頭が朦朧としてはっきりとしないが、何度か嘔吐した記憶がある。誰かの手が拭き清めて、水を飲ませてくれた。その手は俺の髪の汚れを拭い、衣服を替え、シーツも乾いたものに取り替えてくれた。
 医者を呼ぼうかと彼は聞いた。彼は。リーマスは。
 長い年月の間、吸血鬼に血を与えてきたその影響ではないのかと呟いた声は、か細く小声だった。
 違う。すまない。そうじゃない。俺は彼に詫びた。ちゃんと詫びたと思う。こんなくだらない理由で彼を心配させたくはなかった。自業自得なんだこれは。

 しかし罰にしてはそれは素晴らしく念入りなものだった。指の長い悪魔に胃袋を搾乳されているような壮絶な苦しみ。痛みと寒気と吐き気と頭痛は4拍子の壮絶なシンフォニーを演奏した。相当酷い顔色になっていたのだろう。誰かが、リーマスが珍しく側の床をうろうろと歩き回る足音がしていた。
 本当に大丈夫なんだリーマス。すぐに良くなる。お前に心配してもらえるような、立派な原因じゃないんだ。今月は食事をしていないから空腹だろう。俺が目覚めたら血を飲むといい。そう声を掛けたかったが、体はびくとも動かず、意識は何度も遠のいた。
 それから俺は妙に赤みの強い夢を見た。誰かが俺の手を握っていて、相手は悪魔だと俺は気付く。部屋の壁は四面が真紅で、悪魔は言う。「お前は罪深い」と。悪魔の顔はデッサンが歪んだような稚拙な造りである。しかし妙に優しい手の握り方を彼はするのだった。「お前は本当に罪深い」


 時計の振り子の音がしていた。
 部屋の中は暗かった。
 悪魔は俺の胃袋を絞るのに飽きてしまったのか、もう痛みはなかった。ただ頭が重くなる程の自己嫌悪だけが残っていた。
 俺は息を吐き、用心深く起き上がった。指先にやわらかい髪が触れた。リーマスだ。彼は側に座っていてくれたようだが、眠ってしまったのだろう。寝台に頭を伏せている。
 彼の眠りは深く静かだ。寝ているときの彼は何をされても目覚めない。杭を打たれようとも、キスをされようとも。俺は彼の髪を撫でた。
 太陽の出ている間はずっと眠っているくせに、夜も寝てしまうなんて一体お前はいつ起きているつもりなんだ?
 地下室の彼の棺桶まで運んだ方がいいのだろうかと思案を始めたとき、ふと時計が目に入った。盤面の針は2時を指していた。2時?
 俺が倒れたのが真夜中すぎだった。あれから24時間も経ったのだろうか。いやそれはあり得ない。
 では今は。
 媚薬を飲み干したときとは比べ物にならない寒気が背中を刺す。
 14時なのだ。太陽が空にある時刻。
 リーマスは眠っている。
 屋敷のすべてのカーテンには、念のため遮光の魔法をかけてある。魔法は完璧に日光を遮って、現在が真夜中だと錯覚させるほどだ。しかし万が一、近隣の子供が庭でボール遊びでも始めて、そのボールがこの部屋のガラスを割りでもしたらどうなるだろう?あるいは急に突風が吹いて、この部屋の窓を割ったら?
 答えは明らかだ。リーマスは死ぬ。彼は焼けて灰になる。
 俺は彼が焼ける瞬間を見たことがあるのだ。

 むかし、学校で初めて出会った彼は全身に包帯をぐるぐる巻いていた。その奇妙な格好から、「ミイラ男」という率直な通称で呼ばれ俺を含めた悪童達のからかいの的だった。しかしそのミイラ男は変わった奴で、ありとあらゆる嫌がらせや悪戯をまったく気にせず、ひたすら図書館で大量の本を借り、毎日読みふけっていた。そして時々校内の木陰でぐうぐう寝ていた。ちょっとした好奇心でミイラ男に話しかけた俺は、ぐるぐる包帯の中味が、随分と面白い奴だという事実にすぐに気付いた。彼は年寄りくさい語彙と倫理観を持った子供で、そして毎日がともかく初めての体験で、楽しくて嬉しくてしょうがないのだと俺に語った。包帯は、日光に弱い体質の所為なのだという。仲良くなってから、俺は包帯を巻いていない彼と夜に対面することになった。噂されているような、恐ろしい顔ではなかった。フランケンシュタインのように潰れてもいない、腐っても爛れてもいない、普通の子供の顔だった。月夜の下の青白い肌にはシミ一つなかった。
 はじめまして。君みたいな綺麗な顔の子にわざわざ見せるのは恥ずかしいけど。そう言って彼は笑った。
 今思えば、もしかすると俺はあの瞬間に恋をしたのかもしれない。
 あるとき俺はリーマスが評判の良くない連中に絡まれている所へ通りかかった。彼等はリーマスの包帯の下について大声ではやし立てていた。腐っているとか、死体だとか。
 俺は憤然と反論した。彼の素顔は普通の子供の顔で、俺達と変わることがないと。ただ体質で包帯を巻かなければならない彼を馬鹿にするのは、病気の人間を馬鹿にするのと同じだ。恥を知れ。俺は言った。自分も以前は同じようにリーマスをいじめていたくせに、調子がいいとは我ながら思うが。
 「お前は嘘吐きだシリウス・ブラック!ミイラの呪いにかかって操られている。お前の顔も腐り始めるぞ!」
 さあ何発殴ってやろうかと俺が身構えたとき、何か布の擦れるような音がした。
 俺は振り返った。
 リーマスが顔の包帯を解いていた。彼は特に気負いもなく、こちらを見ていた。鳶色の髪が日の光で随分薄い色に見えた。俺と目が合って、彼はちょっと微笑んだ。
 じりっと音がして、リーマスの肌に黒い点が浮かび広がった。写真を焼くよりあっけなかった。火の粉が舞って、蛋白質の焼ける強烈な匂いがした。その場にいた何人かが悲鳴を上げた。日の光は簡単にリーマスをローストにした。頬が焼けたので彼の奥歯が見えた。俺は自分のローブを彼にかぶせ、すぐさま校医のところに運んだ。
 泣きながらの要領を得ない説明に、すぐさま校医は対応した。おそらくリーマスの体質についてなんらかの通達があったのだろう。
 結局リーマスは一命をとりとめ、俺は彼の口から真実を知らされることになった。彼は真っ黒に炭化した唇で「僕のせいで君が侮辱されるのが嫌だったんだ」とそう言った。俺は烈火のごとく怒ってその場で喧嘩になった。いや、一方的に俺が怒鳴ったのだが。
 彼は昔からそうなのだ。自分を大切にしない所がある。彼は人間の血を吸う行為が苦手で、それを恥じている。自分を人間より劣った存在だと考えているのだ。


 今回もきっと、俺の看病をしているうちに眠ってしまったであるとか、そういう理由なのだろう。過失で焼け死んだら焼け死んだで、特に後悔もないのだ。リーマスは。
 目の前で大切な人が生きながら焼かれるのを見た者の気持ちがどんなものか、考えたこともないのだ。彼は。
 思い出しただけで吐きそうになる。彼が焼かれるのを再び見るくらいなら、自分が焼け死んだ方が百倍もましだ。あの記憶は俺の中で立派なトラウマになっている。今も、眠るリーマスを前に声すら掛けられない。今にもそのドアが開いて光が差し込みそうで、脂汗が流れる。よもや庭から子供の声が聞こえはすまいかと、俺は必死で耳を澄ます。どうかどうか、あと4時間。5時間。何も起きませんように。彼が眠り続けますように。静かに静かに。俺は狂ったように何度も何度も何度も、祈り続けた。












2008.12.24


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