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エド・ケンパー
Edmund Emil Kemper III (アメリカ)



エド・ケンパー

『アメリカン・バイオレンス』という映画がある。犯罪大国アメリカの実情を告発したドキュメンタリーで、テッド・バンディやビアンキ&ブオーノ、ジョン・ウェイン・ゲイシーといった実在の連続殺人犯が続々と紹介される。中でも特に強烈な印象を残すのが、このエド・ケンパーだ。獄中でインタビューに応じているのだ。彼はカメラの前で事件当時の眼鏡をかけて戯けてみせた。
「こんな男の車に乗る女がいたなんて信じられるかい?」
 愛嬌がある男である。その所業とのギャップには戸惑いを覚えた。

 エドモンド・エミール・ケンパー三世、通称エド・ケンパーは1948年12月18日、カリフォルニア州バーバンクに生まれた。父のエドモンド・ジュニアは身長2mを越す大男、母のクラーネルも180cmを越す大女だった。しかし、電気技師をしていた父は巨漢にもかかわらず気が弱く、いつもガミガミと口喧しい母に押され気味だった。
「あんたは大学を出てないから稼ぎが悪いのよ」云々。
「あんたはいつも息子に甘いのよ」云々。
 とにかく喧嘩の絶えない夫婦だったらしい。遂にキレた父は、エドが7歳の時に妻子を捨てて家出した。幼いながらもどちらが悪いか判っていたエドは、母への憎悪を募らせて行った。
 次第にエドに奇行が目立つようになった。顕著な例が「ガス室ごっこ」である。死刑執行人に扮した姉がレバーを引くと、目隠しをされたエドが悶え苦しむのだ。姉の人形をバラバラに切り刻んだこともあった。やがて鉾先は猫へと向う。お子さま殺人鬼誕生の通過儀礼としてお馴染みの動物虐待であるが、エドの場合はかなり過激である。彼は猫を生き埋めにすると死骸を掘り出し、切り落とした首に向ってお願いするのだ。「どうか母を殺して下さい」と。

 巨体の遺伝子を受け継いだエドは2mを越す大男に成長した。性的にもかなり早熟だったようだ。8歳の時に担任の女教師に恋、というよりも肉欲を抱いた。姉にその旨を打ち明けた。
「先生にキスしたいんだ」
「すればいいじゃない」
「そうすると先生を殺さなきゃならないんだよ」
 父に似て気が弱いエドは、女性とコミュニケーションを交わすことが出来なかったのだ。
 数日後、夜中にこっそりと家を抜け出したエドは、ナイフを握り締めて先生の家へと向った。幸いにして思いとどまったが、「女を殺してから犯す」という後年の犯行のフォーマットがこの時に既に出来上がっていたのである。まだ8歳である。びっくりである。

 エドの異常性は母クラーネルも気づいていた。姉が可愛がっていた猫に容赦なく鉈を振り降ろしたりするもんだから当り前だ。早熟なエドの過剰な性欲も心配の種だった。姉や妹と間違いを起こさないようにと、エドの部屋を2階から地下室へと移した。このことがエドの狂気をより一層深めたことは間違いない。

 14歳になったエドは家を飛び出し、父のもとに転がり込む。ところが、父は再婚しており、明らかに邪魔者だった。エドを連れてノースフォークにある祖父母の農場を訪ねた父は、エドを置いてトンズラしてしまう。彼はまたしても父に捨てられたのだ。
 そのことを知った母クラーネルは電話で警告を発した。
「エドをお父さんに預けるなんてどういうつもり? あんたはあの子の本性を知らないのよ。お父さんたちを殺してしまうかも知れないわよ」
 この警告はまもなく現実のものとなるのである。



祖父母殺しで逮捕された当時のケンパー

 1964年8月27日、22口径のライフルを手にしたエドは、狩りに行くと告げて家を出た。背後から口喧しい祖母の声が聞こえた。
「鳥は撃っちゃダメよ」
 この一言がエドの癇に触ったらしい。猛烈な怒りが込み上げてくるのを感じた。気がついたら、背後から祖母を撃ち抜き、肉切り包丁で何度も何度も突き刺していた。刃先が圧し折れていたことから、彼の怒りが如何に凄まじいものであったかが窺える。
 我に返ったエドは、血みどろの祖母を寝室に運んだ。性的な好奇心から裸にしてやろうかとも思ったが、さすがにそれは思い留まった。
 やがて祖父がトラックで帰って来た。エドが声をかけると、祖父はにっこり笑って手を振り、荷台から収穫物を降ろし始めた。エドはためらうことなく発砲した。そして、母に電話をした。
「おばあちゃんが死んだ。おじいちゃんも死んだ」
 母クラーネルは「やっぱり」と思った。

 15歳の殺人者を精神鑑定した医師はこのように述べた。
「彼は父親からも母親からも拒絶された。だから、祖父母の殺害は彼なりの両親への復讐だったのだ」
 結果としてそうだったのかも知れないが、直接の引き金となったのは理性を吹き飛ばすほどに激しい怒りの衝動である。明らかに精神的な疾患がある。一方で、知能指数は140と天才並みだった。治癒しているフリをすることなどお茶の子さいさいである。かくして、エド・ケンパーは僅か5年の入院で再び世に放たれるのである。あな恐ろしや。

 退院したケンパーは母親に引き取られたが、これがいけなかった。母親は以前にも増してガミガミ攻撃を仕掛けてきたのだ。だらしない子ね。たるんでるわ。ウジウジしているから友達もできないのよ。お父さんにそっくりね。おまえみたいな人殺しを息子に持ってあたしの人生は台なしよ。
 これでは治る病気も治らない。ケンパーの狂気は深まるばかりだった。

 1972年5月7日、ケンパーはヒッチハイクをしていたメアリー・アン・ペスチェアニータ・ルチェッサを拾った。共にカリフォルニア州立大学の学生である。ケンパーは車を人気のないところに停めると、2人に銃を突きつけた。アニータをトランクに押し込み、メアリーに手錠をかけた。ところが、彼女は動じなかった。
「なにか悩みがあるのなら打ち明けなさい。聞いてあげるわ」
 この落ち着き払った彼女の態度がケンパーの癇に触ったのかも知れない。気がついたら彼女の背中を何度も何度もナイフで刺していた。仕方がないので、トランクの中のアニータも殺した。そして、遺体を家まで運ぶと、まず首を切り落とし、首のない死体を姦淫した。バラバラにするとポラロイドカメラで写真に撮り、一部を食べた後に山に捨てた。

 9月14日、ケンパーはヒッチハイクをしていたアイコ・クーを拾った。父親は韓国人、母親はラトビア人の15歳で、ダンスの勉強をしていた。同じようなことを書くのはつらいので、以下は大雑把にまとめる。

 1973年 1月8日 シンディ・シャール(18)
 1973年 2月5日 ロザリンド・ソープ(23)
            アリソン・リュー(20)

 いずれもヒッチハイカーだった。



母を殺して気分は晴れ晴れ

「捕まるのは時間の問題だと思っていた」
 逮捕後にケンパーは語っている。しかし、彼にはまだやり残していることがある。母親だ。あれほどお願いしたのに、彼女はまだ生きている。
「あの女は死ぬしかない。そして、俺も死ななければならない。さもないと罪もない女がこれからも死ぬことになる…俺は自分にそう云い聞かせた。母の殺害を決意したのはその時だった」

 1973年4月20日、母親をハンマーで殴り殺したケンパーは、その喉を掻き切り、ガミガミとうるさい声帯をディスポーザーに押し込んだ。スイッチを入れると機械が詰まり、ケンパー目掛けて血膿を吐き出した。
「あの女は死んでも口喧しかった。母を黙らせることなんか出来ないんだ」
 斬り落した母親の首に向かって朝まで罵声を浴びせ続けたというから、その怨みたるや凄まじい。その後、母の友人、サラ・ハレットを電話で呼び出して殺害し、母と2人で旅行に出かけたかのように擬装しようとしたが思い直し、自ら警察に通報した。逮捕された時の彼の顔は、瘧が落ちたかように晴れ晴れとしていた。

 8件の殺人で有罪となったケンパーは終身刑を宣告された。彼は現在もカリフォルニア州立医療刑務所で服役中である。


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
『殺人紳士録』J・H・H・ゴート&ロビン・オーデル著(中央アート出版社)
『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社)
『続連続殺人者』タイムライフ編(同朋舎出版)
週刊マーダー・ケースブック62(ディアゴスティーニ)
『カニバリズム』ブライアン・マリナー著(青弓社)
『食人全書』マルタン・モネスティエ著(原書房)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『FBI心理分析官』ロバート・K・レスラー&トムシャットマン著(早川書房)


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