我々がこんな関係になるかなり前の、二十代の頃。ふと気付くと、彼が右の手のひらで両目を覆うように押さえてじっと俯いている姿を目にする機会が時折あった。どうしたのかを尋ねると、「最近蝋燭の光が目に沁みるようになった。積極的に言いたくはないが老化だろうね」と彼は言った。困ったように笑う唇の形。老化というには少し早いし、何より彼は寿命の長い吸血鬼である。俺は、頻繁に起こるようであれば病院に行ったほうがいいのではないかと助言をした。彼は素直に頷き、それまで続けていた読書や手紙をしたためる作業を再開する。特に悪化はしないようだったので、俺も重ねて注意はしなかった。



 血を吸う時の彼の姿は普段とは若干違う。肌は白くなり、唇は血色が良くなる。獲物を惑わせる為の擬態なのだろう。どことなく無表情になった彼の、眼の瞳孔の形は人間のそれではなくなり、まるで裂け目のように細くなる。ほとんど虹彩だけになった彼の瞳の薄い色、その美しい濃淡に視線は釘付けられ、彼以外の物には焦点を合わせられなくなる。これから彼に血を吸われるという幸福感で身の内が満たされるが、俺は意志の力で全ての感情を抑え込み、何でもない、といった態度をなるべくとるようにしていた。俺が彼に血を与えるのに、吸血鬼の力は微塵も影響していないと主張するために。我々の関係が変化する前でも後でも一貫して俺はそうしてきた。



 もし彼とキスをしたら、彼の犬歯は邪魔にならないだろうか。
 もし彼と寝る関係になったら、場所はベッドだろうかそれとも棺桶だろうか。
 むなしく想像ばかりしていた疑問の答えを俺は現実で得ることができた。ちなみに幸いながら場所はベッドの上だった。そして彼の犬歯で俺が唇を切ることが無いではないが、注意していればどうということもない。それよりは彼の犬歯の形を舌で辿ると、俺に悪さを仕掛けんとしていた手が止まり、彼が非常にしおらしくなるという発見の方が重要だった。
「先程まで俺の腹の上にいた好色な吸血鬼はどこへ行ったんだろう」
 俺がそう言うと、彼は俺の髪を引っ張る。弱弱しく。
 再度我々は犬のように夢中になって互いの唇や歯や舌を貪り、かなり時間の過ぎたあとでもう指にも力の入らなくなった彼を、俺は逆に組み伏せた。笑顔ではなくなった彼が俺を見上げている、その眼。彼の眼の瞳孔の形が変わっていた。普段の彼は寝室での灯りを嫌うが、その時はもうすぐ尽きそうな蝋燭をそのままにしてあったのでよく見えたのだ。血を飲むときに見せる、細い瞳孔。
 一瞬、彼は空腹であるのだろうかと俺はそう思った。しかしそんな筈はない、何しろ満月はほんの数日前のことだったのだから。
 彼は俺の視線に気付いたのだろう、眼を伏せて「ああ……」と言った。
 俺はどう反応していいか判断がつきかね
「お前にとって吸血行為と、その……こういう行為は同質の……いや、それよりもまず、お前の老化について聞きたいんだが……」
 と辛うじてそれだけを言った。
「君がその話をやめてくれるなら、私は何でもする」
 あまりにその様子が切実だったので、一瞬は黙ろうかと考えた。しかし謎や疑問を放置しておけない性質が勝ってしまって、俺は問いを口にする。
「もし違ったら失礼なんだが。お前が時々目を抑えていたのは老化ではなく、もしかすると何か性的に感じるところがあったせいだと考えてもいいんだろうか……?」
 彼は仕方なさそうに笑って、返事をした。
「吸血鬼にとって食欲と性欲は非常に近しい場所にあるのでね」
「では、それは俺に関係があったと考えても?」
 再び開かれた彼の眼。そよぐ一面の枯れ草の色彩。雲母の色彩。彼の性質にぴったりと似合う色彩。
「蝋燭の光が目に沁みていたのではなく、俺を見て性欲が刺激されていたと?食堂で?普通に着席して普通に会話をしていた俺に?その、非常に名誉なことだが」
「どうか私の服を脱がせるなりなんなりして、するべきことをしてくれないか?私が君にしてもいいんだが、腕に力が入らない」
「言えば良かったのに。あの時に」
「君を見て欲情していると言えと?ただの友人だった頃の君に?お断りだ」
 彼は笑った。
 一秒たりともこの話を続けたくないようで、驚いたことに自らタイを解き始めた。仕方なく俺は彼の手伝いをする。

 その所為で彼に告白をしそびれたのだが、俺は彼が片手で目を覆うと、いつも凝視せずにはいられなかった。
 目を隠した彼はひどく無防備に見えて、ずっと見ていたかった。
 彼の困ったように笑う唇。そこへ口付けたいと思っていた。
 彼が目を開けたときには素知らぬ顔をした。俺は長い片想いをしていたから。
 思えば2人して無駄な、しかし随分いじらしい時間を共にしていたことになる。

 俺は二十代の頃の自分達のために、唇を合わせるだけのキスを1つした。

 丁度そこで蝋が尽きたのか寝室にはいつもの闇が戻り、我々は申し合わせたように会話をやめた。














2008.09.26



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