シャーロット・ブライアント(旧姓マクヒュー)は1904年、北アイルランドのデリーで生まれた。その幼年時代のことは殆ど何も判っていないが、読み書きが出来なかったことから、実家はかなり貧しかったことが推察される。自由気ままな性格で、若い頃から何人もの駐留兵の恋人と遊び歩いていたようだ。そして、19歳の時にそのうちの1人、フレデリック・ブライアントと結婚する。1923年のことである。
間もなく除隊したフレデリックは、シャーロットと共に故郷のサマセット州ヨービルに帰還する。農場と牧場以外には何もない田舎町である。自由気ままなシャーロットが満足できる土地ではない。やがて彼女は連日のように唯一の娯楽施設であるパブに出掛けるようになり、挙げ句の果てに売春を始めた。フレデリックは知っていながら、無関心を装っていたという。忠言した友人にこのように語っている。
「彼女が何をしようと俺は構わないさ。週4ポンドの稼ぎは30シリング(1ポンド半)よりもよっぽどマシだからね」
つまり、シャーロットは夫の雇われ農夫としての賃金の2倍以上を稼いでいたのだ。家計のために目をつぶっていたのか? それとも、別れられないほどに惚れていたのか? 今となっては知る由もない。とにかく、その後の10年間にシャーロットは4人の子供を産み落とすが、父親はフレデリックであったとは限らない。どこぞのどなたであった可能性もあるということだ。
時は流れて1933年12月、ブライアント家のコテージに1人の男が住みついた。馬の行商を生業とする風来坊、レナード・パーソンズである。但し、常時住んでいたわけではない。あっちにふらふら、こっちにふらふらとしていた彼は、近くに寄った折りにブライアント家を定宿のように使っていたのだ。そして、云うまでもないだろうが、レナードは尻軽女とデキてしまう。否。デキてしまったのが先だったのかな。間もなくシャーロットは妊娠し、5人目の子供を産み落とすが、このたびの父親がレナードであることはほぼ間違いないだろう。
信じられないことだが、この期に及んでもフレデリックはシャーロットと別れようとはしなかった。むしろこの状況に嫌気が差したのはレナードの方だった。もうこんな関係やめようぜ。もう2度とこの家には寄らないからな。あらイヤよ、イヤよイヤだわ、そんなこと。お願いだから考え直して下さいな。フレデリックが急な腹痛と嘔吐に襲われたのはその直後、1935年5月のことである。その時はどうにか回復したが、その後もちょくちょく腹痛と嘔吐を繰り返し、12月22日には遂に病院に運ばれて、その翌日に死亡した。39歳だった。
検視解剖の結果、遺体からは致死量の砒素が検出された。当然ながら、疑われたのはシャーロットである。家宅捜索した捜査官は、裏庭で除草剤のブリキ缶を発見した。主な成分は砒素である。近所の薬局はシャーロットが同じ除草剤を購入したことを認めた。購入者のサインには「×」とだけ書かれていた。読み書きが出来ない彼女はサインすることが出来なかったのだ。
法廷には風来坊も出廷し、被告席を見ることなく、このように証言した。
「彼女から『もうすぐ未亡人になるので、あなたと結婚できるわ』と云われました。だけど、彼女と結婚する気などありませんでした。私には他の地に内縁の妻と4人の子供がいるのです。結婚するわけないじゃないですか」
これをシャーロットは被告席でどのような心境で聞いていたのだろうか?
「妻がいるのなら、そう云ってくれればよかったのに!」
彼女の言葉を代弁してみる。フレデリックも哀れだが、シャーロットも哀れに思える。
かくして死刑を宣告されたシャーロット・ブライアントは、王位を継承したばかりのエドワード8世(映画『英国王のスピーチ』のお兄ちゃん)にこのような文面を打電している。
「偉大なる国王様。私は決して夫を殺してなどいません。あなたの臣民に慈悲を施し下さい」
しかし、返事はさっぱりで、シャーロットは予定通りに1936年7月15日、絞首刑に処された。33歳だった。
ちなみに、シャーロットの処刑の5ケ月後、エドワード8世はあっさりと王位を吃音症の弟(ジョージ6世)に譲ってしまう。在位期間は1年にも満たなかった。
(2011年6月13日/岸田裁月)
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