間もなく還暦を迎えるユーフラジー・メルシエが、パリの裕福な未亡人エロディー・メネトレの住み込み女中になったのは1883年初頭のことである。それまでユーフラジーは靴屋を営んでいたのだが、左前になり、どうにも首が回らなくなった。そこで顧客であるメネトレ夫人のお世話になったのである。夫人も一人暮らしの淋しさゆえに、話し相手としてユーフラジーを快く迎えたのだ。
ところが、夫人はやがて彼女を迎え入れたことが間違いだったことを悟る。どう間違いだったのかは詳らかではないが、春になる頃には隣人に「ユーフラジーのことがちょっと怖いわ」などと洩らしている。身の危険を感じていたのだろうか。当然ながら、夫人は家から出て行くことを要請する。しかし、ユーフラジーはその後も居座り続けていた。
やがて夫人の姿が見えなくなった。隣人がそのことを問いただすと、ユーフラジーはこのように答えた。
「夫人は修道院に入られました。隠居を決意されたようで、居場所はどなたにも教えないでくれと頼まれました」
彼女は夫人の親類にもそのように説明した。
1週間後、ユーフラジーはルクセンブルクに渡り、自らをエロディー・メネトレと偽って弁護士と面会し、ルクセンブルクへの移住手続を求めると共に、ユーフラジー・メルシエへの全権委任状の作成を依頼した。
「彼女はこれまでとてもよく尽くしてくれました。私が隠居した後は悠々自適の生活を送って貰いたいと思いまして」
大したタマである。とてもトーシローとは思えない。委任状を作成するためには本人であることを証明する証人が2人必要であったが、ユーフラジーは通行人を金で雇って、この条件を易々とクリアした。
パリに舞い戻ったユーフラジーは、
血の繋がる姉妹3人を夫人の屋敷に招き入れた。いずれもオツムが些かイカれていたようだ。「mentally deranged」の「religious mania=宗教狂」と参考文献にはある。その後、逮捕されるまでの3年間、彼女はイカれた姉妹の面倒を見ていたというから、当初からの計画的な犯行だったようにも思える。
このまま何事もなければ、犯行は発覚しなかったかも知れない。ところが、甥っ子のアルフォンス・シャトーヌフの登場により雲行きは怪しくなる。
アルフォンスは当初から、叔母が豪華な屋敷を手に入れたことに不審を抱いていた。遊び人特有の勘から、犯罪の匂いを嗅ぎつけたのだ。メネトレ夫人のことを訊ねても叔母ははぐらかすばかり。いよいよ怪しいと思ったのは、叔母の奇妙な言動を眼にした時だ。彼女は或る日、窓から顔を出して、このように叫んでいたというのだ。
「庭の亡霊よ、立ち去れ!」
「メネトレ一族よ、安らかに眠れ!」
どうやら彼女は亡霊に悩まされていたようなのだ。
また、庭のダリアが植えられた場所には、庭師でさえも近づけなかった。野良犬が庭を荒らした時には、鍬で死にもの狂いで撃退した。メネトレ夫人は庭のダリアの下に埋められていると見て間違いないだろう。
アルフォンスは叔母を恐喝した。
「夫人は修道院なんかにいやしない。あのダリアの下にいるんだろう?」
ところが、叔母は要求を拒絶した。
「あんたなんかにビタ一文だって払うもんですか! あんなに可愛がってあげたのに、飼い犬に手を噛まれるとはこのことだわ!」
腹を立てたアルフォンスは、警察に告発状を送りつけた。かくして庭のダリアは掘り起こされ、夫人の遺骨が発掘された次第である。夫人は殺された後、暖炉で焼かれて、庭に埋葬されたのだ。
1886年4月から執り行われた裁判において、ユーフラジーは一切を否認し、夫人はまだ生きていると主張した。いずれの修道院からも夫人は見つからなかった旨を告げられた後でも、
「夫人は修道院を頻繁に渡り歩いているので見つからないのだ」
などと苦しい云い逃れをし続けた。しかし、金歯により遺骨が夫人のものであることは確認済みだ。最早こんな云い逃れが通る筈もなく、ユーフラジーには20年の刑が云い渡された。高齢の彼女にとって、それは終身刑を意味していた。
ちなみに、甥っ子のアルフォンスは、法廷で叔母に不利な証言をしただけでなく、新聞に手記を売って一儲けしたという。やれやれ。この叔母にしてこの甥っ子ありという感じだ。
(2009年6月18日/岸田裁月) |