本件は上辺だけを見ればありふれた「母親による子殺し」に過ぎない。しかし、その背景には私生児の急増と里親の問題があることを見過ごしてはならない。都市化が進み、女性が働き始めるにつれて未婚女性の出産が急増、社会問題化する中で起こるべくして起こった事件と云えるだろう。
1899年10月27日午後6時20分頃、ロンドンはダルストン連絡駅の女便所で小さな男の子の遺体が発見された。全裸で黒いショールに包まれている。近くには血に染まった煉瓦が落ちている。死因はこれによる撲殺だ。遺体はまだ温かかった。殺されてから1時間も経っていない。
ロンドン中がこの不憫な子の話題で持ち切りになった。やがて人相書きが出回ると、ヘレン・ジェントルという中年女性が出頭した。心当たりがあるというのだ。そして、遺体を見るなり泣き崩れた。
「こんな姿になって可哀想に…」
彼女はこの子、マンフレッド・マセット(3)の里親だったのだ。
「殺したのは母親よ。間違いないわ」
母親のルイーズ・マセット(36)が彼を引き取りに来たのが、犯行当日の10月27日だったのである。
フランス生まれのルイーズ・マセット(フランス読みでは「マセ」)がロンドンに住み着くまでのことは殆ど何も判っていない。とにかく1896年に私生児を産んだルイーズは、故郷にいられなくなりドーバー海峡を渡った。そして、上流階級の家庭教師の職に就く。かなりの教養の持ち主だったようだ。ピアノも教えていたというから、彼女自身もおそらく裕福な家庭の出身だろう。生まれたばかりのマンフレッドはジェントル夫人に預けた。1ケ月37シリングの養育費はフランスの父親が支払っていたという。
やがてルイーズに愛人ができる。下宿の隣に住んでいたフランス人の銀行事務員、ユードレ・ルーカス(19)である。英国に金融を学びに来ていた彼の生活はカツカツで、ルイーズがお小遣いをあげては安ホテルにしけ込んでいたようだ。
1899年10月16日、里親のジェントル夫人はルイーズからこのような手紙を受け取る。
「マンフレッドはフランスにいる父親が育てることになりました。10月27日の金曜日に彼を引き取りに伺います」
母親に手を引かれたマンフレッドは「いやだいやだ」と泣き出したが、ジェントル夫人にはどうすることも出来ない。
「あの後に実の母親に殺されたかと思うと、あの子が不憫でなりません」
逮捕されたルイーズはこのように弁明した。
「あれは10月の初旬のことです。近所の公園のベンチでブラウニングという名の優雅な夫人と知り合いました。とても可愛いらしいお嬢ちゃんを連れています。なんでも夫人の義理の妹が託児所を経営しており、お嬢ちゃんもそこの子だというのです。うちの子にもこんな可愛らしいお友だちができたらいいなあ。そんな親心からマンフレッドの世話を夫人にお願いしました。育児費は年18ポンドで折り合いました。
10月27日にマンフレッドを引き取ると、ブラウニング夫人とロンドンブリッジ駅で落ち合いました。私は前金の12ポンドを支払うと、マンフレッドを彼女に預けてブライトン行の列車に乗りました。それからのことは何も知りません」
この供述はジェントル夫人が10月30日に受け取ったルイーズからの手紙と矛盾する。
「マンフレッドがあなたを恋しがってしかたありません。フェリーの中で少し船酔いしましたが、今は元気になりました」
供述が本当ならば、どうしてこんな嘘をつく必要があるのだろうか?
おそらくルイーズは3年ほど前のアメリア・ダイアーの事件(里親による常習的な里子殺し)を記憶しており、これをモチーフにしてストーリーをでっち上げたのだろう。ロンドンブリッジ駅で母子を目撃したものはいるが「ブラウニング夫人」なる者を見た者は誰もいない。1等待合室のアテンダントは、マンフレッドがひどく鬱いでいて空腹そうだったと述べている。
「お坊っちゃんに何かお食事をお持ちしましょうか?」
こう訊ねるとルイーズは、
「あとでケーキを買うからいいわ」
無愛想に応えてマンフレッドを連れて席を立ち、およそ3時間後に戻って来た時には1人だった。そして、週末を愛人と過ごすためにブライトン行の列車に飛び乗ったのだ。ブライトン駅の手荷物預り所にはマンフレッドの服が入った小包みが預けられたままだった。
凶器の煉瓦が彼女の自宅の庭から持ち出されたことまで証明されればもう云い逃れはできない。死刑を宣告されたルイーズは、1900年1月9日に絞首刑に処された。
(2007年1月8日/岸田裁月)
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