このQuodlibet とは「ごたまぜ」、「寄せ集め」とか、「メドレー」という意味のドイツ語です。
過去の Quodlibet: 2001年 8月

午前中は市民バンドの練習。午後はレッスンという定番パターンの日曜日。それにしても今日のバンドの練習はTp.の揃いがよくて気持ちが良かったです。

先週からTp.のレッスンで取り上げる曲が新しくなりました。アーバンの2巻で出来そうなもの、という事で、またやっちまいました。「ヴェニスの謝肉祭の変奏曲」。あわわわ、またしても身の程知らずな...。

実はこの曲、まともにやったことがない。しみじみ聞いたことも、あんまりない。(ディスクも持ってないし)。深く考えもせずに、この曲を選んでしまったのだけれど、一通り吹いてみたら、聞いたことも見たこともないようなフレーズの連続。えっ、こんな変奏ありましたっけ?、と先生の前でボケたら、先生曰く、「あー、こんなのもあったんですねぇ、私もつまみ食いしかしてなかったから」。あっけなくボケ返されてしまった。それが忙しくて書けなかった先週のお話。

実は今週も学会絡みの締め切りを抱えていて、忙しかった。午前様で帰宅してから、秋のコンサートに向けて地味な基礎体力づくりを、ということで、何とかリップスラーくらいは続けていたものの、曲を吹く余裕はナシ。それでもレッスンはやってくる...。仕方がない、と腹をくくって、攻め方を考えることに決心。

変奏曲は後半に行くほど音符の数が多くなる。それに惑わされると、ツボになっている音を見失ってしまって、「ただ吹いているだけ」状態になってしまう。こうなると、コントロールも何も無い状態になってしまって、お正月の福笑いよろしく、どこが目なのか鼻なのか、滅茶苦茶になってしまう。そこで、鉛筆を片手に、楽譜に句読点を打つことにした。一体どこが「一塊り」なのか、それを押さえるだけで、吹くときの制御もやりやすくなるハズ。

もう一つは、とにかく楽譜を歌ってみることにした。「ドシドレドシドラドファラドファラレドシドラシファソ...」。こうして音名で歌ってみると、吹ける箇所はイメージと、指と、口が一致していて滞らずに歌うことが出来る。ところが、吹けなかったり、怪しげな場所はこの3つがバラバラ。歌えないものが吹ける筈はなく、出来ないところは、「言文一致、有言実行」になるまで歌う。いやー、それにしても自分はなんて音程が取れないのか...。

とにかく、「ちょっとは頑張った所をみてもらおう」という目標のもと、レッスンに挑んだ。前回までは、息を吸う量が必要最小限になっていて、余裕が感じられない、という指摘があったので、そこを気をつけて吹く。と、今度は「フレーズの取り方をもっと大きくとるようにした方が...」。この言葉も何度何度言われて、進歩していないようなー、とちょっと落ち込む。それでも不思議なもので、先生に言われて魔法にかけられたつもりで吹いてみると、確かに前よりも心にピタッとくる。そう、やればできる。あぁ、この感じだ!、と感じられる耳と心も、自分にはあるらしい。でも、「言われなきゃ出来ない」、というのはどうなんだろう...。いやー、いかんいかん、レッスン中に「陰」に入ってしまっては、と気を取り直して、とにかくブレス、フレージングに気をつけながら悪戦苦闘...。

性格が影響しているのか、私の演奏は「全部の音をきまじめに吹いてしまう」傾向にあるのだとか。(自分はかなりいい加減なつもりなんですが...*_*) 「ドシドレドシドファ!」と16分音符でノラリクラリとしたフレーズがあると、その曲線を忠実に追ってしまおうとすると逆効果で、いずれコースアウトしてしまう。どうするかというと、ここではファの音が一番高いので、その音をずぅっと伸ばしているつもりになって、そのテンションを保ち、フレーズの曲線に合わせておなかの圧力を入れたり抜いたりしないようにする。やってみると、確かにラクに吹ける。いやしかし、何でこうすると出来るんだろう?

今回は、先生がピアノ譜を持ってきて下さったので、伴奏をして頂きました。ピアノ伴奏があると吹きやすいし、楽しいですね。しかし、それもつかの間。第2変奏に入ったところで、自分の処理能力を超えてきて、もはや楽しいどころの話ではない。もう、しどろもどろになって、とにかく終了。ピアノ伴奏は基本的に8分音符のアルペジオでのどかな世界を作っているのに対して、こちらは32分音符の連続で、まさに制御不能のジェットコースター状態。曲が終わってゼーゼー言っている私に、先生が笑みを浮かべながら一言。「ピアノの伴奏とTp.の世界のバランスがあってなくて、なんだかピアノが皮肉っぽく聞こえますね」。まさに御意。いやー、先生、素敵な言語感覚をお持ちですね。ハ、ハハハ...ハ....。

今週のディスク(という訳ではないのですが、毎週、何かディスクを買っていますな)は私の小学校時代からの憧れ、カナディアンブラスのDVD を見付けたので買ってきました。これは1991年にLD で出ていたものをDVD化したディスク。内容は、彼らの演奏に合わせて、5人の幼少期から青年時代にかけてのエピソードを無言劇の形で展開する、というもので、ありがたいことに演奏風景も収録。音と映像が合っていない部分が多いようだけれども、殆ど違和感は感じない。それよりも、相変わらずのエンターテイメント振りと、20年前からのお約束の人間離れした技巧の数々。ここまで楽器を操れるようになったら良いよなぁ。ホント。カナディアンブラスがお好きな方には是非お勧めしたい映像です。(しかもたったの3200円!)(2001/8/26)


ホームページの扉の配色を変えてみました。ちょっと涼しげに見えるでしょ?

今日は朝から頼まれていた原稿書き。秋のコンサートで演奏予定の「キャンディード組曲」の解説を書いてました。以前このページでも『御免被りたい』(2001/7/15)と書いたにも関わらず、原稿依頼。あの複雑怪奇なお話をA4一枚にまとめる、というのはしんどい作業でした...。佐渡裕/宮本亜門両氏によるキャンディード名古屋公演のパンフは手元にあるのですが、これを要約して書いちゃうとパクリになってしまうので、グラモフォンから出ていた(どうやら絶版になっているらしい)バーンスタイン/LSOのCD付属の歌詞を訳して、そこから原稿を起こしました。この手の調べ物をしたり、原稿を書いたり、というのは嫌いじゃないです。ま、本職で研究論文を書くのも同じようなものですから。

歌詞を訳す、と決心したものの、歌詞そのものは音楽に合わせるために音節が限られており、単語が省略されていたり、妙に倒置されていたり。隠喩やらスラングやらもてんこ盛り。意味を汲み取るのが一苦労。CDのおまけの冊子は、独/英/仏で書かれているので、どうしても分からない部分は、ドイツ語で調べる。が、ドイツ語は英語の直訳になっているので、スラングの裏の意味まで訳してくれてはいない。再び逆戻り。はひーー。

それに、もともとキャンディードという物語自体が、当時の社会情勢を風刺する目的で書かれたものなので、パロディーが多い。舞台になったウェストファリアという、平和で満ち足りた土地は、旧約聖書に出てくる楽園だろうし、キャンディードが、氏素性が知れないくせにクネゴンデと結婚などまかりならん、と追い出されるのも禁断の実に手を出してしまい楽園を追放されるお話のパクリかもしれません。だいたいそこまでは想像が付くけれど、テツガクのお話は分からんゾー。パロディーというのは本歌がわかっていないとつまらない事が多いから、私だって本当の面白みというのは分かっていないんでしょうね。

原稿は、インターネット検索を駆使して足らない知識を補いつつ、いやー、聖書くらいは本棚に入れておくべきだな、と後悔しつつ、何とか書き上げた。(でも「ソフィーの世界」がこんなところで役に立つとは思わなんだ)。これでもきっと量が多いって言われるんだろうなぁ。ここから削れと言われると、更にホネなんだけどな...。(2001/8/18)


職場復帰。でも、実験室の本格稼働は来週からなので、周囲はまだ夏休み中。おかげで落ち着いて論文に目を通すことができました。(その仕事は実家にお持ち帰りしていた仕事だったりするのですが)。

学生の研究テーマを決める、というのは言うまでもなく重要な仕事。ただし、ここには色々な制約がつきます。まず、世間的にも新しくて、工学的に価値があって、かつ、学生が在学中に成果が出て論文が書けるようなテーマでなくてはなりません。(それに、学生自身が興味を持ってくれないと困りますし)。限られた時間内に、それなりの答の出る、そんな素敵なテーマというのは、そうそう転がっているものではありません。私の恩師曰く、適切な問題設定をする(つまりゴールラインを決める)、というのは重要な事である、そうです。今になって身にしみています。

新しくなければ価値はないのですが、かと言って前人未踏の山を登るのは、これは相当に困難です。しかし考えてみれば、一本の研究論文の中で、8割は基礎データであって、目新しいデータというのは、残り2割位なのではないかと思います。基礎データというのは、言ってみれば「当たり前のこと」であって、その結果は実験をやる前からある程度予測をすることができます。しかし、そのデータがあるのと無いのでは、残り2割の目新しいデータを議論する時の構成が全く変わってきます。最悪の場合、肝心な新しい部分を信用してもらえなかったりします。そうなっては、その論文の価値は無くなりますし、周囲からその人や研究室が信用されなくなってしまうかもしれないのです。

学生の中には、高い山に登ろうとして、いきなり頂上を目指そうとする人が、たまにいるのです。その心意気は買いたいのですが、残念なことに大抵はうまくいきません。ウサギとカメの話ではないのですが、結局最後に登頂に成功する人は、要所で基礎データを取って、軌道修正をかけるのが上手な人のようです。学生には、みんな登頂に成功して欲しいと思いますし、何よりも山の登り方を知って欲しいと思います。

楽器や音楽の練習にしてもそうなのかも知れませんね。やるべき事の8割は、最初から答の分かっている(でもそれでいて面倒くさい)練習なのでしょう。(2001/8/16)


あー、やっぱり実家はいいやねぇ。買いだめしたCDを聞きつつ、論文に目を通して、疲れたらゴロゴロして。お盆に入って、関東地方は何故か気温も下がってくれて、なかなか快適に過ごしています。(お仕事をしている方々、ごめんなさい)。

最近、すっかりはまってしまっている指揮者 Paavo Berglundさん。ブラームス交響曲全集の3番、4番も聞いてみました。私の中で3番はつらいことがあった日に聞く曲だという認識があったのですが、この演奏は刹那的になっておらず、意外な感じがしました。3番は曲調の変化にメリハリが乏しいようで(少なくとも1番のように明快ではないと思う)、フランス文学を読んでいるような気分になるのですが、この演奏はその変化の付け方が素晴らしい。調子が変わる、ニュートラルな部分の処理が実に巧妙。見事なグラデーションがかかっていて、あぁ、だんだんと曲調が変わっていく、という様が分かるような演奏になっています。

こうして1,2,3番を聞いてきて、最後に4番を聞いてみると、うーん、これは普通の演奏に聞こえてしまう...。小編成を貫いているのだとは思うけど、後期作品にいくほど、普通のフルオーケストラでの演奏との差異は感じられなくなってくる。弦楽器のアンサンブルに若干の難があるような気がします。でも、管楽器セクションは、作品番号が進むにつれて音の統一も取れてきて、響きにも厚みがでているのが分かりました。うーん、でも4番は聞いていても難しい...。

あえて小編成で挑んだブラームスのシンフォニー。確かに危なっかしいところもあったけれど、音楽の規模までスケールダウンしてしまったわけではないところが良かったと思います。それは、きっと、ヨーロッパ室内管弦楽団が、ふくよかで暖かな鳴りを出せるトロンボーンという「最終兵器」を持っていたからこそ、できたのではないかと思います。最終楽章の終わり手前まで緻密さ、透明さ、を出しておいて、最後にTbで締めくくる。おしまいに納得させることができるものを持っているから、その対極要素を踏み込んで使えたのではないか、と思います。それと、全体的に、指揮者Berglundさんの音楽、というよりもヨーロッパ室内管弦楽団の音楽、という印象がぬぐいきれません。もうちょっと時間がたってから、もう一度聞いてみたい組み合わせではあります。

以上がブラームス。それよりも大事件が発生しました。実は、実家に帰る直前にCDショップで、Berglund/ドレスデン・シュターツカペレによる「我が祖国」のディスクを見つけて購入しました。「我が祖国」については、クーべリック先生が「プラハの春」を振った時のDVDを買って予習していました。正直、モルダウしか知らなかったのですが、映像を見ながら全曲きいてみて、6曲とも良い曲だと思いました。ただねぇ、ちょっと長いなぁ...。まぁ、これがBerglund/カペレの演奏を聞くまでの感想。

そんな事を思いつつ、カペレとの演奏を通して聞いてみました...。実にカペレらしい、落ち着いた演奏でした。虚飾、てらい、一切無し。「素」のままのカペレの音が全編に流れていて、チェコの伝説や自然に満ち溢れているように思います。音楽の作り方としては、前述のブラームス3番でみせたような、ニュートラルな部分の処理が実に巧妙で、野山を照らす光が、絶えず微妙に変化しているように、同じ所に留まらないで変化をみせていく「妙」がありました。1978年の録音。このコンビで他にもディスクは出していないのでしょうか。今度探してみようと思います。

夜は妹と「千と千尋の神隠し」を見に行って来ました。妹は、この作品で言わんとするところが良くわかった、と言っていましたが、私にはちょっとピントがはずれてしまったようです。ネタばらしになってしまうとつまらないので、あまり多くは語りませんが、非常に多くの要素が入っていて、その収拾がついていないような気がしました。結局、作品の主題については、妹と意見の一致をみたのですが、私はなんだか割り切れないような、複雑な気持ちがしています。(2001/8/13)


ただいま実家に帰省中です。日曜日、久しぶりのレッスンを受けて、その足でつくばへ戻ってきた、という次第。楽器と荷物を抱えて移動、というのは毎度のことではあるけれど、お盆の混雑が繰り広げられているこの時期だと一苦労です。

レッスンでは、アーバンの教則本の2巻に載っている変奏曲を取り上げています。曲を選ぶ時に、主題が気に入って取り上げたのですが、変奏が進むにつれて、とんでもなく無謀な選択をしてしまったことに気づきました。ラッパを吹き始めて20年、トリプルタンギングを避けて通ってきた私ですが、文字通り、ここにきて墓穴にはまった、という感じです。トリプルを刻みながらメロディーを吹くなんて、そんなのはただの曲芸だ、という誤った考えで言い訳をしていました。

レッスンはやっぱりダメだったか、なのですが、それでも得る物がたくさんありました。自分には絶対できないと思い込んでいたトリプルタンギングも、やってみれば結構できるもので(まぁ、お聞かせできるレベルではないですが)、最初の一歩を踏み出すには、それほど敷居の高い問題ではなかった、ということに気づけたのが一番。自分でも信じられないのだけれど、それまでは、”こけつまろびつ”だったトリプルが、「ある日突然、できるようになった」、というのが正直な感想。1つの音程を保って3つずつに区切るというのは、それまでも何とか出来てはいたのだけれど、トリプルで音階を吹く場面になると、とたんにつっかかっていたのですが、ある晩、なんとなく出来そうな気がして(いわゆる根拠の無い自信?)、やってみたらできちゃった、というわけ。要は思い込みだったようです。楽器を持っていない時のイメージトレーニングが効いたかもしれません。「どうやら壊滅状態は免れるかもしれない」ということが分かってからは、メトロノーム相手にして、ちょっとずつ目盛りを下げていきながら地道に練習。

「やってみれば何とかなる」、ということは分かったけれど、それほど世の中が甘いわけはない。トリプルタンギングって、普段の3倍近くタンギングをするわけで、これがまた結構疲れるし、何よりアンブシュアが崩れるのが早い。私の場合だと、顎のあたりの筋肉が痛くなってきます。これは自分の吹き方の中でも致命的な問題点だと思っていて、タンギングに相当無理な力が入っている証拠ではないかと。

今は、シラブルをいろいろと変えて、ラクに切れるツボを探しています。今までは「T」の発音がきつすぎた傾向があるので、ひょっとしたら「S」に近い音を出すつもりの方が良いのかもしれないと思って試しています。それと、ゆっくりのうちは3つの音の長さが均等なのに、テンポを上げていくと、最初の音が長くなってきて、転んでしまうのです。先生曰く、最初の音と2番目の音の間に、わざと間を感じるようにすると良いのではないか、とのこと。それと、「K」の音に息が入っていないようなので、そこを直すように、とも言われました。これだけヒントをもらったら、あとは練習練習!

トリプルタンギングは曲芸の部類なのかもしれません。滅多に出てこないし。(シェラザードとか、チャイコフスキーのイタリア奇想曲には出てきますが)。だから問題を後送りにしてきたのですが、自分の基本的な問題も浮き彫りにされてきました。そういえば、どこかの本でも、「耐久力をつけるためには、トリプルタンギングもやらなきゃダメ」ということが書いてあったような気がします。今更になって、そうか、そういうことか、と認識を新たにした次第。

そうか、そういえば今日で32か。 +_+ (2001/8/12)


ベルグルント指揮/ヨーロッパ室内管弦楽団のブラームス交響曲全集を買いました。2000年5月のライブ録音。朝から聞き始めて、1番と2番を聞いたところです。

ヨーロッパ室内管弦楽団については知識がないのであまり詳しくは書けません。ブラームス1番の冒頭は、重厚なクロマッチックを想像して聞き始めたのですが、私の期待は見事に裏切られました。どう聴いても小編成なのです。私は普段は、CD についてくる冊子を読みながら聴くのですが、今回は聴いてから冊子を見ようと思ったので、裏表紙に写るメンバーの写真も見ていませんでした。

裏表紙に写る楽器を持ったメンバーの写真。46名。通常のオケなら、弦楽器の人数とほぼ同じ。そこに管と打が入ってこの人数。冊子には、ブラームス当時のオケの編成人数はまだ定まっておらず、時には少人数のオケで演奏されることもあった、との一文がありました。

1番の冒頭のようなところでは、確かに人数が少ないのは物足りない気がします。これはどうしようもないのかもしれません。バランスも良くはないです。妙に浮き立ってしまっている箇所もあったし。

最初は、今日のオケのスタイルになれていた耳には奇異な感じがしました。しかし、人数が少ないことで、音楽の透明度が増して、純粋になっているのがよく分かる演奏だと思います。音楽の作り方としては、オーケストラでの演奏の雰囲気を保ったまま、そのまま人数だけを減らしたような感じです。

そう思わせるのは、管の鳴らし方が、フルオーケストラのそれだと言うこと。特にトロンボーンは絶品。私が今まで聴いてきた中で、ベストです。1番の終楽章のホルン(ちょっとクセがある)が呼応する動機に続くTbのコラールを聴いたときは、朝7時から泣きそうになってしまいました。このトロンボーンが聞けただけでも、このCDを買った価値があったと思います。それほどに素晴らしい!

トランペットは下吹きが安定していて好演だと思います。写真とメンバーリストを見ると下は女性のようです。上のパートの線が細くなりがちなところを、うまく支えています。木管楽器は率直に言って器用ではないようですが、ソロに回った時の活躍ぶりは、良いとか悪いとかの問題ではなくて、奏者の一本勝ち(というか納得したリスナーの負け)。

これから3番、4番を聴きます。どんな演奏なのか、それも楽しみです。続きの感想は、また近いうちに。(2001/8/11)


唐突ですが、8月最初の週末は、札幌にいました。私がお世話になっていた(もとい、いまだにお世話になっている、が正しいでしょうか)、Ensemble "Unite"が吹奏楽コンクールに出場する、との事だったので、晴れ舞台を見に、お邪魔しに行った、というわけです。(もちろん、旧交を温めに行った、というのも大きな理由です)。

コンクール前日の練習からお邪魔して、本番のステージ(Kitara 大ホール)まで、ほぼ半年ぶりに聞く仲間達の演奏。曲中で優しい旋律が流れる部分で特に惹きつけられるところがあって、あぁ、Unite らしいな、と感じる演奏でした。どちらかというと、強奏よりは、弱目のカンタービレに思い入れが強い人が多いようで(<--これは全く私の私見ですが)、そこをうまく生かしていたと思います。弱点だった強奏部分も、以前よりも鳴るようになってきていて、場面転換のメリハリもついて、長足の進歩があったと思います。

(人数は17名。打楽器なし。この編成で音楽をすることについては、他にも通じる例を見つけたので、後日、改めて)。

本番の演奏を聞いて心を奪われてしまいました。

コンクールですから、これに講評がつき、次の大会へ向けての代表権をかけた評価が下されるわけですが、演奏が終わった段階では、そんな評価はどうでもよくなっていました。只々、気持ちのこもった演奏を聴かせてくれた事に感謝する気持ちで一杯になりました。

結果。金賞。しかし道大会への出場は叶わず。

正直なところ、私には納得のいかない評価でした。同大会へは行って欲しかった。ちょっとでも多くの人達に、こだわりをもって音楽を作っている、どちらかと言えば不器用で古くさいことをやろうとしている"Unite"という団体の存在を知って欲しかった。演奏を聴いても、それは叶う筈だと思っていましたから。

確かに他の団体の演奏も立派で、素晴らしい演奏だったと思いますし、仲間の演奏を聴くまでは、他の団体が道大会への切符を手にするに違いないと思っていました。それに、やっぱり私の評価は身内の評価ですからね。フィルターなしでは聞けないです。それを分かっていても、審査結果を聞いて、頭に血が昇りました。音楽関係のことでこんな納得のいかない気持ちになるのは、2年前にモスクワ放送響のコンサートを聴いて以来のことでした。

コンクールの採点基準がどうなっているのかは分かりませんが、もっと良かったところを評価して欲しかった。減点制で点数を付けていくのは簡単かもしれないけれど、その流儀で子供達の演奏も評価しているのだろうかと思うとゾッとします。バランスとか、デュナミークの付け方 etc.で減点をしていくのは、主観が入りにくいし、公平にも思えます。でも、その結果としては、不気味にまっすぐに揃ったキュウリを育てているようで、私としては嫌悪感を感じます。

ここから先は、未だに良く分からない。吹奏楽コンクールがどうあるべきか、というテーマは、吹奏楽関係者の間でよく議論になる話題ですが、大抵は「演奏者」の立場での意見で、主催者側の意見というのが聞けないので、どうしても主観とか感情的な議論になってしまいがちのようです。(私の頭の中でも、収束しません)。

本当によく分からない。でも、かつて、佐渡裕さんが、某吹奏楽コンクールでの結果に納得がいかなくて、審査員室で一悶着起こしてしまった話は、理解できる気がしました。(2001/8/10)