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 部屋が暗くなると、夢と現実の区別がつかなくる。
 自分が眠っているのかいないのか、俺には分からない。指も足先にも血はゆき渡っておらず冷たい。動悸だけが馬鹿みたいに激しく、闇の中ではっきりと感じ取れる。呼吸の音も。死にかけた馬のような陰鬱な呼吸。自分のものとは思い難い。ドアのノブが回る音がする。しかしこれは幻聴だ。知っている。ドアの錠は何度も確かめた。鍵を持っているのはリーマスだけだ。部屋の隅を歩く足音がする。幻聴だ。そしてドアの外で話し声もする。これも幻聴だ。幻聴の声の主はジェームズである場合が多い。
 呼吸が速くなる。リーマスの声を思い出す。彼はもう千回ほども俺に言っただろう。「シリウス、ゆっくり息をして」最初は体のあちこちが痺れ始める。それでも呼吸が収まらないと次は痛みが来る。息をしても、何回しても、酸素が足りなく感じられる。水底にいるかのような壮絶な苦しみ。このままでは死んでしまう!体中がパニックを起こす。そう、だからゆっくりと息をしなければならない。俺は狂いかけていて、何もかもが錯覚だ。誰も俺のベッドの回りを歩き回ってなどいないし、子供の足音など聞こえない。誰も俺に触れてなどいない。冷たい指が触れたりなどしていない。ジェームズは俺に話しかけていない。囁いたりなどしていない。

「13人が」

 俺は絶対に目を開けない。たとえ幻覚であろうと、自分のベッドの回りをぐるりと囲んだ13人の人間が見えたら、いい気分がしないだろうからだ。ああ、13人だったなジェームズ。無関係のマグルだった。ところで俺を責めているのか?13人?13人が何だ?

「13人?いいや、僕はそんなこと言ってないよシリウス」

 考えてみれば、俺はあの瞬間に初めて敗北した。敗北を知った。それまでは自分達が勝利すると信じて疑わなかった。状況は非常に困難だったが、自分達の圧勝を信じていた。他の誰かではなく自分達の。自分の。俺は強く、注意深かった。頭も切れた。運も。俺以外の人間は大多数が気の毒な頓馬だと思っていた。生まれてからずっと、意志や意地を通せなかった事はない。俺は必ず何とかした。誰であろうと負かした。誰が敵でも、誰が裏切っても、俺は勝つと思っていた。
 ところがそうではなかった。13人。あの毛髪と肉。臭い。劣った人間の中の更に劣った人間だと思っていた相手が最後に見せた表情。見たこともない顔だった。あれは笑顔だったのだろうか。
 自分の頭上にあると俺が信じていたものは、あの時永久に消えうせた。
 なぜ自分が常に勝利すると思っていられたのだろう。なぜ自分が高等な存在であると思っていたのか。呪われた血の末裔である俺が。あの家の者など、棺の蓋を開けられないような、ろくな死に方をしなかった奴ばかり。あるいはろくな生き方をしていないかのどちらかだ。呪われていると思う。きっと先祖が何かをやらかして、それで大勢の人間の呪いを受けたのだ。
「それもそうだね。ブラック家の人間ときたら酷い死に方をするか、狂って酷い死に方をするか2つに1つなんだから。君の3代前のご先祖様はどんな死に方をしたんだっけ?その前は?」
 この声は俺が頭の中で作り出しているものだ。
「でももうすぐ本家筋のブラックの血は絶える。呪いは君をメインディナーにしたいようだね。前菜として先に僕とリリーが死んだ訳だ」
 それにしてもまるで生きているように滑らかな弁舌じゃないかジェームズ。記憶の中から、俺が勝手にお前の語彙を使って、捏造している声とは思えないくらいに。お前は本当にそこに居るのじゃないか?
「私は死にたくなかったわ。死ぬにしたってあんな死に方はしたくなかったわ」
 抑揚を欠いた声だったが、リリーのものだった。左側からはジェームズの声が、右側からリリーの声がする。声は少しずつ近付いてくる。
「君の頭上に輝いていたのは星などではなく、呪いだった。しかもすごく貪欲な。君の周囲にいる人間誰彼構わず手を伸ばし、出来るだけ惨いやり方で殺す」
「よせ……」
「よせえ」
 ジェームズは俺の声色を真似た。リリーが常軌を逸した大声で笑った。まるきり別人の声だった。
「呪いは感染するのよ。インクで汚れた手で触れた場所には、どこでも染みがつくみたいに」
 リリーが言った。すぐ近くで。お休みの挨拶をするように耳元で。
「ハリーは近いうちにこちらに来るわ。みんなでまた遊びましょう」
 ハリー。小さかったハリーは少年になり俺の前に真っ直ぐに立っていた。恐ろしげな容貌をした俺の話を冷静に聞いてくれた。冷たく感じられるほど落ち着いた、緑色の目。生き残った子供。俺の言葉を一つも聞き漏らすまいとしていた。強さと不安定さが混ざったような少年の顔。
 俺は幻聴に反論した。大声で。
「違う。ハリーはヴォルデモートを何度も退けた。強い子だ」
「あなたに染み付いている呪いが、やがてハリーを殺す」
「呪いがリーマスを見逃すとも思えない。リーマスも近いうちに死ぬね」
「違う!違う!」
「ピーターが来たら、彼の腕をひねり上げる懐かしい遊びをみんなでやろうよ。もげてしまっても構わない。もう死んでいるんだから」
「誰も死なない!リーマスもハリーも、ブラックとは関わりがない!」
「君はきっとリーマスを犯して殺して食ってしまうよ」
「あなたはハリーを犯して殺して食ってしまうわ」
「な……」
「きっと君の母上は喜んで一族の上座に君を迎えるに違いない。確かそんな立派な凶状持ちのご先祖様もいたよね、ブラックには」
「違う!」
「違わない。シリウス違わないよ。いい加減に現実を見ろ。みんな死んでる。死に顔のショッキング度を、みんなで競っている」
「俺で最後だ」
「君で最後?」
 笑い声がする。ドアを叩く音がする。俺の名を叫んでいる。死人が。あるいはあの眼球のない看守達が。ノブの金属音。
「次は俺で、それでおしまいだ!うんざりだ!」
 ジェームズは最後に酷く優しく言った。
「もっと早く決断していればよかったのに」
 もう無理だ。夢と現実の区別がつかない。皆はどうやって区別しているんだ?こんなにもリアルなものをどうやって。冷たい。苦しい。空気を。ゆっくりと、息を。

 誰かに掴み上げられ、そしてどこかに落とされた。髪を引かれ、そして殴られる。激しい痛み。俺はなすがままにされた。この10年で身につけた。痛みや屈辱に反発しないという身の施し方を。
「シリウス!」
 俺は絶対に目を開けない。夢であろうとなかろうと、体の部分が欠けたリーマスなど見たくはない。
「シリウス!目を開けてくれ!」
 暖かい手が触れた。暖かい。びっくりするくらい暖かかった。驚いた俺は硬く閉じた瞼を開ける。
「ああ、シリウス……」
 俺は何故か床の上に横たわっていた。リーマスは膝をついて俺を覗きこんでいる。彼の涙が鼻筋をつたって、髪に落ちてきた。
「……どうした?」
 お前が泣くなんてどうしたんだ。大丈夫なのか。そう尋ねたかった。しかし満足に声が出なかった。体も動かなかった。
「君、いま息をしていなかった」
 リーマスは青ざめた、幽霊でも見たような顔をしてそう呟いた。瞬きもせず俺を見ていた。
「脈もなかった……。本当に止まっていたのかは分からない。私も動転していたから。でも、君は、今……」
 彼は。リーマスは俺が死んだと思ったようだ。いや、もしかすると本当に俺は死に掛けていたのかもしれない。少なくとも俺は死ぬべきなんじゃないかと納得し始めていたところだった。
 なあリーマス。
 幻聴は俺が死ぬべきだとそう言うんだ。毎回理由や理屈が違うんだが、ともかくそう言うんだ。困ったことにとても説得力があって、聞いているうちに俺も自分が死んだほうがいいんじゃないかという気持ちがしてくるんだ。
 そう言ったら彼はどう返事をするだろう。そんな事を考えながら、横たわったままリーマスの顔を見上げていた。何度見ても見慣れない、成長したリーマスの顔。
 彼は手の甲で頬を拭い、目を閉じた。何回か呼吸をして、そして表情を整える。昔から彼は感情を一定に保つのが上手かった。そして今、彼が平静になろうと努力しているのはおそらく俺の為だ。自分よりもずっと年上の男を見ているような気持ちになった。やがてリーマスは完璧に穏やかな微笑を浮かべ、落ち着いた声で俺に尋ねる。
「呼吸と心臓が止まっていると思ったから、倒れていた君の胸と顔を打った。すまない。どこか痛むところはないだろうか?」
 自分の姿はどんな風に彼の目に映っているのだろうと俺は考える。かつて少年だった頃とはまるで違う、趣味の悪いパロディのような姿。何もかも変わってしまった。手も肌も、顔も、意志もプライドも強さも。
 果たして今の俺はシリウス・ブラックだと言えるのだろうか。かつての名を名乗り、旧友の好意に甘える資格があるのだろうか。リーマスの記憶の中にいる友人シリウス・ブラックとは似ても似つかないこの俺が。
「立てるかい?床は冷える。良かったら何か飲み物を持ってくるけど」
 立ち上がって、部屋の寝台に座るのも精一杯。あまりの惨めさに物も言えない。手が震えた。
「ミルクを温めようか。ちょっと待っていて」
 リーマスは俺のプライドを尊重しようと考えたのだろう、静かに踵を返してドアに向かった。
 俺は朝になったらこの家を出て、リーマスの前から姿を消すべきではないだろうか。うつむいたまま、陰鬱な気持ちでそう思う。
 俺がとうとう狂ってしまってどこかで 野垂れ死にをするのは仕方ない。しかしリーマスを巻き込んで彼の人生まで滅茶苦茶にしてしまうのはいけない。
 リーマスは彼の人生に於いて負けなかった。どんな過酷な環境も悪意も受け流した。尊敬する友人だ。大切な。彼が努力と忍耐によって作り上げた、彼の人生は守られるべきだ。
「シリウス」
 ふと、声がかけられた。
 顔を上げると、リーマスがドアの前でこちらを振り返り、俺を見ている。彼はためらうような顔をしていたが、ゆっくりと戻ってきて、再び俺の前に膝をついた。
 手の甲に彼の手が載せられる。
 リーマスは人の手を取って励ましたり、肩を抱いて慰めたりという行為を、行わないタイプだった。昔はそうだった。そして再会した彼もそこのところの性質は変わっていないように思えた。
 しかし今彼は俺の手を取っている。あまりに暖かくて、目を閉じたくなる手。
 リーマスは如何にも不慣れそうに少し困った様子で言った。
「君の叫び声がして」
 彼の指が動いて、俺の手の甲が握り締められる。
「寝室に駆けつけたら、君は息をしていなかった。あんなに打ちのめされたことはない。あんなに酷い、恐ろしい思いはしたことがない」
「済まない……」
「立派な大人である君を子供扱いするようで失礼な申し出だけれど、今度から体調の悪い時は必ず私に言ってほしい。一晩だって側に付いているから。これは同情で言っているんじゃないんだ……」
 言葉を慎重に選びながら、彼は訥々と喋った。好ましい彼の誠実さ。好ましい彼の真面目さ。そう、気質が好ましいから友達になった。俺の大切な、最後の友人。けれどリーマス、悪夢の亡霊供は言うんだ。俺の血筋につきまとう呪いがお前を餌食にするだろうと。俺がお前を、酷く辱めるような真似をするだろうと。俺はそんな事を望まない。俺は本当に望まない。けれどお前の手はなんて暖かいんだろうリーマス。

 床の冷気を吸って鉱物の如く冷え切った体の中で、彼の触れている手の甲だけが温かかった。俺を打ちのめすように、俺を救うように、そして俺を生かすように暖かかった。







同居が始まってすぐのころ。
シリウスはこの頃は昼間でも、
独り言なのか、見えない人と喋っているのか、
よくわからない感じに1人で大声でお話する人です。
体調も情緒も不安定。
それで段々状態が悪くなって
二人とも精神的に参って、シリルの一丁上がり。

とても感謝することがあって、お礼として書いたものです。
しかし読み返してみるとプレゼントとしては色々間違っていますね。
よく間違えます。

暗いので漫画絵を描いてみます。
「ゆうれいがほんものだったら これくらいは言う」

低画質にすると、文字が潰れてしまうのが不便だなあ!
書こうとしていたセリフは下記。

「君はリーマスを犯すけど
程なくリーマスに犯し返されて
2人はそのあと周囲にとって
すごく嫌な感じのバカップルになり
おじいちゃんになってもイチャイチャするよ」

「あんな難攻不落の天然要塞に手を出すなんて
ああ、なんてすごい地球の冒険家なんだ君ってやつは」

「ハリーはバッチリあなた達の関係を把握するけど
生暖かく見守るから大丈夫。私達の息子だもの」

2008.05.14