バスルーム


 それが起こるのは多くの場合、真夜中過ぎか、早朝。私が目を醒ました時に傍らの黒髪の友人が消えていれば、彼の行き先はバスルームでしかない。
 狂ったように髪を洗い一日に何度も擦りあげる所為で肌に血が滲む彼を、全身ずぶ濡れになりながら何度も飛び込んで私は止める。震える彼の口唇から漏れる言葉は、ある時には「蛆の這った跡が。ぬめりが落ちないんだ。お前には見えないのか」であったり、または「ディメンターが来るんだ。奴らは俺の匂いを追ってくるんだ」であったりする。
 バスルームの灯は落ちたままで、暗闇の中に私達はいる。そんな時の彼の瞳は、大抵私の顔の向こう3インチ程の空間を見ているのが私には分かる。殆ど瞬きさえしていないだろうことも、意識がまだこちら側に戻って来ていないことも。
 私はとにかく彼を落ち着かせようと抱き締めるのだが、もしもその姿を見る人があれば、その様子は二人の人間がそれぞれの闇に屈服した結果として、寄る辺なく互いの腕に凭れ合っているだけに見えたかもしれない。その頃の彼の身体には、この私をも超える程の擦過傷が、子供の残酷ないたずら落書きのように乱雑に散らばっていたのだ。

 ハリーと共に暮らす今では、彼の入浴ペースは日に2回に落ちている。朝に一度、晩に一度。これは通常の範囲としてカウントして構わないだろう。彼は今では実に嬉しそうに風呂に入り、歯を磨く。衝動に突き上げられるのではなく、純粋な喜びとして。機嫌の良い時には鼻歌すら飛び出すこともある。私とハリーはのんびりとした気持ちで私達の小さな居間に座り、彼の紡ぐ出鱈目なメロディーを聴く。私達の生活は平和だ。
 脱獄の当時は黄色く苔生したようになり、歯茎も黒く爛れていた彼の歯は、間断ない念入りな歯磨きの成果で幾分過去の精彩を取り戻している。

 現在の彼には、歯ブラシと見ると見境なくコレクションするという奇妙な性癖が新たに備わったようであるが、その点については、私もハリーも深く追求しないことにしている。


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