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コリン・ファーガソン
Colin Ferguson (アメリカ)



コリン・ファーガソン

 1993年12月7日午後5時30分頃、1人の黒人男性がニューヨーク市マンハッタンのペンシルベニア駅で、ヒックスヴィル行きのロングアイランド鉄道に乗り込んだ。最後尾の車両だった。
 電車は午後5時33分に出発した。通勤ラッシュ時なので、車内はかなり混んでいた。
 8つの駅を経由して、電車はメリロン・アベニュー駅に差し掛かろうとしていた。
「Merillon Avenue Station, Garden City, Long Island, NY」
 すると、先ほどの黒人が紙袋からルガーP89を取り出すや、乗客に向けて発砲し始めた。目撃者曰く、

「パン、パン、パンという音が聞こえました。私は誰かが外で銃を撃っているのかと思いました。辺りを見回すと、車両の最後尾で黒人の男が銃を握っていました」

 或る女性が叫んだ。
「He's got a gun ! He's shooting people !」
 車内は騒然となった。或る者はその場に屈み込み、また或る者は座席に身を隠し、それ以外の者は前方車両に逃げ出した。しかし、混んでいるのでままならない。折り重なって倒れる者が続出した。
 黒人の男は至極冷静に行動した。左右を確認しながら前方に向かい、屈んでいる者や身を隠している者に発砲したのである。その際に、彼は次の言葉を繰り返していたという。
「I'm going to get you.」

 狼藉は3分ほど続いた。その間に男は15もの弾倉を空にした。そして、新たに銃弾を装填しているところを3人の勇敢な乗客に取り押さえられた。死者6人、負傷者19人の大惨事だった。
 男の名はコリン・ファーガソン(35)。ジャマイカからの移民だった。

 コリン・ファーガソンは1958年1月14日、ジャマイカの首都キングストンで生まれた。父親のフォン・ファーガソンは製薬会社「ヘラクレス・エージェンシーズ」の重役だった。つまり、ジャマイカの最も裕福な家庭で彼は生まれ育ったのだ。
 しかし、20歳の時に父親が交通事故で死亡し、間もなく母親が癌で他界してからは、彼の人生は混迷を極めた。1982年にアメリカに移住し、4年後にオードリー・ウォーレンと結婚して永住権を得るが、2年後の1988年には離婚されてしまう。この時の彼の落ち込みようは相当なものだったという。

 翌年の1989年8月、ファーガソンは勤務先の事務所で転んで首と背中を負傷するが、労災補償金は支払われなかった。
このことを機に彼は陰謀論めいたことを口にし始めた。曰く、
「俺がこの国で出世できないのは白人が邪魔しているからだ」
「奴らは俺の才能を妬んでいるんだ」
「白人づらした黒人もまた然りだ」
 間借りしていたブルックリンの大家にもこんな暴言を吐いている。
「俺はこんなチンケなところに住むべきじゃない。もっと立派なマンションに住むべきなんだ」
 父親が存命だった頃とのギャップに苦しんでいたのだろう。

 ファーガソンは事務所に勤務する傍らでアデルファイ大学に通い、経済学を学んでいたが、ここでも問題を引き起こした。それは南アフリカの人種問題についてのシンポジウムにおいてだった。彼は参加者の発言を遮ってアジり始めたのだ。
「我々は黒人による革命を支援しなければならない。そして、あの国から如何にして白人を排除するかを考えなければならない」
 そして、最後にこう叫んだ。
「Kill everybody white !」
 この言動により彼は停学処分となった。1991年6月のことである。

 1992年2月、ファーガソンは地下鉄の車内で、白人女性を暴行した容疑で逮捕された。経緯はこのようなものだった。彼が座席に座っていると、隣の空席に座ろうとした女性が彼に訊ねた。
「Will you move over ?」
 彼女は「move over」を「席を詰める」の意味で使ったのだが、ファーガソンは「どけ」と受け取ったようだ。カッとなった彼は彼女に襲い掛かり、その悲鳴を聞きつけた警官に取り押さえられたのである。結局、この件で訴追されることはなかったが、彼の白人への憎悪はより深刻なものになって行った。

 やがて数々の反社会的な言動ゆえに職を失ったファーガソンは、大家からも立ち退きを命じられた。何故なら、彼は夜中になると自らのスローガンを大声で繰り返し喚き立てるからだ。
「All the black people killing all the white people !」
 ファーガソンが犯行を決意したのは、その直後のことだった。

 賢明なる読者ならば既にお判りかと思うが、ファーガソンが標的にしたのは白人だけだった。本件は彼を虐げてきた(と勝手に思い込んでいる)白人への報復だったのだ。事実、彼のポケットから押収された「Reasons for this」と題された紙切れにはこのように明記されていた。
「It is racism by Caucasians and Uncle Tom Negroes.」

 思うに、ジャマイカの最も裕福な家庭で生まれ育ったことがファーガソンの不幸の始まりだった。アメリカには彼よりも不遇な黒人移民が山ほどいる。彼はまだ恵まれていた方だろう。なにしろ事務所勤めをして、大学にも通えていたのだから。しかし、彼には恵まれているとは思えなかった。祖国ではもっと恵まれていたからだ。

 1995年2月17日、コリン・ファーガソンは6件の殺人と19件の殺人未遂で有罪となり、315年と8ケ月の刑が下された。彼に仮釈放が認められるのは2309年8月以降である。

 なお、本件で夫のデニス・マッカーシーを失い、息子のケヴィンに重傷を負わされたキャロライン・マッカーシーは、次期下院議員選挙に民主党から出馬して当選している。彼女が掲げたスローガンは銃規制だが、それはまだ現実のものとなっていない。

(2011年2月7日/岸田裁月) 


参考資料

『THE ENCYCLOPEDIA OF MASS MURDER』BRIAN LANE & WILFRED GREGG(HEADLINE)
http://en.wikipedia.org/wiki/Colin_Ferguson_(mass_murderer)
http://crime.about.com/od/murder/p/frguson.htm


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