無動寺谷雪華伝
 十萬枚護摩供養隋喜録
平成14年11月2日〜9日


この記録は京都 大仏師 松本明慶師を囲む方で構成される松本明慶友の会が発行される会報紙「苦楽吉祥」第15号に掲載された記事で松本華明氏が執筆されたものです。大変感動を覚えた記事でしたので松本明慶先生のご承諾を得てここにご紹介します。
千日回峰行の拠点 比叡山
根本中堂を核として、宗祖・伝教大師最澄の求道の灯火を今に伝える天台宗・比叡山延暦寺。その南東に位置し、琵琶湖を東に眺める無動谷。ここは千二百年の時を越え、日本でも屈指の山岳修行の歴史を持つ聖地である。神仏の宿る谷である。天に向かい、凛として簡潔に伸びる杉木立の群生は威厳に溢れ、その根元の湿地帯には数知れぬあまたの生物・植物が営みを輪廻し、土や堆肥の匂いは心と肺にやさしく迫る。里の人に「峰の白鷺」と呼ばれる、千日回峰行者の拠点なのだ。
21世紀の世に純白の死装束を身にまとい、腰には自害用の短剣と死出紐、頭上には未開の蓮華笠を頂き、比叡の山懐をひたすら、祈りの行に駆け抜ける人生たちがある。
そして、この無動寺谷らおいて平成六年、千日回峰行を満行され、若き回峰行者の指南役を務めておられる四十八代・上原行照阿闍梨(四三才)は籠山(お山の結界の外へは絶対に出ない)十七年、現在明王堂を守る輪番の重責にある。ひたすら、行一筋の行照阿闍梨の壮絶な十萬枚護摩法要を、今回畏敬と感謝の念に震えながら、護摩堂内陣において目のあたりにする機会に恵まれた。

十万枚護摩供 開白
十一月二日、坂本より午前九時三十分発のケーブルに乗り込む。頂上まで2025メートルの距離を、ゆっくりと力強く登り続けるこのケーブルは、日本で一番長いという。これからお山で繰り広げられる厳行をじかに見つめ、共に祈願しようとする信者衆、何も知らずに観光で立ち寄ろうとしている人々、裏方として多忙を極める寺の関係者など、様々な思いを乗せて、満杯のケーブルは進む。車窓からは山林の景色が流れるように続き、眼下の坂本は遥か彼方に、湖面きらめく琵琶湖の姿を時折垣間見る。ケーブルは十一分後に延暦寺終点に大きなひし揺れと共に到着。ふもとの里では暖かな日差しが射していたが、お山のケーブルを降りると十度は気温が低い。寒風が吹き荒れ、指゜さきは凍え、体がしばれる。
明王堂・護摩堂へと通じる無動寺谷の急な参道を、老若男女多くの人々を追い抜きながら
「お先に失礼」
とカメラを首にぶらさげ、駆け下りる。リウマチや神経痛を抱えていると思われるご婦人方や、杖をつきながら慎重に歩みを進める初老の男性など、冷風飛び交う山道を、皆それぞれにはやる気持ちをおさえながら、鮮やかな紅葉をめでることも忘れて、随喜へとむかう。
徒歩十七分、明王堂到着。お堂に張り巡らされた五色の幕が、激しくひるがえる。強風にあおられながら、バラン・ボロンと音を
立てて乱れ舞う姿は、凄まじい行の始まりを暗示するかのようだ。

明王堂と護摩堂には徐々に多くの人々が参集し、十時半を回る頃には群衆はお堂から溢れ、静かにざわめく。素足に草履履きの小僧たちが、おのおのの任務を果たすべくキビキビと奔走。日々不動明王を拝み、回峰行者の「下座奉仕」に尽力される民間サポート組織、息障講が警備や護摩木の手配を取り仕切る。
午前十一時、まず回峰行の始祖・相応和尚(831〜916)の法要が明王堂において営まれた。当日の十一月二日は相応和尚のご命日にあたる。すへては法曼院より始る。無動寺谷の政所である。木枯らしが吹き荒れる中、法曼院より出発した延暦寺・高僧の行列は法曼院大僧正を導師に頂き、急な石段を登り、一名ずつお堂の北側に安置された相王和尚の石像に向かって合掌・一礼の後入堂。開祖のひたむきな遺徳を忍び、施餓鬼法要の読経がつつがなく厳かに流れた。
法要の後、高僧の列が法曼院に戻ると、小僧たちや息障講の動きはさらに活発となる。12時半をまわる頃、無動寺谷は幾百人にのぼる信者衆の静かな熱気に包まれる。いよいよ厳行の支度が整う。法曼院を出た行列は今度は急な石段を下り、護摩堂へと向かう。先頭には息障講の重鎮が、そしてかつてこの十萬枚護摩供を貫徹した歴代の高僧が続く。最後から二人目に、白衣をまとった上原行照阿闍梨の姿が見えた。

とても穏やかな表情だ。かすかに微笑みが浮かぶ。命がけの行を目前にして、心底喜んでいるのか。階下でそのお姿をカメラにおさめようとりきんだ私は、阿闍梨さんを眼前に緊張と動揺のあまり、シャッターを押さず電源を切ってしまった。落胆しながら、大原野の工房でみほとけを彫る主人に、厳行開始の一報を携帯電話より告げる。「そうか」感慨深くうなずく声が響いた。無事満行を祈念して、不動明王(座像・一尺五寸・総ひのき)を彫ると言う。

八日間 断食・断水・不眠・不臥の火あぶり地獄の厳行
護摩堂入堂。護摩堂に華美な装飾は一切無い。質素で簡潔な佇まいは、まさに護摩を焚くためにのみ建てられたお堂である。これより内陣において、三時間おきに一日八座、計五十六座もの護摩行が、七泊八日間にわたって炎々と続く。断食・断水・不眠・不臥という苛酷な戒律に身を委ね、まさに火あぶり地獄の厳行の幕は切って落とされた。
師匠・諸先輩方が見守る中、護摩壇を前に上原阿闍梨による開行の作法が坦々と進む。取材陣は内陣より退去の喝が飛ぶ。震えながら、お堂の裏に退却。
そこにはプレハブ小屋一杯に、整頓されずっしりと積み上げられた護摩木の束・束・束。その数は十一萬五千本をはるかに越えていた。杉材による護摩木は普段使われるものとは違う。はるかにゴツイ。乳木といわれるこの円筒形の護摩木は息災を意味し、その一本一本には氏名・年齢・願意が丁寧に記されている。切なる願いの結集なのだ。そして護摩木の長さは阿闍梨さんの左右の乳首の間隔と同じとされ、太さも阿闍梨さんの親指の太さと同じにあつらえている。十萬枚護摩供に挑む歴代の阿闍梨さんたち各々のお体に即した護摩木が用意されるのだ。これは阿闍梨さんが護摩を焚くことによる献身を表すという。息障講の重鎮・西村正久さんが教えてくださった。それにしてもたった八日間で、一気にこれだけ大量の護摩を焚くのか。
お堂より不動明王のご真言の唱和がこだました。「ナーマク・サマンダ・バザラナセンダ・マカロシャナ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」僧侶と信者混合の幾百人の声色がひとつにまとまり、止切れることなく繰り返される。護摩が焚き始められたようだ。内陣に置かれていたお供えやシキビ・四杭・門標・壇線・様々な仏具・壁面に掛けられていた十二天の仏画が、小僧たちによっ迅速にお堂の裏口に運び出される。火災を防ぐためか、そしてこの護摩行で上原阿闍梨の手足となり、下働きをつとめる小僧(承仕)たちが動きやすくするためか。凄まじい炎行の輪郭がおぼろげながら観えた。耳を澄ますとコーン・コーンと快調に護摩木が炉に投げ込まれている音が響く。寒風が谷間を疾走する。
内陣の取材が許可され、カメラを握り締めながら恐る恐る裏口よりお堂に入る。緊迫した空気。内陣の護摩壇を取り囲む座上には、信者衆とともにご真言をひたすら唱え、厳行を見つめる随喜僧が八名。大きな護摩壇の正面に上原行照阿闍梨が背筋を伸ばし、毅然として鎮座されている。美しい。左手には護摩木の束を、右手には束より一本ずつ取り出した護摩木を素早い動作でくべ続け、印を結ぶ。ご真言のリズムに呼応して、護摩木は矢継ぎ早に次々と宙を舞い、火炎の中へ吸い込まれる。ゴオゴオと立ち上る火炎は、一度として同じ姿をとどめることなく、激しく踊るように燃えつづける。
聖なる炎は人の暮らしに暖を与え、豊かなものにし、文明そのものを発達せしめる恩恵を与えた。しかし、時として破壊の神となり猛威を揮うこともある。こんな有り難いものはなく、怖ろしいものもない両刃の剣である。であればこそ、人は火の神を水の神とともに、古来より畏敬の念を込めて、崇拝するのではないだろうか。
内陣に話を戻す。阿闍梨さんの左側には、護摩木の束を一抱えずつまとめる小僧と、それを阿闍梨さんの動作に合わせて、じかに手渡す小僧が。また、右側には、大きな円形の炉(直径85センチ)に投入された護摩木の行方をしかと見つめ、脇にそれた護摩木を火箸で拾い、所定の位置に修正する小僧がテキパキと動く。他には炉の周りや土間にこぼれた護摩木を、炉の外円にきれいに放射線状に火箸で並べ、なおかつ炉の中の護摩木が順次すっかり燃焼するよう、調整する小僧が二名。水の入ったバケツを運ぶ小僧。炉から溢れてなお燃えながら、護摩壇の奥に積み上げられた炭と化す護摩木を、柄の長い大きなスコップのようなもので、水入りのバケツにザクザクと投入する小僧二名。バケツの中で白煙とともに、ジュンと護摩木が叫ぶ。阿闍梨さんは炉を見つめながら両手を上に広げ、小僧たちに必死の指示を飛ばす。まばたきする間もない程に、各々が神経を集中させ黙々と行に従事する。「ナーマク・サマンダ・バザラナセンダ・マカロシャナ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」小僧たちそれぞれの唇からは、不動明王のご真言が力強くこぼれる。莫大な護摩木との格闘である。
初護摩に焚かれた護摩木の数は三千本。七日後の満行まであと五十五座、阿闍梨さんを中心とした怒涛の厳行は、今始まったばかりである。護摩堂より出堂。お堂の裏手にある南山坊(控えの間)へ。お顔には、思いを廻らせつつ張り詰めた緊張の色が観えた。四時にはまた次の厳行が控えている。(連日、午後一時・四時・七時・十時そして午前一時・四時・七時・十時と行は繰り返される)凄まじいものを見せて頂いた感動の余韻にひたりながら、無動寺谷の急な坂道を登り、帰路に着く。十一月二日の夕暮れ。

十萬枚護摩供とは
忠実によると、十萬枚護摩供法要を千日回峰行者・大行満阿闍梨として最初に始められたのは、三十一代・大椙覚宝阿闍梨であり、今をさかのぼること238年前・元治元年(1868)延暦寺大講堂において行われたという。また今日のように明王堂・護摩堂においての法要は、三十六代・奥野玄順阿闍梨(大正七年・1918年満行)が始まりという。十萬枚護摩供は千日回峰行を満行した大阿闍梨の中でも、無動寺谷明王堂・輪番となったものだけに許される未曾有の厳行なのだ。
一日八座の護摩行を七泊八日の間、断食・断水・不眠・不臥で成し遂げる正行に至るまでに、特筆すべき前行がある。それは、正行のちょうど百日前にあたる七月二十五日より開始された。五穀(米・大豆・小豆・大麦・小麦)と塩分を絶ち、一日三座の行をこなすのだ。一年で最も汗をかく真夏の時期より、塩分をまったく取らないで、一日三座も火炎を眼前に護摩を焚けば、体内にあった塩分は汗と共にすっかり絞り出てしまうはずだ。じっとして過ごしても大変辛い真夏に、なぜこのようなことをするのか。強靭な精神力をつけるのみならず、この前行には正行に向けての、肉体大改造の秘法が組み込まれているようだ。

再び比叡山に 阿闍梨さんは何歳かわからないほどに・・・
仏師の妻をなりわいとする私は、俗世の暮らしに戻った。洗濯物をしていても、あじの開きを焼いていても、弟子と話をしていても、護摩堂内陣の鮮烈な光景が蘇る。阿闍梨さんはご無事であろうか・・・十一月三日・四日・五日・六日・七日とお山に思いをよせつつ、時は経過し、家内の雑事をこなした。六日に随喜に行かれた方より、当然のことながら阿闍梨さんのかなりの衰弱を伝え聞いた。正行開始の三日前、夜分にもかかわらず、主人明慶と共に激励に訪れた折に、とても喜んで下さった笑顔が浮かぶ。
そして、八日の正午過ぎ、再度比叡のお山へと出陣。雨傘に雨ガッパ・数個のホカロン・懐中電灯に、何枚もの防寒着、何より大切な愛用のカメラ。野外で徹夜覚悟の取材である。生涯一度の荒行なのだ。私自身、もろともに不動信仰に身を委ねることにした。
実は私にも大切な任務があった。こんな回の十萬枚護摩供でお護摩が焚かれ、炭と化し、膨大な灰が生れる。その灰を用い、主人松本明慶が大原野の工房において、不動明王の灰仏を作るよう事前に上原阿闍梨よりの依頼を受けたのだ。(二十年前にも、叡南俊照大阿闍梨が十萬枚護摩供満行の際に、明慶が灰ぼとけを担当)護摩堂内陣において繰り広げられる厳行のすべてを、五感を研ぎ澄まし、カメラにおさめ、松本工房の若き仏師たちに語り伝えなければいけない。とうてい言葉や文字に尽くしきれないものを、如何にして伝えたらよいのか。ささやかな行である。

十一月八日午後三時過ぎ、ケーブル延暦寺から無動寺谷の参道を下り再び護摩堂裏・息障講テントに到着。息障講は比叡山の回峰行と共に千百年の歴史を持つ。寒風の中、高い石垣の傍らにあ野外のテントでは息障講の世話方が、お堂で焚かれる護摩木を木製の入れ物にきれいに並べては、二百本・三百本単位で整頓していた。行が始ると、内陣裏口にスタンバイしている小僧に、迅速に入れ物ごとバトンタッチする。
正行初日にも増して、無動寺谷を吹きぬける風は冷たい。しかし、護摩堂裏のテント周辺は熱い興奮と感慨、そして柔らかな安堵感に包まれていた。午前十時からの厳行で無事十萬枚を達成していたのだ。裏方の心配りでその十萬本目の護摩木には、キラリと輝く金の折鶴が添えられていたと聞く。
午後四時、お堂裏の南山坊(控えの間)が開き、小僧に手をひかれ、ゆっくりとした動作で静かに佇む阿闍梨さんのお姿を拝する。六日ぶりである。ただ合掌あるのみ。
お顔の色は白蒼黒く変色し、目は落ち窪み、頬はこけ、髪も髭も伸びた。皮膚はカバカバだ。額には、深く太く長い皺が、幾筋も刻み込まれていた。あごも、首も、体も、ふた回り程きゃしゃになった。いったい何歳なのか分からない。どうして、そこまでしなければいけないのかと叫びたくもなる。
通算五十座目の行が始った。内陣に入るのが恐い。意を決してカメラを手に潜入。修羅の光景は続いていた。内陣・信者衆が心を一つにしてとなえる不動明王のご真言は、疲れ果てた阿闍梨さんの心と体をつき動かす。ご真言のリズムに励まされ、やや背を丸めた阿闍梨さんの右手から護摩木が飛ぶ。
「護摩壇の炉は不動明王の口に当たり、護摩木を焚き、火をお供えすることによって、煩悩を焼き尽くすのです。そして護摩木と共に、芥子・米・白胡麻をお供えすることによって、人の持つ貧・儘・痴を昇華するのです。」
以前そんなことを話してくださった。千五百本のお護摩を焚き終え、出堂。
裏口に置かれたスチール製の椅子にしばらくの間腰掛けられ、お絞りを手にほっと一息。何事かお話されたが聞き取れない。カラカラにかすれたお声が、腹筋より絞り出された。極限状態に身をさらし、今なお壮絶な厳行の中にあるにもかかわらず、阿闍梨さんの瞳の色は穏やかで暖かい。「行照」というお名前の由来を、この瞳のぬくもりにこそ観た。
護摩堂裏口を出てすぐ右手のところに焼却炉がある。そこには厳行で焚かれた護摩木の炭が高々と積み上げられていた。そして静かに漆黒の光をたたえていた。あと、六座で満行を迎える。
坂本へと戻るケーブルの終電は、午後五時半。多くの人々が防寒服や厚手のひざ掛け等を用意し、お堂やその他の庫裏に陣取り、帰る気配がない。数百人はおられるだろうか。無動寺谷を流れる冷気はシンシンと体の芯まで凍てつかせる。もうすっかり暗くなった。護摩堂より急な坂道を下った正面には、大乗院が大きな屋根の裾野を広げて信者衆を迎え入れる。ここでは、温かなおでんやうどんが深夜近くまでふるまわれた。炊き出しのおばさんたちも奮闘。
午後七時、「炉に投げ込まれるお護摩の音を聞けば、阿闍梨さんの体調がわかる」とお堂の裏口で、護摩行の下座奉仕をつとめるベテランの世話方が話してくださった。第五十一座目の厳行は快調に進む。気迫や意志というものをはるかに超えた力が、猛烈な火炎と共に内陣に活力を与える。
阿闍梨さんが出堂され、猛火も静かにくすぶり、堂内の信者衆も雑談を交わし始めた頃、墨染めの衣をまとった二名のの小僧が雑巾を手に、闘いのあとの大きな円形の炉の周辺を黙々ときれいに拭う。ここにもみほとけがおられる。
また、この十萬枚護摩供が護摩堂において行われる十一月二日より九日までの間、実は無動寺谷に点在する五つのお堂では、上原阿闍梨の無事満行を祈願し、葛川夏安居で交流を深めた僧侶たちが参集し、共に行に明け暮れておられた。福島から筧 憲海師が。東京から白戸秀憲師が。岡山から今井龍祥師が。佐賀から藤 光俊師が。そして比叡のお山からは叡南覚雄師と福恵善高師が。計六名の僧侶がそれぞれお堂にこもられた。まず、明王堂において、不動供・十二天供・大師供・法華経読誦を、裏堂では昇天供を、弁天堂では弁天供を、宝珠院では神力品千巻・毘沙門天供を、玉照院では大黒天供を。(後日、それぞれの僧侶が膨大な行を積まれたことを詳細に記録した巻数を、阿闍梨さんが誠に嬉しそうに見せてくださった)十萬枚護摩供はまさに無動寺谷全域に及ぶ神仏の祈願となった。生きぼとけといわれる阿闍梨さんも、血の通った人の輪の中にあり、そのことを十二分に感謝し、天命を生きておられるのだ。

阿闍梨さんの血液が凝固 なぜそこまでするのか・・・
午後十時。南山坊(控えの間)が開扉し、深緑の衣を着た二名の小僧たちに支えられて、阿闍梨さんがお姿を現す。三時間前のお姿とは全く別人のようだ。目が開かない。盲人のように小僧に手をひかれて、それでもどうにか護摩壇の前に座られた。体がこわばっている。衰弱しきったお体を、暗黒の闇が飲み込んでしまいそうだ。悲鳴に近いご真言や、うなるようなご真言が響く。時折、かろうじてお体が少し動く。阿闍梨さんの右手からはポトリ・・・・・ポトリ・・・・・と護摩木が炉へ。その様子を必死に見つめる小僧たちの表情にも、かつてない緊迫と動揺の色が漂う。次の瞬間、阿闍梨さんは右のこぶしをおのれの右膝に打ち付けられた。すると、おぼろげにうっすらとしか開かなかった両のまぶたが突然大きく開き、眼前に立ち上る炎をカッと見据えられた。それまでのことが全く嘘のように、阿闍梨さんは猛然と護摩木をくべ始めた。そして千本の護摩木を無事焚き終えた。
あの時、一体何が起こったのか。一ヶ月後、その気のことを阿闍梨さんに直接伺った。実は連日の猛火との格闘で、阿闍梨さんの体内の水分は極度に減少したのだ。なおかつ気温の低下と共に体温は下がり、血管の中を流れる血液が動きを止め、凝固しかけたようだ。
ではどうして復活できたのか。それは他ならぬ、護摩壇の火炎が救ったのだった。寒さと水分欠乏で凝固したお体を、炎の熱が温めて溶かし、阿闍梨さんの肉体を復活へと導いた。炎は阿闍梨さんのお体を追い詰めるだけでなく、なんと極限状態に至ったとき、救いの手を差し伸べる神と化した。改めて、この厳行の恐るべきメカニズムを知った。
しかし、これは正行にも劣らぬ、大変苛酷な百日間の前行が肉体を造り代え、阿闍梨さん自信に強固な気迫と自信を授けたからに他ならない。あの時、護摩堂において小僧・随喜衆がかたずを飲んで見守る中、阿闍梨さんご自信は非常に冷静であった。火炎によってお体が温まるのを、あわてることなく待っておられたのだ。そして体内の血液がゆっくりと流れ始めたのを感知し、機を捉えて、右のこぶしを己の右膝に強く打ち付けられた。「よし、いくぞ。そんな感じだったのでしょうか」十二月十一日、取材の御礼に伺った私に、当日のことを振り返りながら阿闍梨さんは語られた。

阿闍梨さんを満行へ!
十一月九日午前一時、厳行は続く。内陣に変化が現れた。小僧たちの目の色が変わった。輝きを増した。動きが変わった。気力に溢れて活気がみなぎる。三時間前の阿闍梨さんの壮絶な死闘を目の当たりにし、小僧たちも再生した。「なんとしても、阿闍梨さんを満行へ」そんな心の叫びが聞こえた。阿闍梨さんの過度の衰弱と消耗を察知していたのだろう。出堂された阿闍梨さんの頬はこけ落ち、瞳の色も薄らいでいる。
堂内の信者衆はひざ掛けをすっぽりとかぶり、雑魚寝をし始めた。内陣では小僧が二人、静かにきれいに戦場の後の清掃を続ける。無動寺谷を凍てつかせる冷気は暗闇の中、法曼院の石段を、明王堂の屋根瓦を清める。澄んだ空気がひんやりと心に沁みる。
午前四時、雑魚寝をしていた信者衆もきちんと正座し、不動明王のご真言の唱和が始る。護摩堂がもろともに運命共同体となる。阿闍梨さん入堂。幾多の試練を乗り越えながら、お護摩を焚き、お供物を捧げる。内陣には常時七・八人の小僧はいるが、お護摩を投じるのは阿闍梨さん、ただお一人である。誰も手助けはできない。渾身の力を振り絞りながら拝む。瞳が乾燥し果てたのか、まぶたを閉じ、お顔がクシャクシャにへしゃげた。拝む。お供物を火炎に投じるお体がグラリと前のめりに傾き、大きな炉に飲み込まれそうになりながらも、体制を立て直し、拝む。千本の護摩木を焚き終えた。毎座しめくくりは、般若心経の読経で行は終了する。それにしても、どうしてここまでするのかと改めて思う。
己の命を張り、人のために祈願する「化他行」。十萬枚護摩供は究極の化他の世界である。この阿闍梨さんのお姿を観て、何も感じない人はまずいない筈だ。心しめつけられるような感動がある。自分も頑張らねばと思う。ここに、この厳行の真意があるのかもしれない。護摩木に願意を託した一人一人の胸に、反省と覚醒を促す。私自信、永年抱えていた悩みは些細なものとなり、吹き飛んでしまった。しかし、お堂まで随喜に来られる方は残念ながら年配の方が多い。もっと多くの若い人たちに観てほしい誠の行の姿がここにあった。
比叡山・回峰行者の存在は一時ブームとなり、大手のマスコミがこぞって取り上げた時期があった。しかし、今回の清行を伝えるメディアは極めて少ない。この未曾有の不況下、混迷を続ける時代に、投げやりになったり、自己主張がすべてといきがる若者にこそ、この行を知ってほしいと心底思った。

歓喜の火柱が踊る
夜明け前、午前五時。寒さもピークを迎えた。まだ暗闇に覆われた空からは、一条二条と細かな雨が降り始めた。雨はみぞれと変わり、野外のテント下でストーブにしがみついてい私たちの上に、容赦なく限りなく叩きつけてきた。しかし、嬉しかった。このみぞれは乾燥しきって、干し物のようになっている阿闍梨さんのお体に潤いと活力を与えるに違いない。
やがて、みぞれは大粒の雪へとさらに姿を変え、無動寺谷を真っ白に染めた。谷に点在するお堂の屋根や紅葉を深めた木々は白銀の雪をかぶり、彼方の回峰行のルートとなる峰々は、猛烈な吹雪で何も見えない。とうとう比叡山ドライブウェイは閉鎖となった。十一月のこの時期にこれほど激しい雪が降るのは、比叡山でも稀なことだ。満行を迎える夜明けは空前の大吹雪となった。
午前七時。あと二座で終わる。小僧たちの動きは浮き足立つことなく、冷静に落ち着いている。極度の疲労の中にありながらも、阿闍梨さんの瞳はきらきらと輝いた。お供物を投じたあと、合物器(金製の器)の中で五鈷がカンカンカンカンと軽快に打ち鳴らされた。千本の護摩木が威勢よくゴオゴオと燃え、火柱は高く高く立ち昇り天井に届きそうだ。歓喜の火柱が踊った。倶利伽羅竜王の如き迫力だ。その火柱を眺める阿闍梨さんのお顔に晴れやかな微笑が浮かんだ。第五十五座目も無事終了した。
午前八時をまわった頃だろうか。歓声が上がった。一見気難しそうな老人までもが、呆然と天を仰ぐ。純白の大粒の雪がたくさん落ちてきた。そのひとつ・ひとつの姿は、桃の花にも似て、また桜の花にも似て、にぎやかに回転し踊りながら、次々と落下した。天からの祝福のように思えた。この厳行の何もかも、すべてが報われたように思えた。

十萬枚護摩 満行
その後も無動寺谷は、強弱をつけた吹雪に断続的にみまわれた。昨夜からの徹夜組に加えて、続々とふもとの坂本からまた京都からと、雪降る中を何のその、満行の随喜に全国の信者衆が駆けつけた。人・人・人。無動寺谷は傘を手に防寒服に身を包んだ人で溢れた。
こうして最終五十六座。御礼護摩を直前にして、天空に再び異変が起こった。空を覆っていた分厚く重い雪雲が、徐々に解体し、薄らいだ雲間からはなんと、日光が差し始めたのだ。
午前十時。透けるような雲を残しながらも、空は晴れた。本当にこんなことが起こるとは。劇的だが事実である。
初日に護摩壇から取り払われていた、四杭・門標・壇線・様々な仏具が元通りに並べられ、阿闍梨さんの手で百五十本の御礼の護摩が焚かれた。この七泊八日間に焚かれた護摩木の総数は十二万本であった。その後、満行の作法が速やかに進み、阿闍梨さんは合掌。その時、「朴の湯」と内陣で随喜されていた兄弟弟子・叡南俊照大阿闍梨(二十年前にこの同じ行を満行)のお声が、威厳に満ち堂内に轟いた。大きな抹茶茶碗に、朴(ほうノ葉)を煎じた薬湯がなみなみと注がれ、ゆらりと湯気を立てながら、阿闍梨さんの前に差し出された。七日ぶりに口にする水分だ。器を手に感慨深く一礼。カラカラの唇が器に触れる。一条の温かな薬湯は、阿闍梨さんの口から喉、喉から食道、そして胃へ、前進へと染わたった。厳行は満願成就された。
出堂。五惑う裏口で待機していた平井哲叡師が
「おめでとう」
とひと言。固い握手を交わす阿闍梨さんのお顔は、涙でくしゃくしゃになった。
「ありがとう」
この後、間を置かずして舞台は護摩堂より明王堂に変わる。急な石段を小僧たちに支えられ、阿闍梨さんは法曼院を左側に通り過ぎ、明王堂入堂。ご本尊の不動明王に満了の報告と御礼のご真言を奏上する。そしてくるりとご本尊を背にされると、今度は厳行の間、阿闍梨さんの背後よりご真言を共にし、ひたすら応援してくださった信者衆に向かい、御礼の気持ちをこめてお加持をされる。
果たして本当に声が出るのか・・・お体が二まわりも三まわりも小さくなった阿闍梨さんは、お数珠を手に印を結ぶ。深い吐息とともに、しわがれた声にならない声が漏れた。それでも必死でご真言をとなえ続ける。すると、しわがれ声はかすれ声に変わる。ご真言は口先や喉元で唱えるものではなく、腹の底から全身全霊で唱えるものであることを知る。あちこちでこうべを垂れて合掌し、すすり泣く人の姿を目にする。その心の底から発するお声は、徐々にはっきりとした大きなものとなり、朗々と力強く明王堂にこだました。
最後に度肝を抜かれた。阿闍梨さんはまるで五・六歳の少年のような無邪気さで瞳を輝かせ、堂内のみならず、再び豪雪吹き荒れる境内に出て、翔けるがごとく、参集された信者衆一人残らず全員の頭上に、お数珠を手向けられたのだ。


こうしてすべてを終えた阿闍梨さんの横顔は、ほっと安堵した瞬間、瞳は色を失い、真っ青に蒼ざめた全身は寒さに震えていた。人ごみの中、そんな阿闍梨さんの御身を大切に守護する息障講重鎮の方々は、我が子を慈しむかのように、深い眼差しを注いでおられた。生き不動は紛れもなく温かな血の流れた生身の人である。純白の雪は小雪へと姿を変え、無動寺谷を優しく切なく濡らし続けた。

ひとえに深い感謝の気持ちを託して
松本 華明

大仏師 松本明慶師と上原行照大阿闍梨

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