囁 き2 数日前からシリウスは不在をしていた。ルーピンは意識的に立ち働いて、決して想像力が頭の中を支配するような隙を作らなかったし、壊れ物を落としたり植物に水をやるのを忘れたりといった形に残る失敗を特にしなかった。(尤も、食事を摂るのを忘れたり、彼の部屋のドアを無意味に開けてみたりといった証拠の残らない常ならぬ行為は無数にあったのだが) その午前中、彼は花壇に種を植えていた。急に空が暗くなって、通り雨が降り始めた。傘が必要なほどではない。けれど風景の明るさに不似合いな空の黒さと、乱暴な風のせいで嫌な感じのする天気だった。赤ん坊がいれば意味もなくむずがったかもしれない。猫がいれば、じっと窓の外を見ただろう。 うちには犬しかいないけど。ルーピンはそう考えて笑った。 奇妙な天気。生魚のような匂いのする風。家の中に入るべきか、このまま庭仕事を続けるべきか迷っているルーピンに背後から声がかけられた。 「精が出るね」 その声は鼓膜に届くより早く、電流のようにルーピンの体を打った。聞き間違えようのない懐かしい声。シリウスとルーピンがいつも無意識の内に聞きたいと願っている、けれど二度とそれは叶わない声だった。 「ああ。今が撒き時だからね。今日明日中には済ませてしまわないと」 注意深く種を摘まんで、そして穿っておいた穴へと落としていく。こぼさないように、決して相手に動揺を悟られないように。 その声の波長はまったく彼のものと同一だったのだが、残念ながらルーピンが聞きたいと思っていた全ての要素が抜け落ちていた。そこに込められた無造作な親愛の情であるとか、よからぬ計画をうかがわせるような油断のならない語尾であるとか、冷たいのと同時に甘えるニュアンスもある不思議なトーンであるとか、そういったものが。 ルーピンは振り返る。 予想した通り、そこにはジェームズが、否ジェームズの姿をしたものがいた。 チェックのシャツにジーンズというラフな格好をした彼は、リラックスした調子で柵に凭れかかって笑っている。 「リーマス」 彼と同じ顔同じ声で、リーマスは名を呼ばれた。ただし物の名を呼ぶのと大差のない無味乾燥さで。ただの音節の連なりとして名を呼ばれた。彼が人の名を呼ぶ時に見せた覚悟のようなもの、本質を押さえつけられるような語調を写し取る事は出来ないのだ。例え悪魔であっても、誰であっても。 リーマスは心の中で彼の名を唱えた。それはリーマスにとっての神の名だった。 「わざわざこんな所まで何をしに?」 「驚かないの?」 「うん。そうだね、別に」 リーマスの顔が印象の薄い笑顔に変わった。こうなるとおそらくもう何が起こっても彼の表情は変わらない。シリウスが目にすればきっと、目を背けるか、顔を顰めて悪態をつくか或いは100度も謝っただろう。それはそういう種類の顔だった。 ジェームズの笑顔には変化がない。ただその瞳孔が少し広がった。 「君達が心配で、遠くから歩いてきたんだ」 「へえ。どうだろう?君に心配を掛けるような事は特にないと思うんだけど」 「その恋は君達を不幸にする」 じっとルーピンの様子を窺いながらジェームズは一音一音を区切って言った。キャンディーを味わう時の子供の目をして。それよりは幸せそうに。ルーピンは完璧に笑顔を保った。 「そう?」 「僕は心配だ。君と、シリウスが」 「ありがとう。けれど今のところ多分何も問題はないよ」 「でも君は人狼じゃないか」 言葉の効果を見定めようとする視線を真正面から受け止めて、ルーピンは額に落ちた雨の粒を拭う。 「そうだね」 「この件が終わった後の事を考えている?リーマス。君はシリウスの運命を曲げるよ。それも酷く。シリウスは傷つくけど君の手を絶対に離さない。奴はそういう男だから」 「そうだね」 「彼は君を愛している」 「……知っている」 「どうすれば君達両方が幸せになれるか、僕はずっと考えている」 「君の言いそうな事は予想がつく。彼を殺せというのだろう」 ジェームズは笑ったまま、少し首をかしげた。 「彼を殺して自分のものにしろと言うのだろう」 「……話が早いなあ。そう、そして僕はシリウスの望みを知っている。彼はすべてを君に束縛される事を望んでいるんだ」 「私がシリウスを殺せば彼は喜ぶと、そう言いたいんだね」 「うん。無意識に彼は、執着されたいと考えている。繰り返し繰り返し。可哀相に、君が彼を縛りつけようとしないからだ。君は彼が差し伸べた手を取らない。君はシリウスに何でも与えるけど、彼の捧げるものを決して受け取らない」 「・・・・・・」 「君はそうやってシリウスを苦しめている」 ルーピンは出来る限りシリウスの顔を思い浮かべないように細心の注意を払って言った。 「それがどうしたというんだ?」 「?」 「私がシリウスを苦しめている、それがどうしたというんだ?問題は私とシリウスの間で話し合うべきもので、お前には関係がない」 「リーマス」 「私が人狼だって?そんな事はね、誰よりも私がよく知っている。そう5歳のときから。私は治癒の見込みのない伝染病患者で、地位も財力も、相変わらず何も持たない社会的弱者だ。もういい歳をした男性で将来もなく生産性もない。何もない。何も」 目の前にいるのが、もしジェームズその人であったなら、ルーピンは例え失意のどん底にあってもこの台詞を言わなかっただろう。ジェームズはおそらく心の底から怒り、そして同じ深さで悲しんだだろうから。 「シリウスは幸福になる。それはもう決まっている。私が障害になるというのなら排除するし、彼自身が障害となっても問題なくそれは敢行できると思うよ」 「その方法では君達がひどく傷つく。僕は……」 ルーピンは突然立ち上がった。そしてつかつかとジェームズの顔をした者の前まで歩み寄って囁く。 「君はシリウスにも同じような事を言ったかい?そう、例えば月の出ていない暗い夜に」 相手は何も返事をしなかった。しかしルーピンの顔は笑顔とは少し違うものになった。 「九官鳥のように喧しく鳴いてばかりで他に何も出来ないのなら、申し訳ないが帰ってくれないか。御覧のとおり私には雑用が沢山あるんだ」 そう言われた瞬間、ジェームズの姿をした者の額に幾つもの皺が刻まれ、凄まじいような表情が浮かぶ。 「相変わらず君の皮肉はユニークだね、リーマス」 「ああ、それと。もしかして誰かの真似をしているつもりなら、気の毒だけどちっとも似ていないよ」 恐ろしい強さで風が横殴りに吹き付けた。しかしルーピンは瞬きすらせず、相手の顔を凝視していた。 「・・・・・・」 「もしもお前が臆病者でないなら、実体を得てまっすぐここへ来るといい。来られるものならね。私は待っている」 「お前は死ぬよリーマス」 「私の命の使い道は私が決める。私はこれを復讐に使う」 「お前は死ぬよ」 「さようなら九官鳥。肉体を持たない惨めな煽動者」 「残された者が、道端で内臓を拾い集めなければならぬような悲惨な死だ」 「さようなら、可哀相なヴォルデモート」 蜂の羽音がした。 ルーピンは、自分が花壇の手入れを放棄してぼんやりと家の前の道を眺めていた事に気付いた。シリウスが帰ってくる日まではまだ日数がある。彼の横顔に苦笑が浮かんだ。 笑うと何故か唇の端に小さな痛みが走る。 首をかしげながらそこを舌で探ると、歯で噛み切ったような傷があった。何か強く歯を食いしばりでもしただろうか、いつ付いた傷だろうと少しの間彼は考えていたが、思い当たることもないので土仕事に戻った。 通り雨はやみ、空は何事もなかったように晴れていた。 例のあの方にとっては残念なことに、先生はこの方向からの圧力には 非常に強い性質です。 人間はあまりに苦しみや悲しみが過ぎると、確実にその負荷で 精神が鈍磨します。(それが良いとか悪いとかとはまた別の話) 精神の鈍磨する形としては 先生のように何をされても言われても感じないというものと 逆になにを言われてもされても酷く動揺し大騒ぎするが 翌日には綺麗にリセットされているというもの、2つあると 思うのですが。 ええと、1度鈍磨した神経が平均的な状態に戻った例というものを 私は知りません。(何を基準にして鈍磨したとするかは難しいですが) 鈍磨した神経というのは、破損した脳細胞のように 再生されないものではないかと、そう思っています。 (あ、ちょっと話が逸れ気味) という訳で、先生はあの人の影響を受けずに済んだのですが シリウスさん……シリウスさんの恋の行方は……(笑)。 「君はシリウスにも同じような事を言ったかい?」 のところの先生の顔は、血も凍るような怖い笑顔で 想像してみて下さい。あの、見た人が足元から徐々に ブルブルが上に伝わっていく「海外アニメ震え」を してしまう程のやつを……。 「でもヴォルデモートはどうして家の中に 入ってこないんでしょう?」 「愛じゃよハリー」 そうですか……。 長距離走者併走応援的作品(ぼそ)。 2003/10/02 BACK |