酒。そして2人(参)



 目が覚めて、自分の寝室ではない天井や内装を見て「ここはどこだ?」と思う一瞬ほど、彼にとってスリリングな時間はない。
 大抵はすぐ横(あるいは下か上)にシリウスが眠っていて「ここは居間のソファである」という事を身体的にダイレクトにルーピンに伝えてくれるのだが、今日は何故か彼はそこに居なかった。
 さしあたって刺すように眩しい陽光を遮断するために目を閉じて、ルーピンは手足を伸ばす。
 ここが行きずりの親切な誰かの家や、雇い主に与えられた部屋ではなく自分と友人の家であると彼が自力で思い出すのには、そんな訳でかなり時間が掛かった。
 ルーピンは目を瞑ったまま両手であちらこちらを探ってみたが、シリウスは周囲に居ないようである。
 おそらくはもう起きて何か立ち働いているのだろうと見当をつけて彼は息を吐いた。酒を飲んだ翌日にはいつも、2人の体は足といい、腕といい、首も胴も何もかも複雑に絡み合っていて、寝起きの鈍った頭では永久に解けないのではないかと思えるくらい悲惨な状態でスタートする事が多い。
 ルーピンは幸福な気持ちで夢の入口と現実への出口の辺りをうろうろと彷徨った。ほんの30分ほど。
 しかし、家の中にいるはずの彼を探して朝の挨拶をしようと起き上がったルーピンの視界に、部屋の隅で眠っている友人の姿が飛び込んできて、彼は頭を上げた勢いのまま逆側に倒れこんだ。
 何故かシリウスは部屋の片隅で眠っていた。
 時間が経過し、ルーピンは仕方なく靴を履いてシリウスに近寄る。
 街角で死んだ浮浪児のように、彼は壁にもたれていた。片足を大切そうに抱え、片足を投げ出している。見事な光沢の黒い布を思わせる髪は顔の片面を覆い、覆われていない方の顔は大英博物館にでも展示されているのが相応しい相変わらずの美しさで、如何に情けない格好で就寝中であろうとそれは少しも損なわれてはいなかった。
 ルーピンはがっくりと肩を落とす。
 いい年をした大人が酒を飲んで自分の家の中で行き倒れるなど、あまり自慢できる事ではない。いや少しも自慢できる事ではない。ドアの横のこの位置まで歩けたのなら、ソファに来る事も可能だっただろうにどうしてそうしなかったのか。床で眠るなどと、肉体のみならず魂まで犬に変化するようになったのか。と、手を取って諄々と説いてやりたかったのだが、シリウスがあまりに深く眠っているので揺り起こすのも忍びなく、悲しい気持ちでルーピンは彼を見下ろした。
 自分の影がシリウスの顔に落ちている。
 
 床で眠るのは犬のする事だ。
 犬は床で眠る。


 ルーピンは眉根に皺を寄せた。その言葉に何か引っかかりを覚えたのだ。珍しく彼は昨日の出来事を思い出そうとした。



「リーマス、お前、顔が赤い」
 飲み始めて漸く彼は自覚したのだが、その日のルーピンはそもそも体調が悪かった。シリウスが目を丸くして指摘した時、ぼんやりと「飲んで赤面するなんて久しぶりだ」と彼は呟いた。
「まさかとは思うけれど、杯を取り上げるような失礼な真似をしないだろうねシリウス」
「それは勿論……しかしそれ以上飲むのは感心しないと忠告しておく」
「10年早いよ。君が私に忠告なんて」
 このあたりのやり取りで、もう十分酔っていると今は分かる。自分の笑い顔を思い出してルーピンは少し恥ずかしくなった。それから話題はホグワーツ時代の思い出話になり、シリウスのガールフレンドの話になり、シリウスが話題の軌道修正をし、またガールフレンドの話に戻った。シリウスは顔をしかめ、ルーピンはずっと笑っていた。
 そこで急に杯と頭が重くなり、ルーピンは少し眠ったようだった。気付くと身を乗り出したシリウスが髪にキスをしていた。何をしているのかを訊ねると、頭にとまっていた虫を払ったのだと彼は答える。
「眠っている人間をおもちゃにするとは、紳士的な我が友よ」
「お前は一度眠ったら明るくなるまで目を覚まさないのだから、キスくらい黙って受けろ」
 そう言い返したシリウスの顔があまりに堂々としていて快活だったので、ルーピンは溜息をついてシリウスのシャツの襟を掴んで引き寄せ、鎖骨の上に口付けた。
「君一人が酔っ払いだと思ってはいけない」

 明るい朝の室内で、ルーピンは額に手を当てた。二人の酔っ払いというものは必ず、どちらかがより多く酔っていて、どちらかは少しだけ素面に近い。昨日は自分のほうが深酔いをしていたのは明らかだった。
 しかしその時は、いっそシリウスの服を剥いでしまいたい気持ちだったことをルーピンはおぼろげに記憶している。あまりに手足が重いので、それを断念したのだ。

「ご歓談中申し訳ないが私は中座させていただくよ。君はテーブル氏やチェア婦人に昔の武勇伝を披露して差し上げるといい」
 独特の分かりにくいジョークを言って、ルーピンは顔を伏せた。シリウスは呆れたようにソファに行けと奨める。「少しだけだから」という定番の言葉は、当然ながら彼には少しも信用されなかったようだ。次に意識が戻ったときは落下の最中だった。とてつもなく高い位置からソファに落とされバウンドしながら、ルーピンは薄く目を開いた。
「随分と乱暴じゃないか」
「今日は珍しく眠りが浅いようだな教授。俺はいつもお前が酔い潰れて眠った後こうやって室内の整理整頓に従事しているんだ。始めて見る仕事ぶりだろう」
 部屋の明かりは消されて、辺りはすっかり暗くなっていた。シリウスの姿も輪郭だけが月明かりに照らされて不明瞭である。おやすみ、と笑みを含んだ声で彼は呟き、ルーピンの額に唇が触れた。どうにも寝ぼけた人間扱いをされている気がして、ルーピンはソファに乗り上げようとしていたシリウスの膝を払ってみた。
「何だ?」
「進入禁止だ」
「……お前、今日は本当に体調が悪かったんだな。ものすごく酔っている」
「御心配ありがとう」
「俺をそこで眠らせないと仰る?」
「残念ながらそのようだね」
 シリウスの溜息が聞こえた。表情は見えないが、きっと彼は笑っているという気がルーピンにはした。
「分かった。良い夢を、リーマス」
 シリウスの足音がドアのほうへ向かった。彼は両手を挙げ、首を振っているに違いない。どことなく詰まらない気分になってルーピンは考える。
「犬は床で寝ろ」
 という言葉が口をついて出た時は、故に非常にいいアイディアのように思えた。その時は。
「……俺の話か?」
 さすがに立ち止まったシリウスの様子から余裕が失われる。ルーピンは少し満足した。
「だって君が行ってしまったら私が寂しいだろう」

 ごとり、と音がして朝の光の中でルーピンの額が床に伏せられた。
 誠実で愛すべき友人にこんな酷い仕打ちをしたのは誰だ?
 自分だ。
 無論寂しいというのは嘘だ。ルーピンは闇も、独りである事も恐れたりしない。シリウスもそれを知っている。
 知っていても立ち去れなかったのだ。シリウスはそういう男だった。おそらく彼はぶつぶつと何事か呟いて、壁際に腰を下ろしたのだろう。その時にはもう自分は寝息を立てていたに違いない。ルーピンは頭を抱えた。
 彼は優しい。際限なく優しい。馬鹿らしいほど優しい。実在を疑ってしまうくらい優しい。
 もう十分なのに。とルーピンは思う。人生で得られた無二の友人達にして唯一の生き残り。それだけで十分なのに。
 優しくなくてもいいのだとルーピンは力説したかった。正直でなくても誇り高くなくても良かった。ついでに言えばそんなに美しい寝顔も不要だ。自分を思ってくれなくても。もう十分。ルーピンはシリウスに代わる存在を持たない。今も。そしてこれからもおそらく。
 体に水を際限なく注ぎ込まれるようで、却って苦しい。感情が整わない。
 シリウスが目を覚まさないようにルーピンは祈った。今彼が目を開けたら、きっと気付くだろうから。
 普段通りの声を出して微笑んで見せても、きっとシリウスは「どうかしたのか?」とルーピンに問うだろう。動揺の匂いを正しく嗅ぎ取って。彼が見当違いの当て推量を繰り広げる分には少しも問題はないのだが、もしも内心の葛藤を正確に言い当てられたら、いつものようにやり返せる自信がルーピンにはなかった。
 しかしここを立ち去って家の外で気持ちを落ち着けるという合理的な手段を、ルーピンは取ろうとはしない。彼が目を覚ました時にちゃんと目の前にいて、一番に謝りたかったのだ。
 おそらくシリウスは少しも気にしてはいないというのは分かっていたが、それでも良心の望むまま、ルーピンはそこを動かなかった。眠る主人を待つ忠実な犬のように。

 少し酒を控えよう、と珍しいことを彼は思った。






酔っぱらった時の気の緩んだ笑顔は
とてもチャーミングだ。人様のは。
自分のは思い出すと絶望のあまり
山に籠もりたくなります。
2003/05/06


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