ジェシー・ワシントンのリンチ現場
ジェシー・ワシントンの亡骸 |
ジェシー・ワシントンは1899年、テキサス州ウェーコ近郊、ロビンソンの貧しい黒人家庭で生まれた。両親はジョージ・フライヤーが営む綿花農場で働いていた。ジェシーもまた幼い頃から両親と共に働き始めた。家計を支えるためには已むを得なかったのだ。
1916年5月8日、農場主の妻、ルーシー・フライヤー(53)が殺害された。倉庫で強姦された後、鈍器で撲殺されたのだ。その日のうちにジェシーは容疑者として逮捕された。タレコミがあったようだ。ジェシーは既に17歳になっていた。しかし「まだ17歳」と云ってもいい年齢だ。
ジェシーの身柄は直ちにダラスに移送された。怒り狂った市民が暴動を起こし、ジェシーがリンチされることを恐れたためだ。しかし、ウェーコの市民はこの措置に却って憤った。これでは逆効果だ。結局、司法当局の判断で、ジェシーの裁判はダラスではなくウェーコで執り行われることとなった。
1週間後の5月15日、ジェシーの裁判はたった1時間で結審した。主な証拠はジェシーが署名した供述書だが、彼は読み書きが出来ないのだ。署名出来る筈がないのである。故にその信憑性は疑わしい。それでも陪審員(全てが白人男性)はたった4分の審議で有罪を評決した。死刑判決が下されるや否や、傍聴人の一人が叫んだ。
「あのクロンボを捕まえろ!」
(Get that nigger !)
暴徒と化した傍聴人たちは冊を乗り越え、ジェシーの首に鎖を巻きつけ、町の広場に引きずり出した。衣服を剥ぎ取られたジェシーは、煉瓦やシャベルで殴られて、ナイフで去勢され、耳や鼻まで削がれたという。
広場中央の木の下では、既に処刑の準備が整っていた。薪が燃え盛っていたのである。
「奴を燃やせ!」
(Burn him !)
群衆は叫んだ。ジェシーはガソリンを頭からかけられて、炎の中に吊るされた。燃え上がる肉体。彼は悶え苦しみ、死にもの狂いで木に登ろうとしたが、処刑人たちは無慈悲にもシャベルでその指を切断した。
リンチに立ち会った人々は実に1万5千人にも及んだ。それだけの人々が17歳の少年が生きたまま焼かれ、断末魔の叫びをあげる様に歓喜していたのである。恐ろしいことである。
炎は1時間以上にも渡って燃え盛った。そして、鎮火した頃にはジェシーの手足は焼け落ちて、遺体は殆ど胴体と頭だけになっていた。処刑人たちはジェシーの遺体に群がると、手足の骨を拾い上げた。埋葬するためではない。「みやげ」にするためである。中には「記念品」として売る者もいたという。酷い話である。
リンチの現場を撮影していたカメラマンは、後にこれらを絵葉書にして大儲けした。これまた酷い話である。
ジェシーの遺体はウェーコの町を引きずり回された後、ロビンソンに運ばれて鍛冶屋の前に吊るされた。その写真が現存しているが、余りに残虐なのでここではお見せしない。御覧になりたい方は英語版ウィキペディアの「Lynching of Jesse Washington」のページを参照して頂きたい。
結局、このリンチ事件については誰も責任を追求されなかった。おそらく警官も役人もリンチを黙認していたのだろう。つまり、ウェーコという町全体がジェシー・ワシントンを殺害したのである。
(2011年12月12日/岸田裁月) |