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時の話題2009-6
LAST UPDATE 2010-03-15
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今月の目次
◇印は《日々雑感新掲示板》より転載
豪雨(09/6/30) ◇なら国際こどもフォーラム2009夏(09/6/28) ◇ケータイは鞄にしまい、き・き・み・み(09/6/27〜10/2/9) ◇ストリートビューパブリックコメント(09/6/25) ◇同情はいらないが(09/6/21) ◇移住連全国ワークショップin福井(09/6/14) ◇集団強かん事件被害者中傷とSNS(09/6/11〜09/6/18) ◇池田小事件から8年、秋葉原事件から1年(09/6/8) ◇足利事件と狭山事件(09/6/6) ◇素人の自由さと気迫(09/6/1〜09/6/2)


【豪雨】vol.541《日々雑感より》
◆九州や中国四国地方が豪雨で大変な事態になっている。浸水や土砂崩れなどの水害、住居や生活基盤の破壊などが今後も大変心配だ。日本列島はすでに亜熱帯化していると思っているが、温暖化論も反温暖化論も利益誘導の言葉遊びや情報操作であってはならない。(1598、09/6/30)[→6月目次]

【なら国際こどもフォーラム2009夏】vol.540《日々雑感より》
◆長男二男と甥っ子を連れて、奈良県外教なら国際こどもフォーラム2009夏に参加。日本人の子どもも少しいたが、様々な国や地域にルーツを持つ子どもたちが約60人、保護者や教員等を入れると140人以上が、多文化ゲームや民族楽器、多国籍手作り料理などを楽しんだ。子どもももちろんだが、親同士のつながりもできたのではないだろうか。次回は11月22日のサンウリムだ。(1597、09/6/28)[→6月目次]

【ケータイは鞄にしまい、き・き・み・み】vol.539《日々雑感より》
◆子どもと子どもの売買春。ケータイネットの問題は、こんな事象までもたらしてしまった。ケータイの使い方はもちろん、人として人とどう向き合うかが緊急課題だ。大人が子どもをどれだけ受け止め、人としての手本を示せるか。ケータイなんか鞄にしまい、子どもとたっぷり汗を流して、ゆっくり楽しく話をしようよ。(1596、09/6/27)
◆最後まで子どもの話を聞いて子どもと向き合い、その存在を認めよう、ということで、それをわかりやすい言葉であらわそうと思ってメモしたのが、次の4つです。子どもたちの「聞いてほしい」「気づいてほしい」「認めてほしい」「見ていてほしい」という声にこたえるということです。「僕の話聞いてよ、私に気づいてよ」ということで、「き・き・み・み」と思って、自分に言い聞かせてるんです。子どもは、「私がんばるから、見守っててや」と、そういうことを願っているのじゃないかなと思っています。そしてそういう生身の関係をしっかりとつくっていって、「いざという時には受け皿になったるで」という関係をつくっておけば、子どもたちは決して行くとこまで行かないと思いますし、ネットに必要以上にはまってしまうこともないでしょう。バーチャルな世界よりもリアルな関係の方が、手応えがあって面白いということになれば、ネットの架空世界にははまっていきませんし、はまっている子ももどってくれると思います。だから「き・き・み・み」という言葉を、僕は自分に言い聞かせています。(京都府立高人研第2回総会・講演録より、2010/2/9)[→6月目次]


【ストリートビューパブリックコメント】vol.538《日々雑感より》
◆総務省が、グーグルストリートビューについてのパブリックコメントを募集している。先日、違法ではないという見解を発表した総務省に、問題点を訴えよう。いかにプライバシーを侵害し、差別を助長しているか、われわれ市民の人権感覚が試されている。民度に応じた政治やマスコミしか成立しないといわれる。居心地のいい世の中を形作るのは我々市民なのだ。表札が公道から肉眼で見えるのと、オンラインで全世界のディスプレイに表示され検索されるのとでは、その意味や影響にあまりに大きな違いがあるということが、なぜ総務省は分からないのだろうか。ことは表札だけではなく、様々なプライバシーや差別情報が集積され検索され特定され悪用されているのだ。ストリートビューが日本で公開されたのは昨年8月5日。その日から、ストリートビューを使った悪質な差別書き込みが始まったことが、重大な悪質性を示しているではないか。(1594、09/6/25)[→6月目次]

【同情はいらないが】vol.537《日々雑感より》
◆ホムペやブログ、掲示板などに、絶対バレないと思い込んで身近な誰かの悪口を書いたら、まんまとバレて人を傷つけ、自分の信用も落とすという事例によく出くわす。いわゆる「欠席裁判」は、その場にいない人の悪口で盛り上がるという、大人もよくするものだが、教室やクラブ活動の話題が中心となりがちな子どもたちのネットコミュニケーションでは、リンクの輪も狭いため、その場にいないはずの同級生が聞き知る場合も多い。そこに曖昧な表現や誤解が加わり、さらに、ただでさえ不安定な友だち関係なのに、相手の表情や反応が分からないネット上での文字列会話では、同調圧力の相乗効果から、「祭り」のターゲットにされた人物は瞬く間に悪人に仕立て上げられる。それを聞き知った中傷被害者は、さらなる書き込みや、見えない閲覧者に恐怖を覚える。◆という話は、講演でもよくするのだが、今日書きたかったのは、大人も含めてネット上での表現は、見せかけの反省になりやすいという点だ。確かに、ネット上での公開懺悔は難しい。仮に心底懺悔をするとしても、いくばくかの反応を期待する。誰にも見せない秘密の日記には、他者の反応などは期待しない。あえて言えば、自身の超自我、つまり「もう一人の自分」への告白であり、懺悔であり、誓いであり、励ましの求めである。そこでも合理化という防衛機制は働くが、ネット上での「同情をさそう反省(のそぶり)」とは質的な違いが随分とある。超自我はだませないが、ネット上の他者は話を合わせてくれるのだ。それでも予防線をはって反省のポーズはとる。そのくせ、本当はどれほど懺悔しているかはあてにならない。◆今日も反省しきりのkurochanだったが、ここに反省を書こうとしている自分自身を本当に突き詰めるには、安易な作文などしたくはないと思い至ったのだ。◆「巧言令色すくなし仁」という。体のよい低姿勢は、スムーズに事を運ぶのには必要だろう。しかしそれは、信用できる中身を保証するものではない。不器用に尖った奴が実は一番信用できることだってある。いろんな奴がぶつかりながらもかかわりあい、結果的に貴重な出会いとして人生に刻まれる。そんな場を用意するという仕事に、自分はどれほど真剣なのか、自身の超自我と問答しよう。(1591、09/6/21)[→6月目次]

【移住連全国ワークショップin福井】vol.536《日々雑感より》
◆福井市国際交流会館で行われた、移住労働者と連帯する全国ネットワーク(移住連)の第7回全国ワークショップに参加。kurochanも移住連の会員だが、こうした集会には初参加。今回は、間もなく衆議院で採択されそうな入管法・入管特例法・住基法改定を中心的テーマとして、その問題点の討議や各地の実践交流が熱心になされた。約100名の参加者は、労組活動家、キリスト教関係活動家、DVシェルター活動家、弁護士、行政書士など、実に様々な外国人住民支援活動家で、入管当局との交渉や裁判闘争、国会ロビー活動やDVやOS問題に関わる活動をしているパワフルな人々だ。教員はわずか3〜4人である。実に様々なことを学ぶことができたし、関係をつくることができた。帰りは、魯迅の恩師、藤野厳九郎記念館に立ち寄る。学ぶべきことは際限なくあるのだ。(1585、09/6/14)[→6月目次]

【集団強かん事件被害者中傷とSNS】vol.535《日々雑感より》
◆先の集団強かん事件に関し、複数の大学生がmixiなどのSNSで被害者を中傷する書き込みをしていたことが判明。教育実習中の学生もいたというから事態はさらに深刻だ。被害者のみならず、当該の中学生らに与えた苦痛や悪影響も計り知れない。「いじめられる奴が悪い」という間違った視線が、さらなる被害と加害を生むということが分からないようだ。まず、被害者に「自己責任」を問う間違いがある。性犯罪被害者に対しても、それが起こりやすい。最大限の警戒を要するような社会を構成してしまっている自らの「自己責任」の自覚がないのだろう。そこまでシビアになれなくても、同じ人間としてのいたわりがない。権力者の不正を糺す勇気ある言論と、悔しさや恐怖に苛まれる人間をさらに突き落とす卑怯な言説はまったく違う。被害者の学生は、学長からもセカンドレイブまがいの対応を受けたが、その心の痛みはいかばかりか、kurochanも苦しい。SNSなどの無責任なネット言説等については、機会を改めて記したい。(1583、09/6/11)
◆朝からとある大学にメールを送る。悪質な改ざんページを知らせるためだが、大学生以上の情報モラル教育はどのように進めればいいのだろうか。(1588、09/6/18)[→6月目次]


【池田小事件から8年、秋葉原事件から1年】vol.534《日々雑感より》
◆今日6月8日は、池田小事件から8年、秋葉原事件から1年。どちらも刃物を使った無差別大量殺傷事件で、世を震撼させた。犠牲者の遺族や、身体や心の傷に今も苦しんでいる人たちにとれば、何年たとうがこの上ない苦痛だろう。事件を風化させまいとする取り組みや報道は、事件から教訓を導き出し、再発を防ぐとともに、苦痛を背負う方々の孤立感を崩す励ましにもなることを祈るばかりだ。さて、学校の安全管理や殺傷性の高いナイフの取り締まりとは別に、精神障害者の社会参加や非正規労働者のセーフティーネットがどれだけ市民的課題として意識され、実際的な保障が実現されているかを問いたい。「異常」な犯人による「異常」な犯行という、「視聴者受け」する報道は、日常生活から我が責任を切り離そうとする意識を強化する。社会の一員としての責任や連帯を自他に問わない、「お気楽な」風潮を助長する。世界を独りで背負うかのような尊大さを持つ必要はないが、同時代を生きる人としての関与の自覚はごまかしたくない。(1580、09/6/8)[→6月目次]

【足利事件と狭山事件】vol.533《日々雑感より》
◆自治労奈良県本部・奈良県地方自治研究センターが主催する第11回「時代(とき)の広場」に参加する。テーマは「いよいよスタート裁判員制度〜冤罪事件から考える、司法への市民参加とは何か〜」。狭山事件の冤罪被害者である石川一雄さんが妻の早智子さんとともに来てくださり、午前中の講演、午後のパネラーをされる。歳を聞かれたら、「狭山と同い歳です」と答えるkurochanだが、「狭山」とは狭山事件のことだ。1963年5月、埼玉県狭山市で起きた女子高生誘拐殺人事件で、警察は身の代金を受け取りにきた犯人を取り逃がすという失態を演じる。5名の自殺者が出て、その中に真犯人がいたと思われるが、4月にも同様の警察の失態があったばかりで、翌年の東京オリンピックを控え日本の公安への信頼を取り繕うため、国家公安委員長が「何としてでも生きた犯人を見つけ出す」と国会答弁。近隣の被差別部落への差別見込み捜査が強行され、アリバイがないなどの理由で4人の青年が取り調べを受けることになる。石川一雄さんはその一人で、巧妙な罠にはめられた石川さんは自白を強要され、起訴されるのだ。一昨日釈放され、時の人となっている足利事件の菅家さんもそうだが、裁判では真実を認めてもらえるという期待は裏切られることとなる。菅家さんは44歳から17年半もの人生を獄中に奪われたが、石川さんは24歳から31年もの人生を奪われ、しかも仮釈放であるため、不当な制約「見えない鎖」を科せられたままだ。狭山事件・狭山差別裁判の不当性や石川さんの生き方などから、学び論ずべき点は多々ある。マスコミの差別報道もそうだし、それに絡め取られた世論もそうだ。文字を奪い返し、感謝の気持ちと反差別への強い意志をもって闘い続ける姿勢もそうだ。鎌田慧著『狭山事件』をはじめ、関連書籍も無数に出ているので参考にされたい。◆午後のパネルディスカッションでは、あの吉田智哉さんがコーディネーターを務められたが、始まる前に、「ときどきあなたのブログを見ているけど、忙しすぎませんか」とねぎらっていただいた。もう本当に恐縮である。パネルディスカッションの最後には平場から発言も続いたが、吉田さんの指名もいくつかあり、kurochanも最後に指名していただいた。また、石川さんとお連れあいの早智子さんは、集会終了後すぐに廊下に出て、参加者にかたい握手をされていたが、kurochanも握手していただく。仮釈放後に現地調査にも行ったことがあるkurochanだが、生の石川さんに会うのは初めてで、感激の言葉を交わすことができた。高校入学後、「石川青年を返せ」という看板の意味を知ろうと、学校の図書館でマンガ『差別が奪った青春』を読み、これは大変な事件だと、佐木隆三著『ドキュメント狭山事件』を買い求めて読んだのを今も覚えている。◆裁判員制度について、冤罪事件に取り組む弁護士の方からも多くを学ぶことができた集会だったが、集会資料で初めて知ったことがある。狭山事件があった63年に、米国統治下の沖縄で陪審制度が始まり、沖縄の人も陪審員に選ばれているのだ。「さすがアメリカ」とは言いたくないし、米国の巧妙な沖縄政策かもしれないのだが、そこには国籍条項はなかったのである。翻って、今年始まった裁判員制度は外国人も多くの障害者も排除している。むしろ、「何をするか分からない」という偏見やそれを煽るマスコミ報道が、かれらを犯人視させている現実がある。制度そのものの問題とあわせ、意識(向き合い方)もまた問われるということを念頭に、裁判員制度についても、外国人差別についても、ケータイネットの問題についても、考え実践していこうと決意させてくれた集会だった。(1577、09/6/6)[→6月目次]

【素人の自由さと気迫】vol.532《日々雑感より》
◆アマチュア落語家の知人が以前出した本で、プロの噺家は落語が義務でもあり生活の糧だから、新たな挑戦よりも守りに入りがちだが、アマチュア噺家は、本来の仕事以外の時間を使って義務でもない落語に敢えて取り組み、失うものが無いのでとにかく純粋果敢に落語に取り組む、といいようなことを書いていた。だから敢えてプロにはならないのだとも。プロはプロならではの苦しさや責任を持っているのは当然たが、素人だからこその決意や意欲もあるのだ。気楽でもあるが、なぜ取り組むのかという果てなき自問と、意欲の維持が課せられる。人権教育に取り組む者としても、文字や言葉(できれば音楽)による表現者としても、素人であり続けたいと思う。(1572、09/6/1)
◆専門的な仕事を為していくには、与えられた業務をこなすだけでなく、幅広い情報アクセスや人との繋がりを、積極的に求めていかねばならない。それを授業、講演、原稿その他の表現や、事業企画などに生かし、気づきや出会い、反省と感謝、自信や希望につなげたい。子育て、授業、人権教育、県外教、ケータイモラルなど、いくつもテーマはあるが、精力的に努力していこう。(1573、09/6/2)[→6月目次]



























<アンカージャンプ用の画面余白です>