このQuodlibet とは「ごたまぜ」、「寄せ集め」とか、「メドレー」という意味のドイツ語です。

過去の Quodlibet: 2001年 7月


ベルグルント指揮、ヘルシンキ・フィルハーモニーによるシベリウスの交響曲1-4番のCDを買ってきました。先月号のPIPERS誌で、『北欧のオケによるシベリウスが云々』という記事があったのがきっかけ。

実に堂々とした演奏。全体的に洗練された演奏、というわけではないにしても、粗いところが目立つわけではなく、『暖かみ』のある演奏だと思う。でも、なぜ、北欧のシベリウスの作品が『暖かい』のか?

言うまでもなく、北欧には暗く、長い冬がある。私が居たストックホルムは、白夜こそ無いものの、11月ともなると真っ昼間だというのに薄暗い。言葉で説明するのは難しいのだが、日本人に説明するのに一番ピッタリくるのではないかと思うのは、部分日食の時の風景。真っ昼間なのに薄暗くて、ちょっぴり病的な感じすらする。話によると、9月終わりから、4月頃までは、そんな感じらしい。

シベリウスの曲には、北欧の自然や伝説が織り込まれていて、絵的には、ツンドラ地帯とか、針葉樹林の森とか、そういう「寒い寒い」景色だけを想像してしまう。だから、前述のように、『暖かみ』のある演奏は、シベリウスの世界と相反すると思うし、それは全くお門違いな解釈だと思っていました。

ここから先は、指揮者ベルグルントさんに聞いてみないと分からないのだけれど、北欧の冬は、確かに物理的な気温は低いのかもしれないけれど、どうしようもなく寒いだけではなくて、そこで暮らしている人々や、森の中の自然には「生きている物が持つ暖かみ」があるのだ、ということを表現したかったのではないか、ということ。

1番にしても2番も、最終楽章はダイナミクスの幅が広い。世の中には音量で押しまくってしまう演奏もあるけれど、この演奏ではちょっと趣が違う。mf(メゾフォルテ)以下の部分が丁寧で、まず強奏部分で寒々とした世界を作っておいて、次に弱奏で、暖かい世界を導いて、それを全奏に広げていく。この演奏を聞く楽しみは、そうした「意外な対比の妙」を楽しむところだと思います。「寒」の中に、ふとした「暖」を見つけだす。両方を表現することが可能になってこそ出来る事でしょう。

北欧の作品=寒い世界を表現すること、と短絡的に思ってました、ワタクシ。芸術って、本当に奥が深いな、と改めて思った次第。

でもねぇ、コレ、やってることが地味過ぎて、このCDって売れないだろうなぁ +_+。私が買ったのは輸入盤で、2枚組の1380円。ジャケットも地味だし、よほどの物好きでないかぎり買わないでしょうな(って、買ってる自分は物好きだ *_*)。きっと、世の中には、こういう「メチャ地味」なCDって沢山あると思う。最近まで気付かなかった、クーベリックの演奏だって、何故こんなに心に迫る演奏が分からなかったのだろう、と思うし。そのうちに、CD業界はやっていけなくなる時代がくるのではないだろうか。そうなった時に、(名前が)マイナーなディスクから闇に葬られてしまう事は必至で、それを思うと悲しい。良い物は、末永く残って欲しいものです。

一寸、蛇足。一番の”かまし屋”は Flute だと思うな ^_^。楽句の端に現れる、即興的なフレーズで見せる、一撃必殺(ちょっとオーバー?)の一節。ちょっとオーバーブロー気味だけど、その一歩手前のところを使って、全体の演奏に気合いをいれてます。DVD では無いので、映像が無いのが残念だけれど、さぞ、いい顔で演奏しているに違いない。(2001/7/22)



若干、補足。上の文章を書いてから、"ベルグルント"、"シベリウス"でインターネット検索をかけてみました。そしたら、結構、感想をアップしている方がいたようで、このディスク、思っていたより「売れている」ようです。いやはや、世の中、広いですね。このディスクはシベリウス・ファンの間でも名盤だそうで、こうなると自分の不勉強が浮き彫りですな。こうして自分の感想を文章にまとめてから、他の人の感想と比較してみるというのも、結構、面白いもの。(自分が聞くと、どうしても管を中心に聞いてしまうので、弦楽器奏者の方のページなどは、全然違った角度からの感想になっていることが多くて、楽しいです)。とにかく、「売れないだろうなぁ」などと厚顔無恥な事を書いたことを撤回します。それと、名盤に出会えたことに感謝。(2001/7/22夕方)

佐渡裕氏指揮のミュージカル「キャンディード」の名古屋公演を見てきました。午前中は合奏練習があって、スケジュール的に浜松->名古屋への移動は新幹線を使う必要があったため、朝7時に家を出てJRで浜松入り。実は、昨晩はベルリンフィル・ブラスアンサンブルの熱と、熱帯夜が重なって2時間位しか眠れなくて、体力的にキツイものがあったのは事実。とはいえ、練習、観劇ともに充実していて、あっという間の日曜日だったのが実際。(でも、そのツケが来て、今、リゲインを飲んでこの原稿を書いてます)。

名古屋公演は、昨晩の土曜晩と、日曜日の2回公演。土曜日は、ベルリンフィルがあったので、私のキャンディードは日曜日を取った次第。私がお世話になっているバンドの人達は土曜公演を見に行ったそうで、今朝、話を聞いたところでは、かなり素晴らしい公演だったとのこと。ううむ、これは期待して行かねばなるまい。

で、以下、行って来た感想です。

全体的には、スタープレーヤーが誰かということよりも、役者(というか歌手)、演出、音楽のどれもがバランスが取れていて、高いレベルでまとまっていて、複雑な物語をうまく魅せてくれた、という事。「キャンディド」という物語の筋書きは非常に突飛で、あらすじを要約して書いてくれ、と言われても御免被りたい部類。物語の背景には、「精神思想」があって、何とか主義という考え方があったとすると、それを検証するべく、戦争とか、殺戮とか、拷問とか、物欲とか、金銭欲とか、略奪とか、もう、ありとあらゆる人間の業(ごう)をぶちまけたケーススタディーが繰り広げられて、「それでも、その何とか主義ってヤツを信じますか?」とくる。正直言って、第1幕のこうした混乱ぶりを見ているだけで、気分が悪くなってしまいました。舞台となる場所も、1箇所にとどまらず、ヨーロッパをあちこちし、挙げ句、アメリカへわたったりジャングルを彷徨い...、と目が廻るほど(この場所があちこちするのは、序曲に現れている通り)。さらに、登場人物も、死んじゃったはずの人が出てきたり、ヨーロッパで生き別れになった人とアメリカで再会したり、冷静に見れば、ご都合主義のオンパレード。

でも、この辺を安っぽくしないで、説得力を持たせて、物語の方向性を見失わないように配慮しているところが、演出の宮本亜門氏の作戦勝ちではないかと。この公演、ミュージカルということになってはいるけれど、果たして劇に音楽をつけたのか、それとも音楽に劇がついているのか、今以て謎。それほど音楽が雄弁に語るシーンが多くて、楽隊関係者の私としては非常に楽しめた。演奏者には、佐渡さんと縁の深いシエナ・ウィンドオーケストラのメンバーが多く入っていて、まさに縦横無尽の活躍を聞かせてくれていた。私の席は、何ともやりきれないことに、最上階の一番奥の方だったので、オケピットは全く見えず、芝居もオペラグラスを借りて見たほどなので、指揮をする佐渡さんの姿は見えず。そういう悪条件での観劇であったにも関わらず、佐渡さんの音楽はよく伝わってきて、「あぁ、ここで佐渡さんが何か仕掛けたナ」というのは分かった。ということでチケット代分は、間違いなく楽しめたのだけれど、生の佐渡さんを見られたらもっと感激したに違いないと思う。次は是非、両翼の席をとることにしよう。

音楽については、バーンスタイン自身が録音したCDを持っていたので、どれも馴染みがあった。馴染んではいたけれど、曲がどんな場面で使われていたのかは、殆ど分かっていなかったので、今回の公演をみて、目から鱗(うろこ)が落ちることがしばしば。言文一致とでも言うのか、溜飲が下がりました。

物語は、最後に「Make Our Garden Grow」を合唱して終わるのですが、これには少なくとも2つの意味があるのではないかと思います。1つは「自ら畑を耕し、天からの恵みを育んでいこう」という、garden を畑と訳すヴォルテールの原作に近い解釈。もう1つは、「我らの庭を大きく」という、gardenを我が家の庭と見る解釈。(これは、「音楽の友」誌がバーンスタインの追悼記事を特集した時に読んだ訳)。今回の公演を通してみると、「畑」と見る方が正当のように見える。でも、個人的には後者の訳は間違いだったとしても名訳ではないかと思います。「地に帰れ」という自然回帰を呼びかけているというよりは、真意は、自らの手で創り出すことのできる場所=庭 (garden) で懸命に働いて、それを大きくしていくことが大切なのだ、ということではないかと。さて、この公演を見られた方は、どう思われます?

「我らの庭を大きく」 私の庭は、研究の仕事もそうですし、音楽の庭もあります。この秋に、まさにこのキャンディードを採り上げるコンサートがあるわけですが、自分たちの庭=活動の場所を、ひいては音楽をどこまで大きく育むことができるか。この公演から得た種をもとに、庭に良い花を咲かせたいものです。(2001/7/15)


ベルリンフィルブラスアンサンブルのコンサートに行って来ました。場所は愛知県芸術センターのコンサートホール。実に楽しい演奏会でした。以前、ウィーンフィルが母体となっている、アンサンブル11の演奏会も楽しいものでしたが、それとはまた違った味のある演奏会でした。

メンバーは全部で12名。トランペットx4、フリューゲルホンx1、ホルンx1,チューバx1,トロンボーンx5という布陣。トランペットでは、現首席のベレンツァイ氏と、名手クレッツァー氏という豪華なメンバー。曲はMozartの「魔笛」、Bachのブランデンブルグ3番、Weberの「魔弾の射手」、そしてGabrieliのソナタ(私の好きなピアノとフォルテのソナタも!)。それにスウェーデンの最近の曲を取り入れ、最後にはグレンミラーのメドレーというプログラム。曲順も、硬い感じの曲から、段々とノリのよいものに移っていって、それとともに演奏にもノリが出てくる(と言ってもこのノリが問題なのだけど^_^;)ということで、会場ウケも良かったようです。

編成をみて分かる通り、これだけの編成にしては、中音域を担当するホルンが1本だけ。何かと便利な(と書くとホルン吹きの方に怒られそうですが)ホルンが1本だけなので、分厚い音で鳴らす、というシーンは少なかったようです。ホルンが担当するであろう内声や、細かい伴奏は、トロンボーンや、フリューゲルホン(もちろん、ロータリー)で演奏していました。このフリューゲルを担当していた、クラモー氏が非常に味のある音色を聞かせてくれていて、思わずフリューゲルが欲しくなってしまいました。ロータリーのフリューゲルは、音が柔らかくて、ロータリー特有の水平に広がる音の軌跡が見えるようで、もしブラスバンドに入れてもらえるなら、これをやってみたいと思わせてくれました。

楽器編成でやられた!と思ったのは、休憩後のWeber。当日に販売されていたプログラムによると、『ユーフォニウムなどの楽器を加えて演奏する事もある』とあったので、所謂 Euphonium を想像していたのですが...、出てきたのはワグナーチューバ。そこまでするか(笑)。

当たり前のことだけど、「音楽」があった。アンサンブルなので、お互いに合図を出し合って曲がスタートし、進行する。これが少しもワザとらしくなくて、凄く自然。曲に合わせて体を揺らしてリズムをで取っているのではなくて、「音楽に合わせて体が動いている」という感じ。だからブレスのタイミングにしても、ベルを上げ下げする僅かな動きでも、すごく音楽に「はまっている」。肝心な場面では、誰かが大きめのアクションを取っていて、それが少しも流れを崩していないので、視覚的にも楽しめるワザの数々。こういう「良い雰囲気」をお互いに出し合っているから、ベルリンフィルの確信的な演奏が実現されるのだろう、というのは想像に難くないお話。こういう雰囲気で楽器を吹けたら、さぞ楽しかろうなー。

ラッパセクションでは、ヴァレンツァイ氏とクレッツァー氏という2大巨頭が顔を揃えていた訳だけれど、二人の芸風にはかなりの違いが見られました。クレッツァー氏はカラヤン時代からのベルリンフィル奏者。芸風は、往年のベルリンフィルをそのまま体現したようで、渋くてどっしりした音。一方のヴァレンツァイ氏は、ごく最近に就任した新人奏者。使用楽器も、クレッツァー氏がベルリンフィル御用達のMonkeであるのに対して、ヴァレンツァイ氏はウィーンに工房を置くSchagerl(とプログラムにあったし、そう言えばPipersのインタビュー記事にもそうあった)。ヴァレンツァイ氏の音は、華やかで且つ軽やか。重心の低いクレッツァー氏の音色とは、指向性が異なっていて(ヴァレンツァイ氏の音が浮いているという訳ではないです、念のため)、ダブルトップの曲でも二人で吹き分けをしている場面があり、それぞれの芸風の違いが楽しめました。時によっては、二人がユニゾンになる場面があって、それはもう、場内を制圧されたような雰囲気になりました。やっぱり首席奏者というのは特別ですね。

特筆すべきことは色々あったけれど、熱の入った演奏だったのは、ブランデンブルグ3番。この曲はもとが弦楽合奏のための曲なので、金管だけで演奏するのは至難のワザのはず。確かにトロンボーンで跳躍を含んだパッセージを吹くのは大変そうだったけれど、全体的に非常にノリの良い演奏で、ある意味では後半にやったグレンミラーを凌ぐ熱演だったかも。ブランデンブルグの5番は、かなりジャズっぽい、ライブ一発勝負!的な曲だと思うのだけど、今日の3番もそんな感じ。曲が進むにつれて、細かいパッセージがどうとかは気にならなくなって、合奏のノリを楽しめたのは、やはりこのメンツならではのことでしょう。

笑えたのはジャズを吹くクレッツァー氏。四角四面な芸風の人がスタンダードを吹くとこんな感じなのね、という良い(?)例だったようで、ヴァレンツァイ氏はビブラートをかけたりして、実にそれっぽく吹いていたのに対し、クレッツァー氏はノンビブラートで微動だにせず(笑)。イン・ザ・ムードなんて、まるっきりドイツ・シンフォニーの吹き方だったので、笑ってしまいました。でもね、しかめっ面してジャズを吹いているクレッツァー氏、私は大好きですよ。

もうちょっとクレッツァー氏について語るならば、何と言っても、その存在感の大きさ。曲中、クレッツァーしがザッツを出して入ると、これがまたピタッと音楽の指向性が決まる。さすがに、ベルリンフィルに長期にわたって君臨する大親分。動作の大きさがどうとか以前に、その人が発するオーラみたいなものが、場面を支配しているようで、良いオーケストラにはこういう重鎮みたいな人が必ず居るはず。ヴァレンツァイ氏は私の7つ年上なので、まだまだ若手。ある意味でベルリンフィル離れした芸風で、新しいベルリンフィルの黄金期を築いて欲しいものです。

さぁ、明日はキャンディードだ!(2001/7/14)


こちらに移って1年経ちました。この一年で、自分は良い方へ変わったのか、それとも悪い方へ行ってしまったのか、冷静に考えると怖いものがあります。やっぱりね、結果を出さないといかんでしょうな。結果をね。

今日は研究室の行事のため、楽団の練習はお休みを頂きました。レッスンの時間は、夜に移してもらって、見てもらうことができました。今は、アーバンの教則本に載っている、ある変奏曲を採り上げています。主題が綺麗だというだけで選んだのですが、あとに続く変奏は、ハッキリ言って私の技量を越えてしまっていて、失敗したな、と思っています。合奏の曲では滅多に出てこないような、ダブルやトリプルタンギングを使って旋律を吹き回すような、私にとってはアクロバチックな曲で、結構な「背伸び」になってしまっています。でも、やってみると、案外できるようになるもので、練習をすれば、しただけたのことはあるものだ、と思えるようになりました。人前でお聴かせできるようなものではないですが、やればできる、と思えるようになったことは収穫です。

そう思えるようになったのは、やはり先生の教えの賜(たまもの)であるのは間違いの無いことです。今、私を教えて下さっている先生の教え方は独特のものがあって、つっかかってしまうフレーズがある時に、意外な回り道をして教えてくれるのです。例えば、「ミドソミドー」と降りてくるフレーズがあって、私の場合、途中で引っかかってしまうことが良くあります。そういう時に、まずは「ミドミドミドミド...」と繰り替えさせ、次は「ドソドソドソドソ...」と行って、「ソミソミソミソミ....」、さらに「ミドソドミドソド」と往復して...という具合に、いろいろなパターンで吹かせて、音を体に入れてくれるのです。殆どの場合、音のイメージと、体の状態のマッチングがとれていないのが原因なのだそうで、そこと調整して「はめて」いけばミスもなく、自然に聞こえるようになるそうです。

面白いのは、1つ1つの指示は、非常に具体的で、平易なことが多いのです。そうやって、障壁になっている事を、いろいろな角度から少しずつ取り去っていってくれますし、駄目なところはハッキリだめ、良ければ良いと言ってくれるので、楽しい時間になっています。時として、あまり明確でない指示が来ることもありますが(音楽なので、100%言葉だけで伝わるはずはないので当然ですが)、雰囲気は伝わってくるので、そこから吹き方を推量して音にする、というのも楽しい作業です。レッスンが終わる頃には、魔法にかかったようになっていますが、こういう魔法なら、何度でもかかってみたいと思います。(2001/7/8)