家路


「明日から1週間出かけてくる」
 と言うと、シリウスは形容し難い顔をして「そうか」とのみ返事をする。
 私が家を離れる理由は2通りあって、1つは昔から細々と続けている仕事。娘さんのお産で店を空ける書店の店番や、薬屋の材料採集の手伝い、そういった半端仕事を親切で知らせてくれる伝手があって、私はこんな身体でもどうにか日々の糧を得て生きてこられたのだ。今でも、呼ばれれば二つ返事でどこへでも行く。
 そしてもう一つは、母校の懐かしい恩師からの指示。大抵はふくろう便で、こっそりと届く。場所と詳細、私への気遣いの言葉が綴られ、最後は必ず「危険が伴うので、実行は君の意思に任せる」と締めくくられている。
 そのどちらの用件で出掛けるかを、私は言わない。シリウスも尋ねない。私達は何も言わないまま、前夜を一緒に過ごす。
 もし私達がもっと卑怯で恥知らずであれば、2人で逃げてどこか安全な暖かい場所で暮らせたのにと思う事もある。お互いを金庫にしまっておくように大切に閉じ込めて、ハリーの事も、ジェームズやリリーの命を奪われた記憶もすべて忘れて。心が全く動かないわけではないが私には出来そうもないし、シリウスはきっと考えつきもしないだろう。

 朝、食卓で顔を合わせるシリウスの目は子供のような純粋な恐れで満ちていて、私はそれを見ると今度こそ自分が死ぬのではないかという気がしてくる。シリウスがあまりに可哀想に思えて、肩に手を置いて大丈夫だと言いたくなるのだが、それはしてはならない。私が出発する日の朝、私達は決して触れ合わない。いつの間にか出来上がった習慣だ。それを変えてしまうと、私がいつも通りにこの家に戻ってこられなくなりそうで怖いのだ。私も彼も。

 そう、シリウスが恐れた通りその時の私の仕事は代価の得られぬ危険な調査だった。ある街へ行って、由緒正しい某名家の最近の情勢を窺ってきてほしいと手紙には書かれていた。はっきりと記されてはいないが、闇の眷属に荷担している可能性が濃厚なのだろう。私はそういう場合、街の色々な店で噂話を収集する。顔立ちも髪の色も目立たない私は、こういう役割にはうってつけだ。幼い頃から目立たないようにと願って努力してきて今に至るのだが、人生も一つや二つは願いをかなえてくれるようだ。容姿が派手でしかも指名手配をされているシリウスではこうはいかない。
 私は夕暮れの中、問題の館の前をぼんやりと歩いていた。数日調べただけで既にこの家が何かに病んでいるという幾つかの証拠が上がっている。禁書の類を近年になって突然買い集め出した事、当主が昔から魔法使いを選民と考えマグルを蔑視していた事、家族、使用人以外の人の出入りが多すぎる事、この家と交流のある人々は多くがダンブルドアのリストに名が載っている人物である事。
 巨大な館は窓の数だけ夕日を反射し、優美で威厳があった。幸福を守る要塞のように見えた。こんな家に住んでいながら何故尚更の不自然な力を得ようとするのか、私には分からない。
 シリウスの家も丁度こんな具合に、ただ住むのには明らかに余分や無駄があった。目を丸くする私やピーターに口を尖らせて彼は言った「お前等の感想は何も聞きたくない。言ったら殴るからな」と。
 デコラティブな鋳鉄柵の門を見上げていた私に、可愛らしい声が掛かった。
「小父さん、なにをしているの?」
 下を見ると、巻き毛の女の子と眼鏡の男の子が大きな目をして私を見上げている。夕日のオレンジ色が二人の瞳の中で光っていた。
「大きな家だなあ、と思って」
 2人はくすくすと笑い出した。
「おかしいかな?」
「おかしいわ。大きな家を見ていたってつまらないでしょう?一緒に遊びましょうよ小父さん」
 姉弟だろうか、顔立ちの良く似た二人は笑いながら私の手を取った。随分と年の離れた人々からの思わぬ誘いに、沈んでいた気持ちが晴れる心地がして、私は腰を落とす。
「いいけれど、もう時間が随分遅いよ。おうちの人は心配しないの?」
「しないわよ」
 女の子は首を振った。巻き毛が揺れる。
「だってここが私の家だもの」
 凍りついた私の眼前、鉄柵の向こうにいつの間にか女が立っていた。黒の古風なドレスを身につけ髪は結い上げてある。この館の夫人だろうか、気品のある顔立ちの中の昏い眼。
「誇りを失った哀れな魔法使い。貴様等が死に絶えて世界は変わる」
 彼女の右手の杖はぴったりと私の心臓に向けられていた。
 それから彼女は魔法の可能性が無限である事を絶叫したのだが、私にはよく聞き取れなかった。2人の子供の指が両の手首に食い込んで傷を作る。杖を取り出して反撃する事が出来ない。
 そんな中で私は目の前の光景とは全く関係のないシリウスの事を考えていた。もし彼がいなくなったら自分はどうなるだろうと。おそらくジェームズの知らせを聞いた時のような、あそこまでの精神状態には陥るまいと思う。何事も2度目は耐え易い。しかし私はもう世界に参加する事をやめるだろう。運命が、私の心に芽生える一切のものを根こそぎ引きちぎっていくなら、私の心は生長を止め、もう何物をも絶対に奪わせない。そして私を失ったシリウスがどういう状態になるかを考える。帰らない私を、あの窓枠に腰掛けて待つ彼の黒い目を思う。
 私までが悪夢の中の登場人物となったら、一体誰が彼を抱きしめる?
 私は死ねない。それは裏切りよりも酷い行為だ。私は彼の待つ家に帰らなければならない。
 手が自然に動いていた。子供の悲鳴。女は血走った目で私を罵る。
 倒れそうなくらい動悸が早まったが、望んだ通り声は震えなかった。
「あなた達の望む世界は来ない。私は必ずそれを阻む」
 杖先が震えて、屋敷の外へ逃げる彼女達を捕縛は出来なかったが、私は生き長らえてそこに立っていた。地面にはべったりと子供の血の跡が残っている。あの子達は助かっただろうか?
今座り込んだら二度と立てなくなるのが分かっていたので、私は鉄柵を開けてよろめきながら屋敷の中へと入っていった。
 濃くなっていくオレンジ色の光の中で、私は必死で呼吸を整えながら歩く。思った通り屋敷の中は空だった。もはや世間に隠して普通の生活を続けるのは限界だと悟ったのだろう。
 全ての調度の中の物がありったけ撒き散らされた異常な室内を、私は幽霊のように彷徨って恩師の役に立つものを集めた。思考は遮断した。屋敷の中にある家族の生活の残滓や歴史のようなものは一切見なかった。資金の流れや交友関係を記録したもの、手がかりになるものはいくらでもある。
 私は、私の胸の裡にある暗い炎がある限り走り続ける。猟犬が必要だというのなら私はそれになるだろう。彼等が走り疲れて倒れるまで私は追う。
 もうそれをジェームズとリリーの復讐だと言うつもりはない。私は喪失の代価を彼等に支払わせたいだけなのだ。例え子供の血が流れようと、私のこの手が汚い盗人のように、他人の家を掻きまわそうと。
 酷い頭痛がして、2,3度意識が薄くなる。ここで倒れては今日中に家には帰れない。私は自分の腕に爪を立てて薄闇の中で作業を続けた。

 列車の中から見た窓の外は激しい雨だった。私もこの国の多くの人々の例に漏れず並の雨なら濡れる事を厭わないが、それでもたじろいでしまう程の珍しい豪雨。
 シリウスは2階の窓に座って外を見ているだろう。彼は指名手配されているので駅まで出て来られない。今頃はお気に入りの動物番組を見ずに、ずっと道を見下ろしているだろう。私が遠くから手を振っても特に喜ぶ様子はないのだが、ただ待ち疲れたような気配が家の中に残っていて、いつも私は何とも言えない気分になる。
 駅から私達の家までは早足で歩いても1時間以上掛かる。今の悪天候の中この体調で歩いたら、家に付く頃には高熱が出ているに違いない。それでも私は、歩いても構わないという気持ちになっていた。彼の為に、ではなく私の為に。いっそ熱が出ていればこの酷い顔色も震える手も全部言い訳がつく。そしてここで雨があがるのを待って、今日あった出来事について一人で考えるのは耐えられそうになかった。
 列車を降りるまばらな人の中で一際足取り重く病人寸前の顔をした私は、駅員に掛けられた声に曖昧な答えを返しながら改札口を出た。相変わらず鉄の針のような雨が地面を穿っている。
 中途半端な照度の明かりが点いた駅舎の中、妙な物が視界に飛び込んできた。
 それは黒い。人間にしては高さが足りず、何かの影にしては大きすぎる。
 通り過ぎる人々には目もくれず、じっと座って私を見ている。
 犬だった。私の。
 傘をくわえていた彼は、ぽとりとそれを落とすと2.3歩退く。自分が濡れているのを気にしているのか、或いは私に叱られると思っているのか妙に上目遣いだった。
 やあ、パッドフット。ずぶ濡れじゃないか。私は笑ってそう言おうとした。しかし言葉にならなかった。
 駅舎の床は所々泥で汚れていたが、私は構わずへたり込むように彼を抱きしめた。柔らかい毛並に指をくぐらせ、喉に鼻面をこすりつけ、額に額を合わせる。頭部からはちゃんとシリウスの髪の匂いがして、強張っていた表情がようやく和らいだのが自分でも分かった。
 シリウスからじりじりとした感情が伝わってきて私は首を振る。私の様子が普通ではないので、言葉で問いかけ、両腕で抱きしめたいのだ。
「駄目だよ。ここでは手配云々以前にパニックになる」
 犬の姿ですら外出できなくなったらシリウスは日光浴も出来なくなってしまう。
「大丈夫。家に帰ろう。40数えたら立つから。もちろん今の君は数えられないだろうから私が ちゃんと数えるよ」
 納得したのかしていないのかシリウスは私の顔を舐めた。犬らしく振る舞うのを何より嫌っているにもかかわらず。
「そうしたら傘をさして2人で帰ろう。君はちょっと入りきらなくて濡れてしまうかもしれないけど、今更同じだから構わないだろう?」
 2足歩行でもしない限りは頭とおしりの大部分は傘の外だろう。そういえば彼はこの姿で2足歩行出来るのだろうか、と考えると可笑しくなって私は心の底から笑う事が出来た。
「迎えに来てくれて凄く嬉しかった、パッドフット。ありがとう」
 私はもう一度、ずぶ濡れの私の犬を強く抱きしめる。
 搾られた水が床に大きな水溜まりを作って、私はまた笑った。




単にちょっと仕事をしてみて欲しかったんですけど、
カレー粉をスプーン1杯入れようとして間違って
一瓶ぶちこんでしまったというような。

つーかアサッテの事を考えながら仕事するのは
やめましょう先生。 私も人のことは言えないのですけど。

疲れて嫌な気分で帰ってきて、好きなサイトさんが更新されてたり、
思いがけずおじさん2人の絵を見られたり、友達から楽しい
メールが届いていたりした時の気持ちを書きました。
(例えそれが「お前の横ではうなされないように
気を付けなくては(襲われそうだから)」という無礼千万な
メールだったとしてもだよ?(笑)おぼえてろ)

踏ん切りを付けるときに数を数えるのはシリウスの癖です。
父母が躾の上で多用したのでしょう「お前もブラック家の男子なら、
15秒で泣きやみなさいシリウス。さあ数えますよ」みたいな。
先生にも伝染してるみたい。こういうのって伝染しませんか?
   
どうして移動にパウダーを使わなかったかというとですね、ええと節約?(苦)


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