4人の外国人が見た     

韓国併合前の朝鮮

1.第一印象、住居等

2.道 路

3.商 業

4.通 貨

5.官吏と徴税

6.身分制度、両班の横暴

7.取り調べ、監獄

8.結 び

外国人から見て、併合前の朝鮮がどのような国であったか、次の4冊の本をもとに紹介する。

.イザベラ・バード著、時岡敬子訳『朝鮮紀行』講談社学術文庫1998年

イザベラ・バードはイギリスの旅行作家で、世界各国を旅行しその旅行記を残している。結婚後ビショップと改姓した。従ってビショップ夫人としての文献引用も多い。1894年から1897年にかけ4度にわたり朝鮮旅行をした。その旅行記である。尚彼女は1881年日本奥地紀行を出版したが、この本も平凡社学術文庫に入っている。

2.F・A・マッケンジー著、渡辺学訳『朝鮮の悲劇』平凡社東洋文庫1973年

マッケンジーはカナダ人、ロンドン・デーリーミラーの記者として1904年と1906年の2回韓国を訪れている。この本は1908年(韓国併合の2年前)に出版されたものである。ジャーナリストの目で見た韓国併合に至る朝鮮の歴史であり、朝鮮に同情的な論調で、日本を痛烈に非難している。

3.シャルル・ダレ著、金容権訳『朝鮮事情』平凡社東洋文庫1979年

この本はシャルル・ダレの『朝鮮教会史』の序論部分である。ダレ自身は朝鮮に入国したことはなく、主としてダブリュイ主教(1866年ソウルで処刑された)が収集した資料を基礎に、他の宣教師の手紙等をまとめ、整理した物である。前2書と異なり、朝鮮とはどのような国であるかを紹介するものである。従って目次も自然地理、歴史、国王、政府、法廷、科挙、朝鮮語、社会身分、女性の社会的地位、家族、宗教、性格、娯楽、住居、科学と整理されている。

4.『韓国誌』龍渓書舎復刻1996年

本書はロシア大蔵省が調査した資料を日本の農商務省山林局が抄訳した物で、1905年日露戦争に勝利した年に東京書院から発行された物の復刻版である。前書に比べ産業関係の記述が多い他、前書同様朝鮮社会制度の分析書である。

1.第一印象、住居等

イザベラ・バード:1894年始めてソウルを訪れたバードはソウルについて次のように述べている。58−60頁

「北京を見るまで私はソウルこそこの世で一番不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世で一番ひどいにおいだと考えていた。都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず…」

「こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁葺きのあばら屋で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙をはった小さな窓があって人間の住まいだと言うことが分かる。又溝から2,3フィートの高さに黒ずんだ煙穴がきまってあり、これは家の中を暖めるとと言う役目を果たした煙と熱風の吐き出し口である。」

「瓦屋根の反り返った上流階級の家屋でも、通りから見た体裁の悪さと言う点ではなんら変わりがない。」

シャルル・ダレ、住居の項にて:289頁

「貴方はみすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。では貴方の知っている最も貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度を更に落として想像してみてください。するとそれがみすぼらしい朝鮮の住まいについての、殆ど正確な姿となるでしょう。」

「2階建ての家は探しても無駄です。そのようなものを朝鮮人は知らないのです」

韓国誌  573−574頁

「貴顕紳士の家にありては通常瓦葺きの門ありて廣き邸宅の入り口をなし、門に対して主屋あり。主屋は南に向きて……。家屋の高さは人の身長よりやや高きのみにして……」

「平民の家は前に記すものと著しく相違し、憫なる小屋にして、粘土よりなり、低矮なるが故に注意せざれば頭天井に触撃せらるべし。家の広さは最も大なるもの約4坪余りにして、3坪を超えざる物甚だ多く、外面の高さは僅かに4尺7寸とす。

マッケンジー  29−30頁、32頁

(開国後)「最初の数年間、朝鮮に入国した外国人の大多数が見たのは、開港地である釜山、済物浦及び首都だけに局限されていた。これらの場所で彼らは朝鮮の最も悪い面を見た。特にソウルには貴族や宮廷に寄生する食客の大群がおり、彼らは怠惰で不潔であり、農村地方では見られないような下劣さを感じさせるのであった。」

「当時の朝鮮人の生活を鮮やかに描くには、朝鮮民衆の陰影とミステリーを強烈に誇張して描かなくては不可能である。ソウルそれ自体については、どれをとってもそれがあまりに悪いとは言えないというくらいの状態であるが、一方地方の民衆に関する限りでは、その大部分が繁栄と潤沢の生計を維持していると言って大過ないであろう。……この国では乞食は殆どおらず、いてもほんの僅かであった。ここでは……貧民救済制度はその必要がない。」

杉本コメント

マッケンジーは乞食は殆どいないと書いているが、ダレは「乞食もかなりいる。……女乞食の組合がある。」と書いている。(265頁)

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2.道路

韓国誌 239−240頁 

「国民生活の動脈とも称すべき道路の不完全なること、韓国の如きは地球上他に之を見ることを得ざるべく、韓国の道路は昔日も今も只内地住民に必要なるだけのものにして、恐らくは数世紀を経由するも尚改良する所なかるべし。」

「韓国の道路は次の3等に公定する。
1.大街道 幅20フィート乃至30フィートにして両傍に溝渠あり
2.中街道 幅8フィート乃至10フィートにして溝渠なし
3.小街道 狭隘なる歩道
右の内大街道は国中僅かに6個にして、皆京城を基点として北は慶興(きょんふん)、義州(ういじゅ)、南は釜山(ぷさん)、康津(かんじん)に通ず。然れども1等道路にも処によりてはその幅準則に適合せざる部分あり、2等道路、3等道路は半島南部に多く、北部は概して甚だ少なし。」

シャルル・ダレ 315ー316頁

「道路は理論的には少なくとも3等級に分けられています。私が王の道と翻訳した第1級の道路は、普通4人が並ぶに十分な広さです。地方には車両がないので、歩行者と乗馬者には丁度ふさわしい広さです。……しばしば大きな石や岩塊によって道路が3/4に減っていたり、雨によって道の一部が流されたりしています。勿論誰もそのような不都合を修復しようとする者はいません。……主要な道路としてはソウルから中国の国境に到るものがあります。もう一つ長さは8リューしかありませんが、かなり立派なものに宮廷から王陵に通じるものがあります。

2級道路について言えば、その状態と道幅、それに交通の便利さは日ごとに変化します。悪い小径としか見えなくても「これもまた大路ですか」と聞くと、人々はきっぱり「そうです」と答えます。……

しかし3等道路については何と言ったらいいでしょう。その広さはせいぜい30センチで、道案内人の聡明さの如何によって見えたり見えなかったりするし、水田を横切るときはしばしば道は冠水しており、山中では絶壁に肌が触れるのです。

橋について私は2種類のものを知っています。一つは小川の所々に大きな石を投げ込んで作ったものです。これが最も一般的なものです。もう一つの種類は、川に杭を打ち込んで作ったものです。これは上に板のようなものをかぶせて土でおおってあり、しばしば穴があいているが、それでも橋の形をしています。夏にはよくあることですが、水かさが増すと川の氾濫によって、すべての橋は流されるか水に漬かるかしてしまいます。……最後にソウルには石橋が一つありますが、壮麗なもので、おそらくこの国の逸品の一つでしょう。少しでも大きな川は舟で横切ります。」

イザベラ・バード 元山(うぉんさん)への幹線道路にて  169ー170頁

「道はともかく悪い。人口の道は少なく、あっても夏には土埃が厚くて、冬にはぬかるみ、ならしてない場合はでこぼこの地面と、突き出た岩の上をわだちが通っている。道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない。橋のかかっていない川も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝土だけで出来ており、7月始めの雨で流されてしまう。そして10月半ばまで修復されない。地方によっては川にさしかかったら浅瀬を渡るか、渡し船に乗るかしなければならず、これには必ず危険と遅れが伴う。首都に中心をおく6大道路ですら、橋は普通渡る前にまず馬や人間の重量に耐えられるかどうかを馬夫が確かめるほど、もろい状態であることが多い。山間部では、道とはおおかたが渓流の河床に丸石をばらまいたもの以外の何者でもなく、最良の場合でも冬場のソウル・済物浦間のように、ぬかるみの深さが1フィートから3フィートに及ぶ湿地帯がある。こういったいまわしい乗馬道は、私も廣くたどったが朝鮮の発展の大きな障害の一つである。その内最悪なのはソウルから元山に至る幹線道路の山間部分で、………」

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3.商業

シャルル・ダレ  313頁

「自分の家に店を開いている商人はごく僅かで、殆どすべての取引が定期市、即ち場市で行われている。この定期市は政府によって指定されており、地域(ほぼ郡県の範囲)毎に5つ立ち、さまざまな町や都市で開かれている。この5つの場所で、それぞれ定期市が5日ごとに開かれている。つまり今日はここ、明日はあそこと、いつも同じ順序で巡回し、毎日その地域のいずれかの場所で定期市が開かれている。商品の為にはテントが張られている。

商人が用いる度量衡の単位は、穀物に対しては合である。100合が1斗で、20斗が1石である。液体については鉢で量る。重量の単位は中国の斤で、中国製の秤だけが使用されている。長さの単位は尺であるが、地方によって異なるのでこれは商人の言いなりになってしまう」

韓国誌  77ー78頁、98頁

「住民は古来これらの谷地に小社会を形成し、舟楫を通すべき河川の不足と、僅かに駄獣の通行を許すのみなる断崖多き経路の外、殆ど便利なる道路の皆無なるとにより、相互の交通甚だ疎にして、惟り農耕に従事し、産物の販路を見いだすに由なく、その事業は幼稚の域を脱することなく、只一局部の住民の需要を目的として労働せり。然れども漢江、大同江、及び洛東江等の如く、僅少なる河川の舟行に堪ふるものありて、その沿岸地方に住居する人民は、山地の単調子なる生活状態とややその趣を異にして、河川の便を利用して生産の剰余を比較的大なる市場、特に開港場に輸出し得べき処は凡て耕地の面積迅速に増加し、商業も又盛んなり。然れどもこの如き土地は甚だ少なし。

天然の地勢既に商業に適せざるのみならず、古来人為の障害ありて亦之に加わり、その一部分は今も尚行わるるものあり。その尤も大なるものは官吏の暴貪に制限なき制度にして、為に労働の安全に保証なく、各人貧困に陥らざるもの殆ど之なきに至る。その外官吏が交通の便利を無視すること、盗賊公行して危険多きこと、貨幣制度の紊乱したること、金融機関の殆ど皆無なること、階級上の迷誤及びその他の事情によりて上級の人民に商業を禁じ、且つある種の実業を疎滞せしむること、工業の発達せざること、商人の階級夥多にして専売権の濫用行わるること、、是皆内外商業の発達の妨害ならざるはなし。」

「韓国の普通店舗は何れも一様に少量の雑貨を並べたるものにして、店舗には必ず土地産の煙草、長き吸い口を有する韓国式烟管、粗綿布、韓国産麻布、その他の織物、紙、アニリン染料、糸、燐寸、……等あり。韓国は稠密なる首府に於いてすら、売買の規模小さくして、日本産の燐寸は10個若しくは20個の包み、木炭は二三片の包みにて販売するが如き貧困なる状態なるが故に、この如き小店舗も猶十分に土地の需要を充たすに足るなり。然れども京城その他の大都会に於ける店舗中には一種属の商品をもって営業するものもあり。これらは皆商会に属するものにして皿、金だらい、茶碗、及びその他陶器並びに金属製器具等を販売するものあり。皮革及び履き物等を販売するものあり。又もっぱら食品を販売するものあり。……」

イザベラ・バード ソウルにて  60頁

「商店も概してみすぼらしいのは同じである。在庫品全部買っても6ドル程度の店が沢山ある。ソウル市内は女1人で歩いていても危害を加えられることはまずないものの……店には文字通り記すに値するような特徴がない。何も特徴がないのが特徴である。……その他にある安価な灯油ランプ、手鏡、安物臭い花瓶などといった外国製の不要品から一番くだらない物ばかり選んできたような品々は、どれをとっても悪趣味の極みとしか言いようがない。」

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4.通貨

シャルル・ダレ  313−314頁

「商業の発達に大きな障害になっているものの一つに、不完全な貨幣制度がある。金貨や銀貨は存在しない。これらの金属を塊にして売ることは、多くの細かい規則によって禁止されている。……合法的に流通している唯一の通貨は銅銭である。その小さな銅銭には亜鉛か鉛が混じっており、その価値はおよそ2或いは2.5サンチームである。それは真中に穴が明いており、一定の数を集めて紐を通す……。相当量の支払いをするためには、一群の担ぎ人夫が必要となる。というのは百両或いは百通銭(約200フラン)は、一人分の荷物になるからである。北部地方ではこの貨幣すら流通していない。……

朝鮮の金利は法外である。年3割の利子で貸し付ける人は、ただで与えるのも同然と思っている。最も一般的なのは5割、6割で時には10割もの利子が要求される。……

最近では次々に貨幣が鋳造され、それがだんだんと悪質になっている。昔の銭は銅製で、僅かに不純物が混じっていたのに対し、新しい貨幣は殆ど鉛になって急速に質が落ちている。しかしそこで利益を得るのは政府ではない。政府は必要なだけの銅を鋳造業者に供給するが、業者は銅を鉛に代えて、戸曹判書(大蔵大臣)或いは特別に検証の役にあたる官吏と利得を分けあうのである。」

韓国誌  92−93頁

「韓国の重量多き銅銭はその転送甚だ不便なるに拘わらず、前にも記せし如く、この国には送金の方法なく、為替の如きは之を用ゆるもの極めて稀にして、しかもその範囲は京城、義州、釜山及び大邱の如き主要なる商業地に限られ、そこにては時に他の商業地に支店もしくは特約者を有する商店に就き、3分の手数料を払いて為替券を買うことを得。又韓国には銀貨及び紙幣少なく、且つ是等の金銭は殆ど凡て開港場にて使用さるるが故に、屡々所要額全部を銅貨にて送らざるべからざることあり。而して銅貨は凡ての貨物と同じく、擔夫若しくは駄獣にて之を運び、之が為大なる困難を生ず。カールス氏その事情を説きて曰く「旅人あり。ある時24,000文即ちその時の相場で約30ドルの貨幣を京城より内地に送る必要にあいたるが、是等の金銭2頭の馬に駄載し、一包みの重量約6ポンドとなりたり。而してこの貨物は2人の兵士之を護衛したるが、行くこと幾ばくもならずして、兵士等は京城に引還りて尚支那人1人を付せんことを乞い、遂には人員6,馬4より成立する隊商を編成して護衛する事となれり。支那人は騎乗のために1頭、荷物のために1頭を使用せり。この如き多人数の護衛あるに拘わらず、其の旅人は尚貨物の安全に関し始終警戒を要するの境遇を経たり。この如く困難なる事情あるにより、その不便を除くの目的を以て一種の旅客取扱組合起こり、あらかじめ旅費を預かり、旅客をして現金を携帯することなく、途中の必要を充たさしむるの方法を取るに至りたり。」

「貸金業者の利息は之を欧人より見れば甚だ高率にして、利子計算期間は時に一年とする事あるも、10ヶ月を通例とす。只完全なる信用を有するものの借り得べき最低利息は10ヶ月2割にして、その他は3割、4割甚だしきは5割を貪らるること屡々にして、カトリック教宣教師の言によれば10割の高利に及ぶこともあり。

イザベラ・バード 93−94頁 南漢江(なむはんがん)旅行に際して

「通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行するものを例外なく悩ませ、旅程を大きく左右した。日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。銀行や両替商は旅行先のどこにも一軒としてなく、しかも受け取って貰える貨幣は、当時公称3200枚で1ドルに相当する穴あき銭以外になかった。この貨幣は数百枚単位で縄に通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なければないで又それも厄介なのである。100円分の穴あき銭を運ぶのに6人の男か、朝鮮馬1頭がいる。たった10ポンドなのにである。」

マッケンジー   109頁

「古い制度下の貨幣は、世界中の悪貨の内でも最たるものであった。或イギリス公使の公式報告の中での有名な嘲笑、それは韓国の貨幣は良貨、良い偽造貨、悪い偽造貨、あまりにも粗悪なので暗いところでしか通用しないような偽造貨の4つに分類することが出来る、としているが、これは必ずしも作り話ではない。(日露)戦争の起きる前までは、相当量の貨幣を受け取る場合には、貨幣を点検するエキスパートを雇って最悪の偽造貨を選り出すということをせねばならなかった。」

杉本コメント

朝鮮はソウル、平壌等中央部を除き、物々交換の時代に止まっていた。従ってこれらの地域では一個1厘の葉銭しか通用しなかった。この葉銭の運搬の苦労については、上記各書が記述している。開港後外国商品の流入により、次第により高額の貨幣が必要となり、1個2銭5厘の白銅貨が発行された。この白銅貨の鋳造権を、上納金を取り政府高官に与えたため、各高官は品位を下げ発行し鋳造利益を確保した。この為非常に品種が増え、マッケンジーが書いてるような状態となったのである。1904年財政顧問として赴任した目賀田種太郎により整理された。

この商業の未発達が台湾との違いである。台湾では日本商人は台湾商人に押さえられ、末端経済に進出できなかった。それに対し朝鮮では日本商人に押さえられ、より小さい規模の企業にしか進出できなかった。

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5.官吏と徴税

マッケンジー  28−29頁

「一般国民の犠牲のもとでの徴税請負制と収租地特許制は、政府の2大弊制であった。徴税請負制のもとでは、監司(かむさ)や守令は、なるべく巨額の税を徴収するための自由行動を認められていたので、彼はその徴収した中央政府要求分以上の余分の額を、自分自身の収益として保有することができたのである。繁盛して富裕になった一は、たちまちにして守令の執心の犠牲となった。守令は特に秋の収穫の豊であった農民の所へやってきて、金品の借用を申し出る。もしその人がこれを拒否すれば、郡守はただちに彼を投獄し、その申し出を承認するまで、半ば絶食同様にさせた上、日に1,2回の笞刑を加えるのであった。勿論善良な守令も悪徳な守令もいたが、総じて官衙はすべての勤労大衆にとって恐ろしいところであった。ある朝鮮の農民が、ある時私に尋ねた。「私がなぜもっと多くの穀物を栽培し、もっと多くの土地を耕作しないのかって?」「なぜ私はそうしなければならないと言うのか。より多くの穀物収穫は為政者のよりひどい強奪を意味するだけなのに」

「貴族に対する収租地の特許は、民衆にとってもう一つの重荷であった。貴族即ち両班は、自分たちは勤労階級に依存して生活する権利があると考えていた。高官の子息が成人すると、その父は国王に収租地の特許を申請した。この収租地というのは、おそらく、どこかの川の歩いて渡れる所を通る人たちに多額の賦課をする権利とか、或いはなんらかの特殊地区内での課税権というようなたぐいのものであったろう。そしてこの収租権者は逆に国家に対しては実際上何らの奉仕をすることもなかった。……イギリスでの荘園に対する領主の特権、(とどこが違うのか)」

シャルル・ダレ  71頁、74頁

「官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は当然その費用を取り戻そうと努め、その為に体裁をかまおうとさえしない。上は道知事から最も下級の小役人に至るまで、徴税や訴訟やその他のすべての機会を利用して、それぞれの官吏は金を稼ぐ。国王の御使(おさ、監察官)すらも極度の破廉恥さでその特権を利用している。」

「朝鮮の宮廷は非常に貧しく、国庫はさらにもっと貧弱です。宦官やその仲間である国王の妾、宮中の侍女たちは、もし大臣の地位や、又時には他の幾つかの高官職を売って得る金がなくなれば、きっと打撃を蒙るでしょう。従って権力の座にあるものは、贈り物を次々と与えては機嫌をとり、これらすべての貪欲な吸血鬼をいつも満腹にしておかなくてはなりません。特に今までに増して国王の寵愛を獲得しようとする時には、巨額の金が必要になります。

所が金炳国(きむぴょんごく・国王の義兄弟)は、幾つかの官職をかなり高く売り、朝鮮人参の専売権を引き受けたのだが、それでも尚必要とされるすべての人々に富を行き渡らせて、地位を買収するだけの金を得ることができなかったのです。昨年の真冬に、金炳国のおかげで多くの地位と富を得た1人の男が金炳国を訪ねてきて、「最高権力を握りたいとは思わないですか」と尋ねたのです。「答えるまでもないでしょう。しかしそれを得るためにはとにかく金がいるのというのに、私にはそれがありません」と国王の義兄弟は答えました。「それでは私に王国の南部地方の租税を徴収する職を下さい。そうすれば必要なお金を手に入れて差し上げましょう」「よろしい」と大臣は答え、すぐさまその男の指示に従って対策を講じたのです。南部地方の租税は主に米で、それは海路を通じてソウルに運搬されていました。くだんの男はこれらの米をみんな集めて船に積み込み、中国まで運搬し、朝鮮で売る4倍の価格で売りさばいたのです。帰国した彼は租税に必要な米を再び買いととのえました。こうした値段の差額によって、国王の義兄弟は、宮中にあふれている一群の宦官と侍女の支持を一手に獲得することができたのです。そして彼は自分の競争相手を罷免し、すべての権力を独占しました。いかなる穀物を輸出しても、それは極刑にかけられる犯罪になります。ましてや王室の維持費のために徴収された米を売るものは許し難い国事犯なのです。この密輸出が原因となって、とうとうこの年は幾つかの道にとっては深刻な飢えの年となったのです。しかし彼にとって何の関係があるでしょう。彼が権勢を得、豊になった以上、誰が彼の行状を問い正そうとするでしょうか」

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6.身分制度、両班の横暴

6.1両班

韓国誌  302頁、311−312頁

「1894年の改革前には5箇の階級存在したり。即ち貴族(両班)、地方両班、中等民、平民、奴隷是なり。……然れどもこの条例は今日まで多くは死文に属し、……奴隷の1897年に至も猶公然存在するは其の一例なり。」

「強請を為すの方式は驚くべき簡単にして、彼らはその助手を伴い、昼間もしくは夜間に富裕なる商業或いは工業家に侵入し、その主人を捕獲して顕官の家もしくはその他危険なき場所に引致して、従順にして要求を承認する物は遅滞なく放免し、もし要求せらるる額を払わざる者ある時は、笞杖もしくは絶食の苦を与え、之を払うまではその苦痛を免れざらしむ。多少廉恥心ある両班はこの如き略奪を借用の名義において行うと雖も、之を返済したる例なきにより、一人として之に信おく者なし。両班平民より土地家屋等を買い入れたるときは、多くはその代価を払うことなく、又物件を借りたるときも多くは之を返す事なきも平民は一人として決然之に抗する者なし」

シャルル・ダレ:実話として  193−194頁

「みじめで、みすぼらしい風体をした一人の両班が郡衙の近くを通っていた。そこへ泥棒を捜していた4人の捕卒が行き会い、その外見にやや疑念を抱き、もしかするとこれが自分たちの捜している者ではないかと思って、ぶっしつけな尋問をした。すると両班は答えた。「はいそうです。私の家までついて来て下されば、共犯者も教えますし、盗んだ品物を隠している場所も教えます。」捕卒たちがついて行ったところ、この両班は家に帰り着くやいなや、召使いたちと数人の友人を呼んで捕卒たちを捕らえさせ、さんざん殴りつけた。その後その3人からは両眼をえぐり取り、残る一人からは片方の目だけをえぐって、次のようにどなりつけて彼らを帰した。「この野郎ども、分かったか。これからはよーく見て歩け。おまえ等が郡衙に帰れるように、目の玉一つだけ残してやったのだ」

杉本コメント

ダレによると1857年の法令改正により、それまで認められなかった両班の庶子も両班として扱われるようになつた。(190頁)これにより両班は急増した。一説によると併合時両班の数は40%に達したと言われる。(未確認)両班は官吏以外の職に就くと、その後永久に両班の特権を失うので、彼らは失業しても決して他の仕事をしようとしなかった。又彼らは極度に労働を蔑視して、キセルに煙草を詰めるのさえ従僕にさせたといわれる。このように無為徒食する大量の両班を養うため、常民の生活は大変だったようである。

6.2.奴隷

韓国誌  319頁

「又個人的随意契約により若しくは父母に売られて奴隷となるもありて、世襲奴隷と一時的奴隷とはその間厳重なる差違を存し、世襲奴隷の子女は常に奴隷となり、主人の承諾を得るにあらざれば絶対的にその自由を回贖するを得ざるも、一時的奴隷の子女は多くの場合において解放せられ、その奴隷自身も犯罪により奴隷と為りたるものを除くの外は、主人の意に反すとも一定の金額を納めて自由の身となることを得るなり。世襲奴隷は常に全く主人の専有物と見なされ、主人は之を売買し、貸与し、贈与しその他すべて随意に之を処分することを得。」

シャルル・ダレ  210頁

「奴婢の数は今日では昔より遙かに少なくなっており、尚減りつつある。少なくとも中部地方の有力な両班の家以外では、もう奴婢を殆ど見かけることはない。

「最も蔑視されている同業者組合は、牛の屠殺業者(白丁)のそれである。……屠殺業者は誰が見ても奴婢よりも更に低い別個の1階層をなしている。彼らは一般の村落内に住むことが出来ないので、彼らを忌み嫌っている村人たちの圏外に住んでおり、自分たちの社会だけで通婚している。……話のついでに注意を促しておくが、一般人の蔑視は屠殺業者にだけ向けられていて、肉の販売を目的とする肉屋には何ら関係はない。」

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7.取り調べ、監獄、

シャルル・ダレ  112−114頁、118−119頁、122−124頁

「ある日1人の若い常民が、両班の子弟と喧嘩している内に、誤って斧で脇腹を一撃して殺してしまった。殺人犯である常民は、即座に捕らえられ守令の前に連行された。証人の中には被害者の父親もいた。一言二言三言訊問した後、守令は斧を持ってこさせてその父親に手渡し、縛られたまま地面に倒れている殺害者を指さしながら、「こやつが、どのようにお前の息子を打ち殺したか、見せてみよ」と言った。守令はその父親に犯人をその場で殺害させ、煩わしいこの事件から早く逃れてしまいたかったのだ。」

「大きな邑には、捕卒から報酬を受けている盗賊の頭目が数人いつもおり、人々が彼らの行為に耐えられなくなった時か、守令がいつになく強い脅しをかけた時に、法廷に突き出されてくる。彼らを逮捕する時にも、比較的軽い犯罪については合意が出来ていて、それから捕卒が告発し、被告が是認する。重大な問題に関しては、すべて堅く沈黙が守られ、真犯人が自分の犯罪に対してそれ相応の懲罰を受けるようなことは稀である。のみならず政府は必要なときに備えて大胆で図太い補助者を自らの手元に確保しておくため、世間に名の知れた数多くの泥棒を自由にさせておく。」

「許されている拷問が、未だ数多く残っている。次に主要なものを挙げてみよう。(詳細省略)
1.棍杖(長さ1.6−2メートル、幅20センチ、太さ4.5センチ位の棍杖で殴る)
2.平棒、笞、棒杖
3.骨の脱臼と屈折(3種類ある。その内の1例は、両膝と両足の親指を縛り、その間に2本の棒を入れ、反対方向に引っ張る)
4.吊り拷問
5.鋸拷問或いは足の鋸引き
6.3稜杖(木製の斧若しくは鉞で肉片を切開する拷問」 

マッケンジー  27ー28頁、33頁、79頁、119−120頁

「監獄は呪詛の的となり、拷問は自由に行われていた。周期的な監獄清掃に際しては一時に数十人の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された。」

「罪人たちがその首をはねられた後、鳥や犬に食わせるよう野っ原に放り出して置かれるのを見て、不快感を抱いたこともあろう。更に彼はしばしば行われた囚人に対する拷問や笞刑の光景を見て全く嫌になってしまったこともあるだろう。」

国王のロシア大使館逃避後。「第2の詔勅が天下に公布され、兵士たちに自分たちの国王を守り、謀反の首謀者たちの首をはねて国王の所にそれを持参するよう呼びかけた。この詔勅は集まった群衆の怒りを最高潮にかきたてた。大群衆が前閣僚たちを殺害しようと捜し求めた。2人の大臣(前内閣総理大臣金弘集と前農商工部大臣鄭秉夏の2人)が街路に引きずり出され、残忍きわまる方法で殺害された。その内1人は首の後ろから耳の前にまでわたるひどい深傷を負っていたが、群衆はその彼が倒れるとき猛獣のような大きな歓声を張り上げた。群衆はその死体に向かって石を投げつけ、或いは踏みつけ、又或ものはその四肢をずたずたに切り裂いた。1人の男は自分の小刀を抜きはなって、死体の一つの内股の肉を切り取り、その肉片を自分の口に入れながら、群衆に向かって「さあ!奴らを食おうではないか」と叫んだ。」

1906年夏(韓国を保護国化してから1年後)「二つの監獄を実際に訪れてみた。その最初のものは平壌で見たのであるが、そこでは18人の男と1人の女が一つの監房に閉じこめられているのを見た。その男たちのうちの数人は木の柱にくくりつけられていた。囚人たちはやせ衰えており、その身体は恐ろしい病気の明白な徴候を示していた。彼らの衣服は最低のものであり、その監房は筆舌につくし難いほどに不潔であり、何らの身体労働や労働もなしに、数年間も監房に閉じこめられたままなのであった。或囚人は6年もその監房に閉じこめられてきたと言うのであった。

次の監獄、宣川(そんちょん・平安北道)のそれはもっとひどかった。その監獄の中はとても暗くて、部屋に入ってからしばらくは何も見えないほどであったが、地上に縛り付けられている3人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。部屋には明かりもなく通風窓もなかった。ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。1人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの1人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。」

杉本コメント

マッケンジーは監獄の改善が遅々として進まないと伊藤統監を非難しているが、この時期日本は少数の顧問を送り込んだだけで、内政は韓国に委ねられていたのである。伊藤に対する期待が大きすぎた故の非難と考えるべきであろう。

天安の独立記念館へ行くと、日本時代の拷問風景の蝋人形があり、日本時代が暗黒時代であったかのような印象を受ける。しかし日本は併合後このような厳しい拷問を止め、監獄を改善したのである。

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8.結 び

イザベラ・バード  ロシア国境部のロシア側を旅行して  305−307頁

「クラスノエセロとノヴォキエフスクの間にある村々は朝鮮系ロシア人定住地の典型といえた。道路はまずまず良く、水路の手入れも行き届いている。衛生上の規則が厳しく課され、村の衛生に関しては村長が責任を負っている。朝鮮半島の不潔で荒れた貧しい村々とは異なり、この定住地の家々は同じ朝鮮家屋でも立派である。木舞を使った土壁に漆喰を塗り、屋根は良い状態を保ち、敷地や農作業用の庭は漆喰壁の塀かきれいに葦を編んだ高い塀で囲ってあり、毎朝掃いているかの如くきれいで、農作業小屋は頑丈できちんと手入れされている。豚小屋からも警察署長の目の鋭さが察せられる。住居の多くは4間か5間、時には6間ある。部屋には壁紙を張り、天井があって、白い薄紙を張った格子戸と窓がある。床には上質のござが敷いてあり、朝鮮本国では高級官僚の家ですらめったに見られないような家具がふんだんにある。……

朝鮮にいたとき、私は朝鮮人というのはくずのような民族で、その状態は望みなしと考えていた。処が沿海州ではその考えを大いに修正しなければならなかった。自らを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から、勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げ出してきた飢えた人々であった。そういった彼らの裕福さや品行の良さは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みを私に抱かせる。

マッケンジー 150頁

「北部地方の人々は、ロシア領ウスリー地方では、容易な生活条件と公正な行政と無差別とを獲得できることをよく覚っていた。東部シベリアにおける韓国人の生活条件、つまり繁栄と平和と満足感は、韓国国内の日本統治下でのそれらとは驚くべきコントラストをなしていた。」

杉本コメント

マッケンジーは日本統治を非難しているが、マッケンジーがこの書を書いたのは1908年で、韓国併合前である。伊藤博文が統監となり、韓国の内政に関与し始めたのは1905年、ハーグ密書事件で関与を強めたのは1907年である。従って日本統治の成果が発揮されようがない。

従ってこのマッケンジーとイザベラ・バードの話から明らかなことは、韓国人は自国に暮らすより、ロシア領内へ移った方が幸せになったということである。つまり異民族支配だから悪だということが偏見に過ぎないことを示している。

日本は韓国官僚、両班の横暴、搾取から一般人を救い、悪習を正し、今日の韓国発展の基礎を築いたのである。私はこの理由により、韓国・北朝鮮に謝罪する必要を認めない。又ここで一言追加すると日本は韓国を人治国家から法治国家へ変えたのである。日本が韓国を併合し、中国を侵略せざるを得なかったのも、一にかかってこの人治主義、法の無視が一因となったのである。日本は欧米との不平等条約の解消に40年かけ法整備をした。中国は未だにリース代金を踏み倒し、差し押さえようとすると、武装警官により阻止されるような国である。(産経新聞平成12年11月8日「日中再考」)中国は日本を一方的に非難するが、このような事実につき真摯に反省しなければ、将来の国際社会で相手にされないのではなかろうか。

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