怖い話 「暑い。お前は暑くはないのかリーマス」 シリウスはこれで3度目になる台詞を口にした。ソファに浅く腰をかけた状態といえば聞こえはいいが、すっかり身がずり下がってしまっていて、長い足が遠くまで伸びている。少し離れたところの椅子に座っていたルーピンは一拍遅れて平生と変わりない声で答えた。 「シリウス。夏と冬、両方に文句を言うのはいけない。どちらか片方にしなければ」 「……誰の決めた法律だ。夏は暑いし冬は寒い。言ったって構わないだろう別に」 やかましいから遠慮してくれ。ルーピンは眼を閉じてシリウスにテレパシーを送る。勿論通じなかった。今年はいつになく暑さが厳しい。体温の低いルーピンにはいつもの夏より辛い条件だった。1人暮らしをしていた頃なら人為的に意識を失って暮らせたのだが、シリウスと生活している今はそういう訳にもいかない。 「お前は平気だ。不公平だ」 シリウスは瞳孔の開きかけた目で、さらにずるずると右に傾いだ。 「私だって暑いさ」 「嘘だ。平気そうな顔をしている」 穏やかだったルーピンの表情に、尚更穏やかな笑みが浮かんだ。しかしそれは危険な兆候の笑みだった。普段のシリウスなら敏感に察して口を閉じたであろうが、不幸にして今の彼は著しく集中力を欠いていた。 「そうだシリウス、怪談をしようか」 ルーピンは無意識の内に生徒に話し掛ける口調になってシリウスに微笑みかける。遠くを見ていたシリウスが、ルーピンの発案を理解するのに少し時間がかかった。 「怪談?」 「そう、キャンプの時に話したりするだろう。しばらく暑さを忘れるかもしれない」 「怪談ねえ……ああ、いいとも。始めてくれ教授。怪談でも艶話でも何でも」 いかにも投げ遣りなシリウスの態度に頓着せず、「じゃあ」と眼を閉じてルーピンは重々しく口を開く。 「ココアが溶けなかったんだ」 「何?」 浅い呼吸をしてたシリウスが、一瞬意識を取り戻してまじまじとルーピンを見た。 「ココアだよ。黒くて甘い」 「まさか……それで終わりじゃないだろうな?」 「結論はそれで終わりなんだけど、折角だから補足説明をしよう。1人暮らしをしていた頃、とても厳しい寒波の来た年があって、私はある日久しぶりにココアを飲もうとしたんだ」 いいね、その寒波が今ここに来てくれたらもっといい。とシリウスは茶々を入れた。 「紅茶がちょうど切れてしまってね、奥の棚から無理矢理ココアの缶を探し出した。中を開けると、ココアは所々固まっていたけれど飲めなくはなさそうだった」 ルーピンは架空の缶を覗いて、顔の横で振ってみる仕草をした。講義をしていた頃の癖なのだろう、そうしていると彼は驚くほど若く見える事がある。 「私はミルクを沸かしてその中にココアの粉を入れた。上の空で適当に混ぜてカップに注いだ」 キッチンで1人ココアを作っているルーピンの姿をシリウスは想像した。これは自分がアズカバンにいた時代の話なのだろうかと不意に気掛かりになる。ルーピンの表情からは何も読み取れないのだが。 「そして読書をしながらココアを飲もうとした。けれど中身はまだ溶けていなかった。一度鍋で熱したのにおかしな話だろう?よっぽど古かったんだなと、私は矢張りよく見ずにスプーンを取ってカップをかき混ぜた、しかしどうしてもココアは溶けない」 そこでルーピンはふと言葉を切ってじっとシリウスを見つめた。彼は心底不思議そうにしている。おそらく知識と経験を総動員して原因を追求しているのだろう。 「私はやっと気付いたんだ。」 「……何に」 「私の暮らしていた家はねシリウス、ここ程明るくはなかった。それで分からなかったんだけれど、顔を近づけてじっと見ると、ココアの一粒づつが妙に大きいんだ、いや大きいというか足が生えていた」 「・・・・・・」 「それはココアじゃなくてゴマ粒ほどの大量の虫だった。ココアの缶をもう一度開けて見たら、確かに全体が動いていたよ。虫が涌いていたんだシリウス。缶の中身は全部、黒い虫に変わっていた。いや、びっくりした。ココアに虫が涌くとあんな風になるんだって」 さすがにシリウスは表情を変えたりはしなかったが、右手はしっかりとソファのへりを握りしめていた。彼の脈拍が早くなっているであろう事に確信をもって、ルーピンは話の終わりの合図に肩をすくめる。 「怖い話というより気持ちが悪い話だったねこれは。さあ、シリウスもう休もう。眠ってしまえば暑くはなくなる」 シリウスは一応頷きはしたのだが、それは随分と機械的な動きだった。彼は心の中で、ともかく誰かに(もちろんルーピンであれば申し分ないが、そうでなければ人間であればともかく誰でも)近付いて触れて抱きしめて、精神の安定を計りたいという強烈な欲求と闘っていた。 「シリウス?」 「あ、ああ。いや、しかし……リーマス、その」 見開かれた目と、真一文字に結ばれた口。字幕を付けるとするならさしずめ「今の声は震えていなかったか?」という文字が相応しいだろう表情。 シリウスの心の中を察したようにルーピンは両手を彼の方へ広げて立ち上がった。虚勢を張ってそれを受け入れる姿勢を取ってはいたシリウスだが、肩に廻された腕の力はいつもの2割り増しである。 顔と顔が近づいて、シリウスは瞳を伏せる。ルーピンはじっと彼の睫毛の先を見ながら小さな声で囁いた。 「実を言うとね、シリウス私はその時少しだけ」 シリウスの鼻先をくすぐる吐息。 「飲んでしまったんだよ。そのココアを」 いつもよりゆっくりと、ルーピンの唇がシリウスに触れた。 たぶん、シリウスは泣きながら走っていった。 下人の行方はたれもしらない(下人!?) 先生はスッキリしてよく眠れたと思う。 あーと、これは友人の実話。 私は虫系統は平気なので食事中に淡々と その話を聞いていたのですが、駄目な人は 駄目なんだろうなあ。(ありがとう使ったよ、君の怪談) シリウスは虫は怖くないだろうけど「食べ物に虫」 という状況が我慢できないのではないかと思って書いた。 (甲虫は食べたくせに変な人) 私の友人もやっぱり虫ココアを飲んでいます。少しだけね。 シーズンに合わせた物を書くつもりは ないらしいですね、この人は。 2003/03/07 BACK |