欲望心理学 |
テッド・バンディ |
かのコリン・ウィルソンは著書『現代殺人百科』の「テッド・バンディ」の項を次のように書き始めている。 セオドア・ロバート・バンディ、通称テッド・バンディは1946年11月24日、21歳のルイーズ・コーウェルの私生児として生まれた。父親の素性は、今なお謎とされている。 小学校に入学したテッドは、とにかく頭の切れる生徒であった。しかし、優秀な成績にもかかわらず、教師たちの評判は芳ばしくなかった。通信簿で毎回のように狂暴な性格を直すように注意された。級友によれば、テッドは普段こそは温和しいが、いったん逆上すると何をしでかすか判らなかったという。 凶悪な殺人者としてのテッド・バンディは、図らずしも一人の女性により完成される。弟のグレンは語る。 |
バンディの犠牲者たち |
事件はバンディがスティファニー・ブルックスを跪かせた1974年1月、シアトルから始まった。 7月14日、22歳のドリス・グレイリングは、ワシントン州サマミッシュ湖畔で夫と待ち合わせていた。そこに腕にギブスをして包帯で吊った二枚目が近づいてきた。車にボートを積むのを手伝って欲しいというのだ。彼女は駐車場までついて行った。そこにはフォルクスワーゲンが停めてあったが、ボートは家に置いてあるから一緒に来て欲しいという。待ち合わせの時間が迫っていた彼女は丁寧に断わった。男も感じよく微笑んで礼を云った。数分後、彼女は先ほどの二枚目がブロンドの女の子を伴って歩いているのを目撃した。ジャニス・オットである。男は「テッド」と名乗り、ボートをどうとか云っている。ははあん、これがあの男の手口か。うまくやるじゃない。 さあ、その日のうちに全米が「テッド」に震え上がった。三千件以上の通告が警察に殺到した。「犠牲者の一人は首をちょん切られ、もう一人は釜ゆでにされたらしい」などとデマを飛ばすお調子者も現われて、サマミッシュ湖畔はてんてこ舞いの大騒ぎになった。 この時期のバンディはワシントンの法律事務所に勤めていた。事件当時、同僚のキャロル・ブーンはバンディの顔が「テッド」のモンタージュ写真にそっくりだと云ってからかった。これをバンディは愛想よく受け流していた。 9月に入って狩猟解禁になると「テッド」の埋蔵物が山奥で続々と発見された。例のサマミッシュ湖畔で消えた二人は、シアトル連続失踪事件の被害者たちと一緒に埋葬されていた。このことから一連の失踪事件はすべて「テッド」の単独犯行であることが判明した。 11月8日、キャロル・ダロンシュはショッピング・センターで二枚目に声をかけられた。私服警官だという彼は、職業的な口ぶりで彼女の車が盗難未遂にあった旨を告げた。彼女は何故にその車の持ち主が自分であると判ったのか不思議に思ったが、確認のために彼に従った。車には鍵がかかっていた。盗難にあった形跡はなかった。彼は容疑者の首実検のため、署まで来て欲しいという。見たこともない男の首実検など無意味だとも思ったが、彼女は素直に彼の車に乗車した。ところが、車は署とは反対の方向に向かっている。彼女は初めて恐怖心を抱き、私服警官を名乗る男の顔を見た。二枚目は悪魔の形相に変貌していた。それはまるで、昔観た映画『ジキルとハイド』のようだった。ハイド氏は裏路地で車を停め、アイスピックで脅すと手錠をかけた。しかし、幸いなことに、彼女は既に車のドアを開けていた。ハイド氏のキンタマを蹴り上げると、彼女は反対車線に躍り出た。そこに偶然、車が通りかかった。彼女はこれに飛び乗り、難を逃れた。それはさながら『悪魔のいけにえ』のラストシーンのような脱出劇であった。 同じ日の夕方、27キロ離れたビューモント高校で、24歳の教師ジーン・グレアムが二枚目にドライブを誘われた。彼女は取りあわなかったが、学生デビー・ケントは誘いに乗ったようだった。デビー捜索の過程で警察は、手錠の鍵を校庭で発見した。 |
バンディのいくつもの顔 |
1975年8月16日早朝、バンディはソルトレイクで逮捕された。それは偶然によるものであった。交通違反をしたバンディの車を調べた警官が、アイスピックにスキーマスク、数本のロープに手錠一組というキャロル・ダロンシュの事件に符号する物件を発見したのである。 トンプソン刑事は初めての大物を相手に、慎重に捜査を進めた。これに対してバンディは、自分に容疑がかけられていることを承知の上で、警察との知恵くらべを楽しんでいるようだった。尾行者をからかう余裕さえ見せ、家宅捜査も平然と許した。 バンディはたちまち有名人となった。彼の経歴と風貌は犯罪者に相応しくなかったからだ。多くの人々が冤罪ではないかと訝しく思った。調子に乗ったバンディは警察を罵り、自分を犯罪者扱いしたマスコミを非難した。ソルジェニーツィンの『収容所列島』を携えて入廷して、自らの境遇をこの弾圧を受けたロシアの作家に準えたりもした。 |
バンディの指名手配書 |
警察がバンディをこれだけで許す筈はなかった。一連の連続殺人事件で告発する準備を進めていた。 バンディ逃走のニュースは全米を駆け抜けた。付近の住民は野放しになった狂犬に怯え、お調子者たちはバンディの快挙にエールを送った。バンディTシャツが飛ぶように売れ、バンディバーガー(中身を開けると肉は姿かたちもない、つまり、中身が逃げ出してしまったハンバーガー)なるものも売り出された。ヒッチハイカーは冗談で「私はバンディに非ず」の看板を掲げた。全米が現代のビリー・ザ・キッドに熱狂した。 バンディは厳重な護衛付きで拘置所に帰還した。以後、彼が監房から出るときは必ず足かせがはめられるようになった。 1977年12月30日、上の決定を受けてバンディは再び脱走を企てる。16キロも減量した彼は、独房の天井に弓鋸で開けた小穴から娑婆に抜け出したのだ。シアトル一帯には非常線が張られた。問題のメグ・アンダースは警察に保護された。しかし、肝心のバンディはというと、方向違いのフロリダに向かっていた。 |
法廷で吠えるバンディ |
1978年1月15日午前3時、フロリダ州立大学の学生ニタ・ニアリーは恋人に別れを告げると、裏口からこっそりとカイ・オメガ女子寮に帰宅した。ふと正面玄関から外を見ると、そこには一人の男が棍棒を握りしめて立っていた。ただごとではない。通報しようと電話に急ぐと、カレン・チャンドラーが血みどろでよろめき出てきた。頭を殴られている。キャシー・クライナーもやられていた。顎が砕けている。マーガレット・ボーマンとリサ・レビーは血の海の中で倒れていた。マーガレットは既に息絶え、リサも救急車の中で絶命した。 バンディは何故、こんな大それたことをやらかしたのだろうか? 派手な行動は自分の居場所を教えるようなものだ。長い拘束からの解放感が彼の理性を狂わせたのだろうか? 女子寮の惨劇を繰り広げたバンディは、しばらくは偽名でその地に潜伏していたが、誰も自分がバンディと気づかないことに業を煮やしたのか、車を盗むとシアトルの方角へと旅に出た。そして、最後の犠牲者、12歳のキンバリー・リーチを手にかけた直後に逮捕された。 バンディの裁判はテレビ中継された。まるで我々がオウム真理教に見入ったように 合衆国市民全員がバンディの裁判に注目した。 1979年7月23日、人々の期待通り、バンディは死刑を宣告された。判決に際してのカワート判事の発言が有名である。 |
参考文献 |
『現代殺人百科』コリン・ウィルソン著(青土社) |