ひ と                書いた人:寒さに弱い友人



私達は毎日散歩に出かける。

 大抵は午前中に、シリウスと私は連れだってその辺りを歩き回る。目的は外出できないシリウスの日光浴だったが、気が向けば走ったり遊んだり寝ころんだりもする。滅多に人のやって 来ない区画なので何を気取る事もなかった。中年男2人で散歩もどうかと思うが、彼が単独で行動すると、親切な誰かに通報されて捕獲されないとも限らない。
「おいでパッドフット」
 私はドアを開け放って室内の友人に声をかけた。

シリウスは、私が彼の事をを全くのイヌ扱いする事を本当はあまり気に入らないようだ。実際のところ犬なんだからしょうがないと思うのだけれど。


 それでも黒いふさふさした尻尾が嬉しげに揺れるのを見たくて、その姿の彼に声を掛ける時はつい優しい声を出してしまう。動物の形でいると尻尾というのが無意識に動くものだということを私も経験的に知っているので。
 黒犬は少し目を細めると太いどっしりとした足で私の足を踏み、すました顔で家の外へ出る。(これは絶対わざとだ)私は苦笑しながらその後に続く。
 並んで歩いているとシリウスは時々ふざけてじゃれついてくる。私は何故かそれをきつく咎めることが出来ない。

人の姿の時なら頬を抓りあげて説教の一つもくれてやるのだが
どうも相手が四本足の生き物では不思議と調子が狂うらしい。



 自分がそんなに動物好きだとは思わなかったし学生時代を思い返してみても勿論そんな覚えはない。以前に一度、自分の趣味が変わったのか相手がシリウスだからなのかと考えてみたが、今ひとつはっきりした答えは出なかった。そしてその件については本人に言うと拗ねられてしまうのが目に見えているので心の内に留めておくことにした。
 私は歩きながら色々な事を話す。題材に一貫性はなく、食事のメニューから今日の天気まで思いついたことを手当たり次第に言い散らかしていく。いつの間にか身に付いてしまった独り言のような話し方の所為で相槌を打つのも難しいのだろうか、彼はいつも黙って聞いている。当人の返事がないのをいいことに私は子供時代のシリウスの悪口などもしばしば話題にした。後で酷いじゃないかと責められることもあるが、どちらにしろ犬には返事のしようがない。
 膝丈の雑草を踏み分けて進むと、暖かい空気が吐息のように草の間から吐き出される。それが涼しい朝の風と混ざるのが面白いのかシリウスは駆けだした。
 ぴょんぴょんと植物の中を見え隠れしながら走ってゆく友人の後ろ姿を微笑ましく見送って、私は腰を下ろした。気候は申し分なく、空はすばらしく晴れていて、指名手配されている友人はのびのびと野原を駆けている。世間の常識からすると少々微妙な問題がないではないが、自分達は現在充分幸せであると私は認識していた。「幸せ」などと言うものは結局気持ち一つの問題なのだから。
 シリウスが1人で遊びはじめたので、私はのんびりと寝ころび目を閉じた。

ああ、また面白がってその辺の草を食べているのだろうな。

 あとで叱っておかないと。なにせ彼ときたら普通の人間なら到底食べない雑草の味をいつの間にか知っている。いつだったか朝食のサラダをつつきながら突然『今度食材が尽きたらコマツナギを使ってみるといい、あれはまあまあの味だった』と言われたときは何をどう言い返せばいいものやら困惑したものだ。


気持ちの良い風が吹いている。気をつけないと熟睡してしまいそうだ。
そういえば昼からは天気が崩れるらしいからそれまでには家に戻らないと…


 そう思うそばから穏やかな睡魔が私の意識を奪ってゆく。
 睡眠は私にとって心身の色々なバランスを取るために必要不可欠なものだ。同居人にはそれがどうしても理解できないらしく、どうしてそんなに眠るのか?と心底不思議そうに問われた事もある。私は簡単に「眠るのが好きだから。そして余計なカロリーを消費しないから」と答えた。ますます怪訝な表情になった相手に色々と説明するのも面倒だったので、その時はいかにもセンシティヴな問題の風にそれを装ったのだが、彼は拍子抜けするほどあっさり誤魔化されてくれた。
 カサカサと草を踏む小さな音が近づいてきて何か半端に重い物が私の上に乗しかかる。苦しくはないが礼儀の問題だ。こら、と声に出さずに一応の抗議を示す。
 シリウスは構わず私の額に鼻面を寄せてきた。湿った鼻先がそこかしこに押し当てられ、顔中にキスされているようなくすぐったい気分になる。

当然というべきか彼の気配は姿形によって変わったりはしない。仕草もまた然りだ。


 同じベッドで寝ているときなど甘えるように擦り寄ってくるようなこともあって、半分眠っ ている頭では判別がつかなかったりもする。そんな時はとりあえず犬だと思うことにして適当 に撫でてやるのだが、そうすると次の日の朝に微妙に不機嫌なシリウスが出来上がっていると いう寸法だ。

 いつの間にか黒犬は姿を消し、黒髪の友人が私の上にいた。
「シリウス」
幾ら人が来ないとは言え、いつ誰が通りかかるか判らない屋外で人の姿をとるのは拙いだろう。
「犬の口ではキス出来ない」
万が一のことを考えて真剣な顔になった私にシリウスはぬけぬけとそんな事を言う。 問題はそこじゃない。それを脇に置くとしても、せめて、
「……家に帰っ――――」
 小言を途中で遮られて私は仕方なく再び目を閉じる。長いキスだった。
「・・・・・野原で抱き合ってキスだって?もう駄目だね私達は。本物だ」
「偽物や仮性だとでも思っていたのか」
「一昔前のティーンエイジャーじゃあるまいし……」
「ああ、一昔前はティーンエイジャーだったな」
 笑ってシリウスはもう一度唇を重ねてくる。諦めて、私は手を伸ばしその黒髪を撫でた。
 私が言いたいのは勿論そういうことでは無い。第一その頃には、まさか自分が彼とこんな所で こんなことをするような関係になろうとは想像だにしなかった。我ながら呆れたものだ。 と、舌先に何か硬い小さな欠片が触れて思わず私はシリウスを突き放した。
「まだ何もしてないぞ!」
「君、今、歯が欠けたんじゃないか?」
「誤解―――何?歯?」
 言葉の端から察するにシリウスは違うことを、しかも何か良からぬ事を考えていたようだ。 それは後でゆっくり追及することにしてとにかく私は口の中の何かを吐き出した。シリウスの 前にゆっくりと掌を開げる。
 小枝の切れ端に似た、けれど誇るようにツヤツヤと輝く茶色い破片。
「ああ………………さっき食った…………」
 シリウスが何かを言おうとして伺うように私の顔を見た。ひどく不吉な予感がする。 恐る恐る続けられた言葉に、私は自分の右の頬がひくりと引きつるのを感じた。
 雨が近付いているのだろうか。遠雷が鳴った。


とうとう雨が降り出したようだ。
水滴が地面を叩く音に混じって犬が鼻を鳴らしているような何とも情けない音が聞こえる。
かわいそうだが躾はきちんとしなければ。
…ああ違う。
そうじゃなくて。
今度という今度こそは深く反省して人間としての何かを取り戻して貰わないと。
私は散らばる思考を無理矢理かき集め、自分を落ち着けるために温かいお茶をいれた。




(にゃかむら@あとがき代筆)
駄文「いぬ」をプレゼントした友人が
お返しにくれました。なんだか寒くなるので
いよいよ駄目みたいな事ゆってます。
どうしましょう。

寒さに弱い友人は何故か同情票を集め、
大層偉い方からシンパシィの籠もった
メールを頂いたりもしました(私が)。
しかし何故に恒温動物でありながら、
寒くなると死ななくてはならないのか。
そこいら辺が今ひとつ理解できません。
何も死ななくてもいいじゃないか……。