オッカムの剃刀を使うには・・・・

 

 オッカムさんの考えはなるほど確かに説得力があります。実際、奇妙な話なんですが、私達はたいていの場合、最節約に行動したり考えているように思えます。とはいえ、素朴な疑問を持つ人もいるでしょう。オッカムの剃刀って実際に使えるのでしょうか?。使えるとしたらなぜ使えるのでしょう?。

 例えば、カントは自然は最短な道を選ぶと仮定したそうですが(「科学哲学の歴史」ジャン・P・ロゼー 紀伊国屋書店 1974 pp138)、実際に自然は最短な道を通ってくれるのでしょうか?。つまり、現実の自然は最短に、あるいはシンプルにふるまってくれるのでしょうか?。そうでなければオッカムの剃刀や最節約は使えないということにならないでしょうか?。

 こうした疑問はこの事柄に関心のある人は誰でも持ちます。北村ももったことがあって今でも良く分かりません。さらに一部の人はこう主張します。

 ”分岐学は最もシンプルな仮説を選ぶが、それは進化が収斂や逆転をあまり起こさないと仮定している。だが実際にそうではないのだから、分岐学は間違っている”

 この例え話でいう逆転とか収斂とはいわゆる”仮定”ですね。これはオッカムが考えた”天使”と同じで、説明する時にはむしろ切り詰めるべき存在です。だからこの考えはようするにこういうことを言っています。

 ”科学では、最節約に現象が起きると考えているが、実際はそうではないのだから、科学の考え方は間違っている”

 まあ、この主張↑は誰でも分かる間違いをはらんでいます。だって、オッカムの剃刀にしても最節約にしてもこんなことを言っているわけではないからです。

 つまりオッカムの剃刀とか最節約という考え方は、無限にある仮説の中からあるひとつの仮説を選びだす時、

 ”必要最小限の説明で成り立っている仮説”を選ぶという基準で求める仮説を見つけましょう

というだけのことを言っているだけなんですよね。ようするに

 現象は最節約に進むに違いないのだから、最節約な答えを選ぶべきであるなどというハードな事は誰も言っていない、のです。

 ですから先に言ったことはすぐに分かる勘違いですね。しかし逆にいうと誰でも最初はしてしまう間違いらしい。

 とはいえ、科学者が

 オッカムの剃刀やら最節約というのは、純粋に仮説を選ぶ基準でしかない、

  でっあるから、実際の世界がある程度、シンプルっぽく振るまう傾向があるという、そんなひかえめな仮定さえも置く必要はない、オッカムの剃刀や最節約を使うにあたってそんな仮定は必要ない。

 そう考えてよいのかというとそれは怪しい。

 少なくとも実際の世界がある程度シンプルにふるまう、そういう仮定を置かなくてオッカムの剃刀をぶんまわしたり、あるいは最節約!!と言うことができるのか?。そんなことはないのではないか?。事実、この問題に関しては議論があります(「過去を再現する」 エリオット・ソーバー 三中信宏 訳 蒼樹書房 1996 を参考のこと)。

 まあ、この議論についてはおいおいアップするといたしましょう。

 

 

 追伸:ちなみに、北村自身は著作の

  ←「恐竜と遊ぼう」誠文堂新光社 pp26~30 の中で、どのようにこの問題を取り上げたかと言いますと、

 ”最節約は仮説を選ぶ基準でしかないから、誰も進化が最節約に起こったなんて考えていないよね。とはいえ最節約は実験しても妥当な基準に見えるし、身の回りの事柄もある程度シンプルに振る舞うし、どういうわけか私達自身がそういうものの考え方をしているんだな、これが”

 てな主旨のことを書いておくにとどめました。実際に北村の文章が知りたい人は本を見てね^^)。

 

 

 科学のコンテンツへ戻る