154 春はまぶしく、暖かい。 そして景色がなんとなく茫洋としている。 どこに居ても何を見ても一片の曇りもなく明るいので、目がしょぼしょぼとしてつい瞼を閉じてしまう。ふと気付けば不思議な事に夜になっている。まるで魔法だ。 陽の光からか、花からか、蝶か、あるいはキノコからかもしれない。妖精の眠りの粉のようなものが実は放出されていて、それで春になると眠くなるのだ。子供の頃から私はそう主張しているのだが、残念ながらこれまで賛同してくれた人は皆無だった。 「今日は瓶詰の保存食を作ろう」と考える途中の、「保存」のあたりで意識がなくなり、矢張り気付くと夜になっている。辺りは暗くなり、自分は冷えている。あの驚き。部屋の隅で、庭の隅で、あらゆるところで私は眠り込む。 朝起きたばかりでも、友人と話している最中でも。人が死を避けられぬように、私は自分の眠りを止められない。いや、むしろ私にはその2つの区別がつかない。このまま眠れるなら死んでもいいと思うし、いま眠れないなら死んだ方がましだとも思う。 「睡魔こそがお前の正妻で、俺は愛人だ」 「人と話している時に眠りこけるのは失礼ではないのか」 当然ながらシリウスは気分を害するようで、時折説教をされる。私にも反論はある。「君だって毒を飲まされた死の間際に「私を愛しているなら死んではならない」と言われたら困るだろう」と言いたいのだが、口を開くのが億劫だ。そうこうするうちに瞼は重くなり、とうとう私はシリウスの説教の途中にうたた寝をしてしまう。 怒った彼は地味な嫌がらせをするようになった。 庭の隅で眠った筈なのに、起きるとソファの上にいる。それはいいとして私の周りに野の花が供えてあったりするのだ。或いはカラフルな色のスカーフが巻いてあったり。または頭に鍋のふたが載っていたりであるとか。他愛のないものなのであまり気にはならなかった。 しかしある時、目が覚めると全く見覚えのない豪華な部屋のベッドの上に自分がいたことがあった。今が西暦何年で、私はどういう身分でどこに住んでいるのか、シリウスはどこにいるのかが真剣に分からなくなり、私は狼狽した。 幸いにも、椅子に掛けて読書をしている見慣れた後姿がすぐに目に入ったので叫び出す事はなかったが、振り返った彼は蒼白になった私の顔色を見て、すぐに詫びた。果たして私がどこまで目を覚まさぬものか試してみたくなって、ロンドンのホテルまで移動したのだそうだ。私は一度の身動きすらしなかったらしい。 さすがの私も、その一件は堪えた。 彼と過ごしている時に耐え難い睡魔に見舞われると、私は出来る限り許しを乞うようになった。 眠っている間に捨てないでほしい。捨てるのというのは、私達の関係に於いてという意味ではなく物理的に。ロンドンのどこかに捨てないでほしいという願いをこめて私はシリウスにすがる。正面の席にいる場合はシリウスの側によろよろと移動する。隣にいれば出来る限り彼に近寄る。 すでに瞼が開かないので、彼の手だか膝だかも分からない、指だか衣服だかも分からない何かを掴み、私は「済まない」「ごめん」「申し訳ない」と、語彙のすべてを使って彼に詫びる。起きたらまた遊ぼう。泣かないで待っているんだよ。 「泣く?俺が?」 夢か本物かは分からないが、彼がそう返事をする。 愛人がどうのとか正妻がどうのとか、君はすぐに泣いたり怒ったり拗ねたりするじゃないか。昔からそうだった。 別に私は睡魔を愛している訳ではないと。いや、少しは好意を持っているかもしれないが、それは本当に少しであって、比べる程ではないと説明する。 思っていた位置とは違う方向から口付けが降ってきて、私の掴んでいるこれは、彼のどの部分なのだろうと私は考える。 夢の中で話の続きが出来ればいいのだけれど。どこかに触れながら眠れば、夢の中で話せるのではないか。私にはそんな気がする。シリウスの笑った気配がした。 相変わらず春はまぶしく、暖かい。 私は春の眠りに容易く負けてしまう。午前中に意識を失って目覚めると、以前と変わらず辺りは暗くなっているのだが、私の体は冷えてはいない。傍にシリウスがいるからだ。彼は呆れたように私を見おろしている。 しかしあれ以来ロンドンに捨てられたことはない。何が功を奏しているのかは分からない。 シリウスの伴侶は「the礼節」で 先生の正妻は「the睡魔」。W不倫ですね。 春に書いたお話ですが、灼熱地獄なう! 2010.04.30 イベントのお礼としてUP 2010.07.20 再UP |