかしい過去を暴露したわけだが、認められることなく有罪となり、25年以上の終身刑を宣告された。
1978年9月8日、フィッシュキル刑務所に収容されていたギャロウは、当時18歳の息子を通じて32口径の自動拳銃を入手し(差し入れのフライドチキンに紛れ込ませていたらしい)、まんまと脱獄することに成功した。
当初は故郷のニューヨーク州北部に逃亡したと思われていたが、意外なことに刑務所から僅か数百メートルの森の中に潜伏していた。穴を掘り、その中に入って落ち葉で覆うことで様子を窺っていたのだ。だが、3日後の9月11日に遂に終わりの時が来た。近くを捜索していた警官に発砲してしまったのだ。これが合図となって捜索隊に銃撃されて、ロバート・ギャロウは死亡した。42歳だった。
彼の死について、地元紙はこのように報じている。
「彼は社会にとっては癌だった。人類にとって全く役立たなかった」
ギャロウの遺体はシラキュースのオークウッド墓地に埋葬された。それはアリシア・ハウクが殺害された場所のすぐそばだった。
(2012年11月29日/岸田裁月) |