この始終笑みを絶やさないおでぶちゃん(26)は、純粋に殺人そのものを楽しんでいた。まさに殺人鬼と呼ぶにふさわしい人物である。東西ドイツの国境を警備していたルドルフ・プレイルは、当初は西側に逃げようとする男からは金品を奪い、女からは貞操を奪っていただけなのだが、次第にエスカレートし、殺人そのものに魅せられていったのだ。ナイフ。斧。小槌。煉瓦。あらゆる凶器を試みた。
「誰でも夢中になるものが一つぐらいあるでしょ? ギャンブルに夢中な人もいれば、トランプに夢中な人もいる。私の場合はそれが殺人だったってだけですよ」
プレイルの連続殺人が発覚したのは、1947年3月に或るサラリーマンを斧で殺害した容疑で服役中のことだった。獄中で『我が闘争』と題した自叙伝を執筆し、これによりその恐るべき経歴が明らかになったのである。1950年に9件の殺人で起訴されたプレイルは、
「殺ったのは9人じゃありませんよ。25人ですよ」
などと法廷で不平を述べた。殺人鬼としての輝かしい経歴にケチをつけられたと思ったのだろう。また、何件かの犯行には共犯者がいたことも判明した。同僚のカール・ホフマンとコンラート・シュエスラーである。プレイルはホフマンについてこのように証言した。
「あいつは女の首を切り落としたんですよ。私の流儀ではありません。悪趣味極まる冒涜的な行為です。それ以来、あいつとは組むのをやめました」
殺しに流儀もへったくれもあるものかと私は思う。しかし、プレイルの狂ったオツムの中には己れの流儀、いわば「殺しの美学」があったのだろう。死刑執行人になることを熱望した彼は、自分が如何に適任者であるかを書き綴り、ソビエト占領地区の関係当局に宛てて郵送した。
「国境付近には古井戸があるのですが、中を覗いて見て下さい。首吊り死体が今でもぶら下がっている筈ですから」
こんなキチガイを採用するほどソビエトは愚かではない。ラブコールは聞き入れられず、落胆した彼は1958年2月16日、独房で縊死した。
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