オーストラリア最後の女性死刑囚、ジーン・リー(旧姓ライト)は1919年12月10日、ニュー・サウス・ウェールズ州ダッボーで生まれた。父親は鉄道員だった。
カトリックの学校に進学した彼女は、聡明だが反抗的な面があったと伝えられている。18歳の時に結婚し一女をもうけるも、9年後には夫に捨てられてしまう。自棄になっていたのだろうか。娘を実家に預けて単身でメルボルンに移住し、水商売で働く傍ら売春も始める。相手は主に米兵だった。
やがて彼女は1人の男と懇ろになる。ロバート・クレイトンという前科者である。そして、2人して始めたのが「美人局(the Badger Game)」だ。女が臆病そうな男を誘惑し、いざという時になると夫と称する男が現れて、
「てめえ、俺の女に何してやがんだ!」
と脅して金を巻き上げる例のやつだ。被害者の殆どが既婚者だったため、妻に知られることを恐れて警察には通報しなかった。いい稼ぎである。間もなくこれにクレイトンのムショ仲間、ノーマン・アンドリュースが加わり、犯行は益々エスカレートしていった。
美人局だけに留めていれば彼らの名前は歴史に残らなかったし、死刑になることもなかっただろう。しかし、欲をかいた彼らは一攫千金を企み、1人の男を殺害する。「ポップ」の綽名で知られるウィリアム・ケント(73)というノミ屋の老人である。かなりの金を貯め込んでいるとの噂を耳にしたクレイトンたちは、ピンポイント攻撃に打って出たのだ。
それは1949年11月7日のことだった。まず、ジーンが飲み屋で酒盛りするケントを巧みに誘惑する。
「いいことしましょうよ」
そして、彼のアパートでイチャイチャし始める。いつもならここでクレイトンが現れて、
「てめえ、俺の女に何してやがんだ!」
と脅すところだが、このたびはこの脅しは効かない。なにしろ相手は裏社会の住人だからね。守るべき地位や体面なんかは持ち合わせていないのだ。だからイチャイチャしている隙にこっそりと家捜ししたわけだが、金目のものは全く見つからなかった。
こうなったら脅すほかない。
「やい、じじい。お前さんが貯め込んでる金は何処にあるんだ?」
「な、何のことだ? 金なんかない。わしはオケラだ」
「オケラなわけあるかい。先頃のレースじゃだいぶ儲けたって話だぜ」
「デマだよ、デマ。チンピラの噂話を信じるのかい? バカじゃないか?」
これにカチンときたクレイトンとアンドリュースは、ケントを椅子に縛り上げ、ナイフで切りつけて拷問した。
「さっさと吐け!」
「吐くもなにも、ないものはないと云ってるんだ!」
ギャーッ、ウギャーッという叫び声は近隣に響き渡った。間もなく警察が呼ばれた。現場に到着した時にはクレイトン一味は逐電した後だった。
ケントは既に息をしていなかった。直接の死因は絞殺である。その口中には切り取られたペニスが押し込まれていた。
その日のうちに3人はホテルの一室で逮捕された。その衣服は血まみれのままだった。
ジーン・リーは「女は死刑にならない」と勝手に思い込んでいたようだ。また、彼女は殺人行為そのものには加担していない。しかし、共同正犯である以上、自らの行為でなくても責任を負う。故に相棒たちと同様に殺人の罪で有罪となり、死刑を宣告された。
本件はバーバラ・グレアムのケースに似ている。しかし、バーバラが幇助の域を出ていないのに対して、ジーンはかなり犯行に加担している。故に共同正犯と認定されても仕方がなかったのだろう。
かくしてジーン・リーは1951年2月9日午前8時、絞首刑により処刑された。ヒステリックに暴れたために鎮静剤を投与しなければならなかったという。死刑執行人の立場からすれば後味の悪い処刑だったことだろう。相棒のロバート・クレイトンとノーマン・アンドリュースが処刑されたのは、その2時間後の午前10時のことだった。
なお、20世紀になってからのオーストラリアにおける女性死刑囚は、マーサ・レンダルとジーン・リーの2人だけである。
(2011年5月27日/岸田裁月)
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