アルバート・デサルヴォは1931年9月3日、ボストンに生まれた。父親はアル中だった。妻や子供は毎日のように殴られた。そして、売られた。父親は彼と2人の妹を9ドルでメイン州の農家に売り飛ばしたのだ。
間もなく農家から逃げ帰った彼は、今度は盗みを教えられた。万引きに始まり、空き巣に強盗とそれはエスカレートしていった。
彼にとってセックスは日常だった。父親は売春婦を連れて来ては、子供たちにそれを見せつけたのだ。そんなわけだから初体験は6歳の時だ。相手はなんと姉だった。
17歳で陸軍に入隊したデサルヴォは、ドイツに5年間赴任した。軍隊生活は水が合ったようで、軍歴は概ね良好だった。ボクシングを始めたのもこの頃で、欧州駐留軍ミドル級チャンピョンになったこともある。やがて、現地の娘イルムガルトと結婚、1955年には娘が生まれた。
彼が最初に性犯罪を起こしたのは、妻が妊娠中のことである。9歳の少女をいたずらしたのだ。母親は世間に知られることを嫌って告訴を取り下げた。事件は公になることなく、1956年には名誉除隊で復員した。
とにかく、ヤリたくてヤリたくて堪らない男だった。射精の直後でもヤリ続けることが出来た。妻は1日6度の性交が毎日続くことに辟易し、次第に拒むようになった。しかし、デサルヴォはヤリたくてヤリたくて堪らない。悶々とする彼の眼に『ボブ・カミングス・ショー』というテレビ番組が飛び込んで来た。それは、モデル志望の女性のオーディションを行い、身体のサイズを測量するというお下劣番組だった。
「俺もこんなことがやってみたい」
翌日には早速やっていた。 学生街をうろついて女性ばかりのアパートを見つけるや、モデルのスカウトマンだと偽ってサイズの測量を始めたのである。口が達者で、それなりに二枚目だったデサルヴォはなかなかうまくやっていた。時にはそのまま意気投合し、ベッドインすることもあったという。しかし、こんな破廉恥三昧が長続きする筈もなく、1960年3月17日に逮捕された。裁判では不法侵入の罪だけを問われて、懲役2年を宣告された。
つまりデサルヴォは、この時に強制猥褻についてはお咎めなしだったために「性犯罪者」にファイルされなかったのである。捜査線上に彼の名前が挙がらなかったのは、そういうわけなのだ。
11ケ月服役し、仮釈放されたデサルヴォは、とにかくヤリたくてヤリたくて堪らなかった。ところが、妻には拒絶されてしまう。
「真人間になるまではおあずけよ」
ならば、外でヤるよるほかにない。真人間になる筈がない。11ケ月の間に溜まりに溜まった精液は烈火の如くほとばしった。気がついたら、彼は「ボストン・ストラングラー」になっていた。
1964年11月6日、アルバート・デサルヴォは逮捕された。但し「ボストン・ストラングラー」としてではない。別件の強姦事件で逮捕されたのだ。彼は警察が「グリーン・マン」と呼んでいた連続強姦事件の犯人でもあったである(常に緑色の作業服を着ていたことから、そのように呼ばれていた)。被害者は300人に及ぶとみられていたが、デサルヴォは「1000人は下らない」と豪語していた。
信じがたい話だが、警察は「ボストン・ストラングラー」と「グリーン・マン」が同一人物だとは思ってもみなかった。「ボストン・ストラングラー」が基本的には強姦していなかったからである。インポだと思われていたのだ。だから「歩くバイアグラ」のデサルヴォは容疑者から外されていた。またしても捜査機関のミスが彼に味方をしたのである。
翌1965年2月、デサルヴォは「精神異常の疑いあり」と診断されて、ブリッジウォーター精神病院に収容された。そこでジョージ・ナッサーという殺人犯と同室になった。
デサルヴォの話は朝から晩までおまんこばかりだったが、或る日、こんなことを訊いてきた。
「なあ、ジョージ。もしも或る男が窃盗で裁判にかけられて、後から13件も銀行を襲っていたことが判ったら、いったいどうなると思う?」
その時は気のない返事で応じただけだったが、後から考えれば考えるほどこの質問は意味深だ。ひょっとしたらこいつが「ボストン・ストラングラー」とちゃうか? 懸賞金がかけられていることを思い出したナッサーは、弁護士のリー・ベイリーに報告した。半信半疑のベイリーが面会すると、デサルヴォはあっさりと「ボストン・ストラングラー」であることを告白した。
どうしてこんなにあっさりと告白したのだろうか?
思うに、もう辞めたかったのだろう。だけど、警察は一向に気づいてくれない。ならば、自分で告白するよりほかにないのである。
デサルヴォが「ボストン・ストラングラー」であることは疑いようのない事実である。彼は犯人しか知らない事実を知っていたし、犠牲者が11人ではなく13人であることも知っていた。このことは警察さえも知らなかった(追加されたのはメアリー・マレンとメアリー・ブラウンの2件。メアリー・ブラウンは死因が刺殺だったため、「ボストン・ストラングラー」の被害者にはカウントされていなかった)。
しかし「ボストン・ストラングラー」は物証をほとんど残していなかった。デサルヴォの自白が、ほとんど唯一の有力な証拠だった。弁護士(リー・ベイリーが担当)は法廷で自白することを禁じるだろう。そこで異例の司法取引が行われた。
検察はデサルヴォを「グリーン・マン」の件でしか訴追しない。その裁判において、弁護人は責任能力を争う。そして、責任能力が否定された場合に限って「ボストン・ストラングラー」としての自白を認める…。
つまり、デサルヴォは「ボストン・ストラングラー」ではなく「グリーン・マン」として裁かれたのである。そして、責任能力が認められ、「ボストン・ストラングラー」については触れることがないままに、終身刑が宣告された。
1973年11月26日、デサルヴォはウォルポール刑務所の独房で冷たくなって発見された。心臓が6回も突き刺されていた。犯人は囚人の1人だと思われるが、それが誰であるかは判っていない。
註:デサルヴォが「ボストン・ストラングラー」としては裁かれることなく死亡したことから、冤罪説が今日でも根強く主張されている。しかし、彼が「犯人しか知らなかったこと」を知っていたことは確かであり、だからこそ弁護士は大胆な司法取引をしたのである。彼が「ボストン・ストラングラー」であることはほぼ間違いないと思われる。
但し、最後の犠牲者、メアリー・サリバンに関しては、遺体に残されていた精液のDNA鑑定から、デサルヴォの犯行ではなかったことが有力になりつつあるようである。
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