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ミニー・ディーン
Minnie Dean (ニュージーランド)



「カラマツの家」の発掘風景


裁判中に売られたグッズ(レア)

 アメリア・ダイアーとほぼ同時に発生した類似事件である。ニュージーランドでは子供がおイタをすると、
「いい子にしないとミニー・ディーンのところに連れて行くよ!」
 と怒られるのだという。なまはげのような存在なのである。

 1844年、スコットランドのエジンバラで生まれたミニー(本名ウィリアミナ)は、1868年に2人の幼い娘を連れてニュージーランドに渡った。そこでチャールズ・ディーンと結婚し、ウィントンで小さな農場を経営した。しかし、家計は苦しかった。やがてミニーは「ベイビー・ファーム=子供を引き取り、里親の世話をする」をサイドビジネスとして始めた。
 1891年、2人の赤子がミニーの「カラマツの家」で死亡した。死因はいずれも「自然死」と診断されたが、衛生局は子供たちの置かれた劣悪な環境に不満を示した。この件を機に、ミニーは広告を偽名で出すようになった。

 1895年4月、ミニーはホーンズビー夫人から赤子を預かり、列車に乗り込んだ。車掌は帽子箱と赤子を抱えたミニーが乗り込むのを目撃していたが、降りる時は帽子箱だけだった。不審に思った車掌は直ちに警察に通報した。
「そんな子は知らない」と必死に否定していたミニーだったが、「カラマツの家」からはその子が着ていた服が発見された。花壇を掘り起こすと、3つの小さな遺体が埋められていた。うちの1つが列車の中で消えた赤子だった。

 ミニーは最後まで無罪を主張したが、遺体が発掘されてしまってはどうしようもない。有罪を宣告され、ニュージーランドで絞首刑に処された最初で最後の女性となった。アメリア・ダイアーと同じく、彼女も何人の赤子をひねったのか、正確な数は判っていない。

 なお、彼女の裁判中に左写真のような「ハット・ボックス・ベイビー」が裁判所の外で売られていたそうである。悪趣味なり。


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)


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