ルーピンの知らないスパイスの香りに、雨の残り香が混ざる。あれほど降った雨の後なのにもう地面が乾いている。犬たちは何事も無かったように道路に寝そべる。まっすぐな細く長い足と無駄な肉のない体、知的で端整な顔立ち。タイの犬がアニメーガスなら、その魔法使いはさぞ美しい姿をしているのだろう。
 この強い南国の陽光を吸収しやすい黒の、豊かな毛並みをした犬は、ルーピンの足元で胸を張って歩く。
 イギリスでは、大きなパッドフットを見ると、喧嘩をしかけたいのか怯えていたのか、吠えたてる犬がいたものだ。しかし、この国ではそんな犬に会ったことがない。これほど犬がいるのに、この国では犬が吠えないのだ。大人のゆとりをもって、沈黙するように見える。パッドフットを見ても動かない。強い犬に会った時にどうすべきか心得ているのか、自分より強い犬を見慣れているのか、攻撃して来ないかぎり敵ではないと考えているのか。
 この平穏な犬たちに噛まれる可能性がある唯一の方法は、美しい仏塔や会話に夢中になって犬を踏んでしまった時だけだ、と聞いたのを思い出し、ルーピンは微笑んだ。
 パッドフットも平穏でいる、…暑さ負けしているのかな? ルーピンがそう考えた時、黒犬が顔を上げる。一目見てわかった、彼は楽しくて仕方がないようだ。好奇心と楽しさで潤んだ瞳と笑うように開いた口元。
 そして同時に、パッドフットにも一目でわかっただろう。ルーピンが心配していたことに。
 黒い犬は首をかしげて、耳をひらひらとさせたかと思うとジャンプした。その、髭がぴんと伸びる口元と小さく出した舌が、ルーピンの唇に当たった。
 ルーピンは手のひらを口に当てた。キスだ、と考えた途端、頬が熱くなるのを感じる。
 地に戻ったパッドフットは笑うように口をあけている。ほら、げんきだろう、おれはあつさなんかにまけない!と言わんばかりだ。
 だからって人前でキスするものじゃないだろう!と睨んでみせたが、とぼけたのか通じていないのか、無邪気なくるくる黒い瞳で見上げてくる。
 ホテルに入ると、カーテンのような冷気が肌に当たる空気を変え、太陽から逃れた視界は明度を下げるが、南国の気配は途切れることがない。冷やされても変わらないこの国特有の匂い、飾られた花の甘い匂い。赤いじゅうたんに黒い犬はよく映える。真っ黒い影がすり抜けるようだ。砂糖でコーティングされたようにつややかな象の置物の脇を歩く時、彼はこの東洋のホテルに住む魔物みたいだ。
 エレベータに乗り、一人と一匹きりになると、ルーピンは人差し指で犬の鼻に触れると難しい顔をしてみせた。
「いいかい、パッドフット。人前でキスをしてはいけないよ。」
 黒犬は黒目がちの目のふちすべてが白くなるぐらいに、目を見開いた。そして、首を傾げる。それだけで飽き足らず、ぶるぶると首を振って、また首を傾げる。どうしてだ、あんなに素晴らしいことを!?と言いたいようだ。ルーピンは犬の前に座り、その目を覗き込んだ。
「第一に。犬はあまり人間にキスをしないものだ。もちろん、人間の顔をなめることはよくある、その時に唇をなめることもね。だけど、唇だけを狙って、そう、マグルからすれば、彼らの好きな映画のラストシーンみたいにきれいに、唇だけを重ねるのは、人間同士でも難しいものだ。僕が時々、君とキスしようとして、君の高い鼻に頬を激突させるようにね。だけど、君はそれが上手い。キスに向かない長い口になった時でさえ。どういうことか、わかるかな? 善良かつ疑り深い人間が私たちのそんな様子を見たら、私は犬にそういう訓練をさせる動物虐待者に見えるということだよ!」
 お化けの登場シーンのようにルーピンはそう告げて、パッドフットは再び白目を見せることとなった。
 しかし、すこし考えて、ぶるぶると首を振って見せる。そして、後ろ足をひょいと持ち上げて、前足だけで立つ。そして今度は後ろ足だけで立って、曲げた前足で上手にバランスをとりながらくるりと回転してみせた。
 狭いエレベータの中で、大きな犬が揺るがずバランスをとるさまは見事だったが、ルーピンは拍手を我慢した。どうだ?と見上げる濡れた瞳が、何を言いたいか、わかったからだ。
「いろんな芸のうちの一つならいいだろうと言いたいのかい?」
 パッドフットはうなづいて、また後ろ足で立つと、肉球の先でエレベータの行き先ボタンを押して見せた。ルーピンは押し忘れたことに気づいて頬を染め、パッドフットは珍しいものを眺める目で首を傾げてそれを見上げている。

 善良で疑り深い人間がその付近を跋扈しているとは、ルーピンとて考えてはいない。だから説得力がないのは当然だ、もっと別の言い方はないだろうか?
 ホテルの部屋に戻るまで、ルーピンは説得する方法を探した。しかし思いつかない。
 扉を開けると黒犬は流れる影のように部屋へと入る。ジャンプしてくわえると、カーテンを閉める、それも喝采したくなるような器用さで。ルーピンはその姿を眺めていたかったが、彼が人間の姿に戻る前に言いたいことがあった。上手い言い分を思いつかないまま、ルーピンは、犬の狭い両肩に手を置いて語りかけた。
「もう少しそのままでいてくれないか。さっきの話を終わらせたいんだ。」
 首をかしげる犬に、ルーピンは続ける。
「いいかい、この国は気温が高い。とてもね。君ほどの暖かい体毛を身にまとっているわけではないこの体でも、肌の温度は母国と違う。外で立っているだけで、頬が熱くなる、それに内側からの熱が加われば最悪だ。さっき食べた海老みたいな顔色になる。心の熱が顕著に出てしまう。…つまりね、」
 心の熱がまた頬に影響を与えているな、と自覚しつつ、ルーピンは白状した。
「キスされて頬を染めるなんていうレトロな表示のためにね、誰の目から見ても、私がこの大きな黒い犬に恋をしていることがわかってしまうんだ。」
 犬は身じろぎをし、形を変えた。
 この話が終わるまでは犬のままでいてほしかったのだが、とルーピンは考えたが口には出せない。理由を尋ねられたら「照れくさいからだよ」と答えなくてはならなくなるからだ。照れくさくなるほどハンサムな人は、面白そうにルーピンを眺める。
「そういう理由なら、犬の時にキスをするのはやめよう。リーマスが赤くなるなんて、そんな素晴らしいものは、色彩豊かな人間の目で見た方がいいに決まっている。」
 そうして彼は、鳥のように柔らかなスピードでルーピンに口づける。
 その感触に目を閉じてルーピンは。ホテルの冷たい空気に慣れてきた体は、心の熱をもうそれほど反映させないことを、シリウスには秘密にしておこう、とひそかに考えた。それを言えばきっと、彼はあの健全ほど明るい空の下で、この行為を再現したがるに決まっているから。







BY  yukich

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