囁 き 月のない闇夜の中を、一匹の黒犬が規則正しい歩調で進んでいた。どこまでもどこまでも同じ景色が続く田舎道に犬のツメが土を掻くかりかりという音だけが響く。 不意に黒犬のシルエットが溶け、見る間に高さを増し人の姿になった。 長い間2本足で道を歩いた事のなかったシリウスは、真っ暗で時間も遅い今は絶好の散歩の機会だということに気付いたのだ。家まではそう遠くはない。体調の悪い同居人の代わりに、ちょっとした調査を務めた帰りだった。もう今頃は彼も起きだしているだろう、とシリウスは予想する。 出掛ける時に彼はひどく気がかりそうな眼をしていた。自分が出掛けるときは庭でも見にいくような気軽な調子で出て行く癖に、とシリウスは可笑しくなって笑う。 道を進んでいると前方から土を踏む音が近付き、前を歩いていた誰かに接近した事が分かった。黒犬に姿を変えようかとシリウスは瞬時迷う。しかしこの闇の中では手配の脱獄囚だと判別がつかないだろうとそのまま歩き続けた。 うっすらと見える丸い大きな肩と太った腰。先を歩いていた者が肉付きのいい中年男性である事が見て取れた。 「誰かそこにいるんか?」 男はシリウスの足音を聞きつけたのか、しゃがれた声で問い掛ける。 「こんばんは。今夜は随分いい気候ですね」 物盗りの類でない事をはっきりさせる為にシリウスは大きな声で返事をした。なるべく友好的に聞こえるように最大限の努力をして。 「この先の村のもんか?」 「いいえ、住人を訪ねるところです」 あの村に住んでいるのは、設定上ルーピンと黒犬だった。そこへ向かう以上は自分はきっと客なのだろうとシリウスは考えてそう答える。 「こんなに遅くになぁ……ああ恋人ンところだ」 一拍遅れて、彼はすまし顔で頷いた。 「ええ。そうです」 想像上のルーピンの片眉が上がる。仕方がないだろう、とシリウスは微笑んだ。「学友にして戦友にして恋人にして同居人」は長すぎて説明に不向きだから、と。 「それでアンタぁそんなに急いでいなさるんか。可愛い顔を早く見たいんやろ?」 「はあ」 可愛いかどうかはともかく、友人の顔を早く見たかったのは事実なので、シリウスは否定をしなかった。中年男性がしゃっくりをするように派手に笑う。ルーピン以外の人間と話をするのは久しぶりで、反応が掴めずシリウスは目を丸くした。しかし不快な感情ではなかった。投獄される前にごく当たり前に街の人々と会話していた時の気持ちが蘇る。 それに、こんな真っ暗な道で物も言わずに他人と歩くのはお互いに不安なものだ。 「あちらさんもアンタの着くのを待っとるよ」 「はい」 ルーピンはきっと椅子に浅く腰掛けて、テーブルの上で手を組み合わせて待っているに違いない。身を硬くして。シリウスには実際に部屋の様子が見える気がした。けれどノックをすれば彼はきっと何事もなかった顔をして出迎えるだろう。抱擁をする為に両手を広げて。 彼は最初憎まれ口をきく。シリウスがやり返すと笑いながら怒った振りをする。耳元でする彼の掠れた声「今からもういちど出掛けてくるかい?パッドフット」。シリウスは大仰に謝罪する振りをする。青い顔で無事を喜び合うよりその方がずっといい、シリウスはそう考えていた。本当は気が狂わんばかりの不安を、どちらもが抱えていたとしても。 「若い人は幸せにならんといかん。幸せにしてあげんとな?」 幸せ。その言葉でしかしシリウスの微笑は凍りついた。 自分にはもう幸福になる権利などないとシリウスは思っているし、そのつもりもなかった。けれどルーピンには幸せになってほしいと常に強く望んでいる。考えれば今のルーピンの生活はシリウスの考える幸福から随分と遠かった。脱獄囚を匿っての潜伏も、定期的に危険に身を晒す役割も。 「何で黙りなさる。ああ、こりゃあ何かうしろめたい事があるんだな。いかんなぁ。誰か別のモンに取られっちまうよ?」 別の誰かと友人、という組み合わせに関してシリウスが考えてみた事がない訳ではなかった。ルーピンは見知らぬ他人との接触にはとても神経質になるので可能性としては低かったが、それでもシリウス以外の誰かと恋愛関係になる確率が未来においてゼロとは言えない。 もしこのままルーピンが帰ってこなかったらと考えた夜明けの自分をシリウスは思い出す。どこかの町の誰かと知り合って、笑いながら酒場で話をする彼の表情を想像する。ぎざぎざのガラスの破片で何回も頬を掻かれるような不快感が湧き上がった。黒い水のように。 きっとルーピンの性質は、とても好まれ誰からも大切にされるだろう。自分が愛する彼のいくつもの美点は見知らぬ他人の目にはどのように映るのか、嫌でも考えないわけにはいかなかった。 しかし、シリウスの元へ帰って来ないほうが彼が幸せになれるのは明白なのだ。 シリウスはそれを知っていた。最初から。ルーピンがシリウスと一緒に行くと言ったその瞬間から。そして2人で暮らしてきたこれまでの間に自分が彼に与えた苦痛を一つづつ思い出す。彼を手放すべきだという考えは、日常において定期的にシリウスの心に浮かんだ。しかし必ずそれと同時に狂おしいほどの否定の感情が湧きあがってその判断を打ち消す。 「ずっと一緒にいたい。2人ともそう思っている」 「どうかねぇ?それは兄さんアンタの自惚れってもんかも知れないよ」 シリウスが彼に話をする時のルーピンの顔を思い出す。うっすらと目を細めて、彼はとても楽しそうに話を聞く。 あんなに楽しそうな顔をされては、きっと誰もが「自分は彼に好かれている」と勘違いをしてしまう。そうシリウスは思った事がある。自分も含めて。焦りと自嘲の入り混じった複雑な感情。 「相手さんが、ぜったいに他の男に抱かれたりしないと思っとるのか?そりゃアンタ馬鹿ちゅうもんだ」 中年男性の言葉はどれも的外れだったが、また同時にどれも見事に日頃のシリウスの屈託を刺激した。 「こんな所をフラフラしとらんで、ずっと一緒に居なくてはな。一瞬でも離れてはいかん」 「それは間違っている」 「何が」 「俺も相手も1人の人間で、自由に行動する権利がある」 「なーにが権利だ。ハ!そんな綺麗事を言っていて、いざ相手が朝にいなくなってみろ?大騒ぎだ。そうなる前に、欲しいものはしっかり懐の中に入れて、誰にも見せないし渡さない。何が悪い!」 「嫉妬は醜い。恥ずべき感情だ」 「そうかな?」 「そうだ。克服しなければならない」 「アンタはまだ若いから分からないだけだ。嫉妬という感情が何故人間にあるか知っているか?」 「……いや」 「人間の体に無駄な物はほとんど何もついていない。でも何で人間の心の中には生きるのに関係のない物が沢山あるのか、不思議に思った事はないか?」 「・・・・・・」 「嫉妬やら虚栄やら独占欲やら、まだまだあるぞ嗜虐心に支配欲!」 男は大仰に腕を振ったようだ。 「例えば嫉妬ひとつ取っても、動物の仔がほかの兄弟に対して親の愛を独り占めしようとする生存競争的な嫉妬ではない。人間の嫉妬は何にでも向かう。習うことなく人間は嫉妬を知っている。その感情は初めから内側にある。それはどうしてか」 男が言葉を切って、2人の間を風が流れた。生ぬるい、質量を感じるような風だった。 「人間という種は地上で最強にして万能だ。天敵がいない。病を克服し自らメンテナンスし、天災ですら遣り過ごす。飢えでも凍えでも全滅しない」 男が語るマグル世界の状況。しかしそれはこちらの世界でも同様だった。人間はともかく動物とは違うのだ。自分達の数を保つ事に長けている。 「そう、この種の数をコントロールするには同種を噛み合せるしかない。その為に嫉妬や他の欲求は埋め込まれている。つまり、これは間違った感情でも恥ずべき感情でもない。シリウス・ブラック。とても正当なものだ」 彼の今の言葉の中にとても奇妙な箇所があった。シリウスはふとそんな気がして必死で考える。話の流れが奇妙なのか、それとも言葉に矛盾があったのか。はっきりしなかった。先程の動揺が酔いのように頭の中に残っている。 「彼を自分ひとりのものにする方法、それを君はもう分かっているはずだ」 シリウスはとてつもなく無礼な振る舞いをされた時に人が浮かべる表情をして、憤然と否定した。具体的に男性の言う『方法』が何かを理解した訳ではない。しかし彼は生理的にそれを恐れた。 「彼は物ではない。誰にも所有する権利はない」 「けれど君は彼を愛しているのだろう?違うか?」 「それとこれとは話が―――」 「いいや、同じだ」 「彼も俺を―――」 「本当にそうだろうか?シリウス・ブラック」 「お前に何がわかる」 「彼の言葉が優しいから、彼の表情が優しいから、君を愛しているという事になるのか?そもそも君の愛と彼の愛は果たして同種のものか?」 「・・・・・・」 「彼は人に想われれば同じ量の想いを返す。洞窟で叫ぶと声が反響するのと同じだ。そこには彼の意志など無い」 「違……」 それこそはシリウスを苦しめる問題の核の部分だった。何度かの諍いの本当の理由。ルーピンにはおそらく説明しても理解出来ないだろうシリウスの嫉妬。日頃押し込めるように目を逸らしていた事実を的確に表現され、シリウスは血の気を失う。 彼は優しい。それ以上を求めれば不幸になる。自と同じ種類の好意が彼の心に無いからといって、苦しむのは間違っている。無駄な感情だ。 シリウスの髪に、そっと手が触れた。 「可哀想に。お前は十分苦しんだ」 小さく柔らかい手だった。そしてシリウスへの慈悲に満ちていた。彼はその手を取って口付けたいという、唐突で強烈な衝動に駆られる。 「彼を自分ひとりのものにする方法。もう分かっているだろう?言ってごらん」 シリウスは小さく首を振った。そして強く首を振った。男が笑う。 「何度か考えたはずだ。彼がもう誰とも口をきけず、ずっと自分の側にいればと。望まなかったはずはない。シリウス・ブラック。だってお前は彼を愛しているのだから」 「黙れ……」 「お前も一緒にいて感じ取ったのではないか?彼の疲れを。恐ろしいほど長い時間をかけて蓄積された彼の苦しみを」 「やめてくれ」 「明らかに彼は死を望んでいるというのに。それを自分の為に生きていろと望むのはお前のエゴではないのか?」 混乱しているシリウスは疑問を抱かなかった。もうとうに家の明かりが見えてもいい頃合であるにもかかわらず、見覚えのある場所が何一つない、他の民家すら見えないという事に。 ただ、月のない闇夜の中、はっきりと相手の姿が見てとれるのに不意に彼は気付く。 彼は太った中年の男性などではなく、年若い青年だった。笑顔。青年の瞳には瞳孔も、虹彩もなかった。飲み込まれそうな円形。その2つの目がじっとこちらを見ている。彼は待っているのだった。 待っている?何を。 青年はうっすらと笑った。 もし永久に彼を自分だけの物に出来るとしたら? 印象深い、いつまでも鼓膜に残る声でシリウスの耳元に囁くと、その姿は掻き消える。 気付けばシリウスは自分の家の前に立っていた。 人間が傷つくのに、悪人なんか必要ないのです。 そこに愛情があるだけで十分です。 私達はもちろん(このサイトの)シリウスと先生が相思相愛であると 嫌というくらい知っていますが、彼ら本人にしてみれば 相手がどれくらい自分の事を好きかというのは当然ながら不明な訳です。 真っ暗な室内でチェスをしているような感じでしょうきっと。 架空の人間にしては結構な擦れ違いっぷりですが 現実の人間達に比べたら、まだまだ序の口ですねこの程度。 2人は別々の人間だから考える事も違うし、 感情のアップダウンの波も違う。 こっちが盛り上がっているときに相手も盛り上がっているとは 限らないわけで。こういう道理で、恋愛という状態を維持するのは、 本当に物凄いパワーが必要なんです。 どうして得体の知れない他人なんか好きになるのか。 人って馬鹿じゃないかと思う。 それとですね、私は4巻での例のあの人の露出の仕方が 大変気に入りませんでした。もっとこう……怖い存在って あるよね。あんなパオーンって出てくるんじゃなくて、 すこしずつ、水みたいにそっといつの間にか側にいる、みたいな。 神のジェームズに敵対する以上、彼もまた神で あってもらわないと困るのです。(あなたポタを 誰と誰が戦う話だと思っていますか?) というわけでこれはあの人です。あの人の残滓。 心の弱っている時に、彼は来ます。 しかしリドルさんの話ですけど、 同士討ちに繋がるあらゆる感情は 不完全ではありますが宗教と道徳と法で抑制されています。 人間というのは本当に万全に「近い」セキュリティで 保護されているなと思う。 (てゆか、リドルさんあんたそれ何弁のつもりじゃ?) あとがき長ぇー(笑)!! 2003/03/19 BACK |