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ケネス・ビアンキ
アンジェロ・ブオーノ

Kenneth Bianchi & Angelo Buono
a.k.a. The Hillside Strangler (アメリカ)



ケネス・ビアンキ

 本件にサブタイトルをつけるならば「ホラ吹きビアンキのグダグダ大作戦」が最も適切だろう。彼らを巡る裁判は5年近くにも及んだ。集中審理制のアメリカでは異例の長さである。諸君は「史上稀に見る往生際の悪さ」に唖然とさせられることだろう。

 1979年1月11日深夜、ワシントン州ベリンハムで2人の女子大生が行方不明になった。カレン・マンディックダイアン・ワイルダーである。カレンはその日の昼間にボーイフレンドの警察官、スティーブ・ハードウィックに話していた。
「これからアルバイトに行くの。旅行中の人の家で防犯装置が故障したんで、修理するまでの間、留守番していて欲しいんですって。2時間で100ドルもくれるっ云うのよ」
 僅か2時間で100ドルとは奇特な人がいるもんだ、とその時は感心しただけだった。しかし、行方が知れない今となっては、どう考えても怪しい話だ。ハードウィックはカレンから聞いた住所を訪ねたが、そこには誰も住んでいなかった。そして、警備会社に問い合わせて、カレンに話を持ちかけたであろう男を突き止めた。その留守宅の管理責任者、ケネス・ビアンキである。

 尋問されたビアンキは、そんな女性は知らないし、アルバイトを頼んだ覚えもないと云い張った。しかし、留守宅の庭木の手入れを頼まれている隣人は、ビアンキから電話連絡を受けていた。
「防犯装置が故障したので、武装した警備員が巡回します。空き巣と間違われて撃たれるといけないので、今夜はお隣に近づかないで下さい」
 警備会社に尋ねると、そのような事実はないという。改めてビアンキを問いただすと、そんな電話はしていない、誰かが俺の名前を騙ったんだの一点張りだ。アリバイを訊かれてビアンキは、地元保安官の講習会に出席していたと答えたが、刑事が裏を取ろうとすると、実はドライブしていたのだと前言を撤回した。顔色一つ変えずに嘘をつき、それを翻してケロリとしている。こいつはいったい何なんだと刑事は呆れ返った。


 翌日の正午過ぎ、行方不明の2人は冷たくなって発見された。問題の留守宅から1kmほど離れた袋小路で、手配中のカレンの車の中で重なるように横たわっていた。死因は紐状のものによる絞殺だ。2人とも衣服は着ていたが、強姦されていた。
 その日のうちに、ビアンキは逮捕された。

 警察の中にはビアンキを「シロ」だと思う者もいた。見るからに好青年で誠実そうなこの男が、凶悪な強姦殺人の犯人とは思えなかったのだ。内縁の妻たるケリー・ボイドが署に駆けつけると、この印象は高まった。彼女は名家のお嬢さまなのだ。
 ところが、捜査が進むにつれて、ビアンキの嫌疑は濃厚になっていった。
 まず、ビアンキの家からカレン・マンディックの名前と電話番号を記したメモが見つかった。カレンの家からもビアンキの名刺が見つかった。
 そして、ビアンキの下着から精液と血液の染みが検出された。事件当時、ダイアンは生理中だった。
 更に、問題の留守宅の地下室へと降りる階段で陰毛が発見されたが、これがビアンキものと一致した。

 ビアンキは1978年5月にベリンハムに引っ越して来るまではカリフォルニア州ロサンゼルスに住んでいた。そこでの前歴を洗うためにロサンゼルス市警に問い合わせた。電話を受けた巡査部長にはピンとくるものがあった。
「強姦して絞殺?」
 ひょっとしたらこのケネス・ビアンキという男が、1977年10月から翌年2月までの僅か4ケ月の間に12人もの女性を強姦して絞殺し、ロサンゼルスを見下ろす丘陸地帯に遺棄した「ヒルサイド・ストラングラー」ではないだろうか?
 翌日にもロス市警の刑事が現地に乗り込んだ。そして、決定的な証拠を発見した。ビアンキの家から発見されたトルコ石の指輪が「ヒルサイド・ストラングラー」の最初の犠牲者の所有物だったのである。

 1979年1月下旬、ビアンキはカレン・マンディックとダイアン・ワイルダーに対する第一級殺人の罪で起訴された。ここでビアンキが取った戦術は驚くべきものだった。なんと記憶喪失を主張したのだ。起訴事実についてはまるで記憶がない、自分は以前からずっと記憶喪失に苦しんできた、などと延々と捲し立てたのである。
 やがて、この戦術ではダメかと思ったのか、事件当夜のアリバイを主張し始めた。あの夜は本当は女と会っていた。しかし、ケリーの手前、本当のことを云えなかった…。もちろん、そのアリバイはすぐに崩れた。
 この頃には、検事も判事も弁護人までも、ホラ吹きビアンキに呆れ果てていた。ケリーでさえも呆れていた。彼女は警察にこのように供述している。
「一度だけ彼の嘘を見破ったことがあるんです。本当はどこにいたのか訊ねると、彼は涙を浮かべてこう答えたんです。『実は、僕は癌なんだ。病院で放射線治療を受けていたんだよ』」
 もちろん、ビアンキは癌ではない。
 とっさにトンデモない嘘をつき、バレても平然としていられる男。それがケネス・ビアンキなのである。

 こりゃアカンと思った弁護人は、精神異常を申し立てることにした。すると精神鑑定の席でビアンキは更に驚くべき戦術に出た。
 多重人格の芝居を始めたのである。
 もっとも、芝居と判ったのは後のことである。当初は鑑定に当たった医師も騙されていた。
 或る日のこと、それまで礼儀正しく協力的だったビアンキが、突然別人のように暴れ出した。彼は自分は「スティーヴ」だと名乗った。そして、2人の女子大生殺しを自慢し、ロサンゼルスの件では共犯者がいたことを医師たちに告げた。年上のいとこ、アンジェロ・ブオーノである。
「スティーヴ」はブオーノをえらく気に入っていた。反面で、宿り主であるビアンキを嫌っていた。
「奴には消えてもらいたかったんだ。だからわざと手掛かりを残した。あのクソったれ、まんまとハマってくれたぜ」
 担当した医師は確信した。
「人格が完全に変わっており、どんなベテランの役者でも、これほど見事に演じ分けることは不可能だろう」

 しかし、全員が信じたわけではない。マーティン・T・オルム博士は疑念を抱いていた。そこでビアンキをハメることにした。「本物の多重人格障害には3つの人格が必ず登場する」と吹き込んだのだ。すると、その日のうちに3つ目の人格たる「ビリー」が登場した。ビアンキが芝居をしていることは明らかだった。
 なお、後に判ったことだが、ビアンキは記憶喪失を主張している最中に、拘置所のテレビで『イブの三つの顔』を見ていた。1957年に製作された多重人格をテーマにした映画である。
 また、「ビリー」という名前にビリー・ミリガンを連想するのは私だけではないだろう。後にダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』で世界的に有名になる自称「多重人格者」である。彼の事件はまさにこの頃、盛んに報道されていた。ビアンキの眼にも当然入った筈である。
 更に、ビアンキは1976年製作の『シビル』を見ていたとの指摘もある。実在の多重人格者を描いたノンフィクション『失われた私』をもとにしたTVMである。
 いずれにしても、当時は多重人格障害がホットな話題だったことは確かなのである。



アンジェロ・ブオーノ

 さて、ここでようやくアンジェロ・ブオーノが登場する。
 ロス市警はブオーノをノーマークにしていたわけではなかった。彼には前科があるし、かつてはビアンキと共に暮らしたこともある。ビアンキが逮捕されてからは張り込みが続けられていた。そして「スティーヴ」が共犯者として名指ししたことで張り込みは強化された。

 1934年、シチリア系アメリカ人の二世として生まれたブオーノは、典型的なチンピラだった。両親は彼が4歳の時に離婚し、母親に連れられてニューヨーク州ロチェスターからロスの貧民窟に移り住んだ。己れの不憫な境遇が腹立たしかったブオーノは、離婚した母親を「尻軽女」と口汚く罵り、やがてはあらゆる女性を憎悪するようになった。十代半ばで警察のお世話になり、ネンショーとシャバを行き来した。3人の女性と結婚し7人の子供をもうけたが、いずれの女性も虐待に耐えられなくて逃げ出している。

 そんな彼も手先は器用だったようで、高級車の室内装飾の仕事でそれなりに小金を稼いでいた。役者をしているマブダチの伝手で、映画関係者の仕事が舞い込んできたのである。フランク・シナトラのスポーツカーも手掛けたというが、シナトラにとってはイヤな話だ、今となっては。
 このまま何事もなければ、ブオーノも順調にカタギへの道を歩んだことだろう。ところが、年下のいとこが転がり込んで来たことで彼の人生は台無しとなる。そのいとこは、云うまでもないが、ケネス・ビアンキである。

 1951年、ニューヨーク州ロチェスターに生まれたケネス・ビアンキは養子だった。売春婦の私生児として生まれて棄てられて、ビアンキ家に引き取られたのだ。養母の溺愛ぶりは異常だった。おかげで夜尿症は一向に治らず、気に喰わないことがあると癇癪を起こした。癇癪があまりにひどいので、幼い頃から精神科医に通院した。その費用の支払いに追われて、養父は過労で死亡した。
 18歳で結婚するも、僅か6ケ月で離婚する。その原因は彼のわがままと嘘の数々だったと思われる。とにかく、突拍子もない嘘をつく男だった。ラブレターに「癌であまり長くない命です」と書いてみたり「実は人を殺したことがあります」などと書いたりする。どうしてそんな嘘をつくのかさっぱり判らないが、同情やら関心やらを引きたかったのだろう。しかしそれにしても、あまりにも幼稚である。

 そんな幼稚なビアンキを一人立ちさせるために、養母はブオーノに彼を預けた。「イタリアの種馬」を自称するブオーノは、たちまちビアンキの憧れの的になった。
「アニキ、カッコいいなあ〜」
 アキラ(水谷豊)がオサム(萩原健一)に憧れたようなものであろう。しかし、オサムは日がな一日つきまとうアキラにいいかげん嫌気が差してきた。
「おまえも早く一人立ちしろよ」
 アニキが云うので警察官に応募してみたが、これは適正ではねられた。仕方がないのでサイコ・セラピストになることにした。大学の卒業証書やら博士号やらを偽造して、手書きの挨拶状を配って歩いた。ところが、客は1人も来なかった。どうにか不動産屋に職を得て、ここでケリー・ボイドと親密になる。彼女が妊娠するや否や、マリファナがバレてクビになる。泣きつく先はアニキである。見るに見かねたブオーノは「ポン引きにでもなったらどうだ?」と提案した。

 この提案を受けてビアンキは、フェニックスからやってきた家出少女をスカウトした。
「モデルの仕事があるんだ。週500ドルは保証するよ」
 そして、ブオーノと一緒に強姦して、逃げたら殺すと脅迫した。彼女は泣く泣く客を取った。しかし、3ケ月目に逃げられてしまう。彼女の境遇に同情した客の1人が旅費を出してくれたのだ。怒り狂ったブオーノはその客を脅迫したが、彼のバックにはマフィアがついていた。ブオーノが逆に脅迫されて、尻尾を巻いて退散した。
 間もなくブオーノは、またしても売春婦から一杯食わされることになる。ポン引き事業の拡大を企んで、或る売春婦から顧客リストを買ったのだが、それがガセネタだったのだ。
 女には逃げられるわ、ヤクザには脅されるわ、終いにゃ売春婦にまで騙された。ブオーノの怒りは頂点に達した。
「あのアマめ、ぶっころしてやる!

 ところが、肝心の売春婦はトンズラした後だった。そこで、その商売仲間を殺ることにした。ヨランダ・ワシントン。「ヒルサイド・ストラングラー」の最初の犠牲者である。

 1977年10月17日 ヨランダ・ワシントン(19・売春婦)
      10月31日 ジュディス・ミラー(15・売春婦)
      11月 6日 リサ・カスティン(21・ダンサー)
      11月10日 ジェーン・キング(28・女優)
      11月13日 ドロレス・セペダ(14・学生)
             ソーニャ・ジョンソン(12・学生)
      11月20日 クリスティン・ウェックラー(20・学生)
      11月29日 ローレン・ワグナー(18・学生)
      12月 9日 キンバリー・マーティン(17・売春婦)
 1978年 2月16日 シンディ・ハズペス(20・電話交換手)

 以上は「スティーヴ」が告白した犠牲者であり、この他にもジル・バーコウムキャサリン・ロビンソンが「ヒルサイド・ストラングラー」の犠牲者と考えられている。2人とも売春婦だった。
 犠牲者は当初は売春婦に限られていたが、間もなく「誰でもOK」になっていった。復讐の目的が次第にどうでもよくなって、快楽のみを追求するようになったのである。
 犯行も次第に残虐になっていった。クリスティン・ウェックラーは洗剤を注射された。それでも死ななかったので、ビニール袋を被されてガス責めにされた。ローレン・ワグナーは電気を流された。コンセントを差したり抜いたりするたびに、彼女はショックで飛び上がり、肉が焼けて煙が上がった。

 最後の犯行の1週間後、ケリー・ボイドはビアンキの息子を出産した。しかし、ビアンキには愛想を尽かしていた。未婚の母になる覚悟で故郷のワシントン州ベリンハムに帰って行った。未練たらたらのビアンキは彼女を追ってロスを離れた。かくして、ビアンキとブオーノのコンビは解消した。

 ベリンハムでのビアンキの犯行は、ブオーノの眼にはお粗末に映ったことだろう。
 ブオーノが主導権を握っていたロスでの犯行の数々は、完璧とまでは云えないが、極めて巧妙である。犠牲者はランダムに選ばれており、彼らと結びつけるものは何もない。「さすがアニキ」と思わせるものがある。
 ところが、ビアンキは顔見知りに手をかけた。いかにも彼らしい、極めて幼稚な犯行である。
 しかし、それにしても何でまた、ビアンキは単独で犯行を犯したのか? あの楽しかった虐殺の日々が懐かしくなったのか? それとも、アニキへのラブコールだったのだろうか?



涙ながらに罪を認めるビアンキ


ヴェロニカ・コンプトン

 1979年10月19日、ビアンキの精神鑑定に関する審問が開かれた。弁護側の精神鑑定人は多重人格を主張したが、オルム博士はそれを否定した。判事の心証も否定的だった。そこで司法取引が行われた。ビアンキは罪を認めて共犯証言をする。その代わりに死刑にはせずに終身刑に留める。つまり、ビアンキはアニキを売って己れの命を買ったのである。
 ビアンキは涙ながらに罪を認めたが、その数分後、別室でくつろぐ彼は笑顔を見せていたという。ホラ吹きビアンキの作戦は、まだまだ終わっていなかった。

 1979年10月22日、ビアンキの証言を受けて、アンジェロ・ブオーノが起訴された。
 ところが、ビアンキは再びギャーギャー騒ぎ始めた。司法取引に応じたのは命が惜しかったからで、本当は無実なのだと主張し始めたのである。ならば流した涙は何なんだ? 往生際の悪さ、ここに極まれり、という感じである。ブオーノの裁判においても、矛盾する証言を繰り返し、新事実をつけ加え、すぐにそれを撤回したりと、ホラ吹きの天分を遺憾なく発揮した。

 極めつけはヴェロニカ・コンプトンの件である。有名な連続殺人犯には「グルーピー」がつくものだが、ヴェロニカもその1人だった。彼女と手紙で接触したビアンキは、恐るべきことを依頼した。なんと、誰でもいいから適当な女を絞殺するように頼んだのだ。つまり「『ヒルサイド・ストラングラー』は僕じゃない。他にいるよ」ということを擬装しようとしたのである。また、この女もこの女で、頼まれるままに実行したのだから頭が痛い。結局、企みは未遂に終わり、ヴェロニカは逮捕されて、終身刑を宣告された。
(ヴェロニカ・コンプトンについては別項で詳述する。面白い女である)

 さて、ここで更にトンデモない事態が発生する。ビアンキの攪乱作戦に嫌気がさしたロジャー・ケリー検事補がなんと「ブオーノの起訴を取り下げたい」などと泣き言を云い出したのである。異例中の異例の事態である。ビアンキの「グダグダ大作戦」は成功したかに思われた。
 ところが、ジョージ判事は取り下げを認めなかった。判事はビアンキの供述の矛盾点ではなく、隠れた一貫性に注目した。裁判を攪乱し、無罪放免になろうとする一貫した意図である。そして、このことを陪審員に問おうと考えたのである。陪審員にはビアンキの証言には頻繁に嘘が介在することを予告し、既に録音されている供述を事前に聞かせた。その上で、ビアンキには、これ以上嘘をつくと司法取引が無効になる旨を云い渡した。「グダグダ大作戦」を阻止するためには、これ以外に方法がなかった。

 長い長いグダグダ裁判は終わった。ブオーノは有罪となり、量刑はビアンキに合わせて終身刑とされた。
 共に十分に異常な2人ではあった。しかし、そんな彼らも出会っていなければ、殺人を犯すことはなかっただろう。ブオーノはポン引きどまりだろうし、ビアンキはせいぜい詐欺師である。アニキは弟分にデカい顔をするために人を殺し、弟分はそんなアニキに憧れて片棒を担いだ。そして、殺人そのものに魅せられて行った。相乗作用により殺人鬼を生み出したのであり、彼らは2人で1人のバロロ〜ムなのである。
 なお、ブオーノは2002年9月21日に獄死した。
 ビアンキは、まだまだ健在である。


 さて、最後にこぼれ話を一つ。ピーター・ローレの娘が彼らに襲われかけたという話である。
 ポン引き稼業が軌道に乗り始めた矢先に家出少女に逃げられた2人は、代わりの女を誘拐するべく、路上の女を呼び止めた。ロス市警のバッチをちらつかせたビアンキが身分証明書の提示を求めると、名前の欄にはキャサリン・ローレ。一緒に見せられたのがピーター・ローレの写真だった。
 映画マニアならば御存知かと思うが、ローレはペーター・キュルテンの事件をモチーフにした映画『M』の連続殺人犯役で有名になった俳優である。有名人の娘を誘拐すると大事になると思った2人は、その場で彼女を解放した。
 なんだかゾッとする話である。


参考文献

『連続殺人紳士録』ブライアン・レーン&ウィルフレッド・グレッグ著(中央アート出版社)
週刊マーダー・ケースブック25(ディアゴスティーニ)
『続連続殺人者』タイムライフ編(同朋舎出版)
『世界犯罪クロニクル』マーティン・ファイドー著(ワールドフォトプレス)
『世界犯罪百科全書』オリヴァー・サイリャックス著(原書房)
『猟奇連続殺人の系譜』コリン・ウィルソン著(青弓社)
『SERIAL KILLERS』JOYCE ROBINS & PETER ARNOLD(CHANCELLOR PRESS)


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