満月の夜に





 その日はともかく不思議な感じのする1日だった。
 もう何年もシリウスと共に暮らし、何十回と満月の日を迎えたが、こんなに静かであった彼を経験した事がない。普段であれば体力を消耗する夜のために口喧しく、いや懇切丁寧に食事の量に注文をつけ、 そして昼間のうちに休養をとっておけと私を寝室へ追いやる心優しい彼である。
 しかしその日の彼は口数が少なかった。それどころか居間にもキッチンでも姿を見掛けず、ずっと自室にいるようだった。何か諍いをした覚えはないので、体調が悪いのだろうかと私は考える。
 時間はそろそろ日が傾きかける頃合だった。いつもこの時間になると私達は居間のテーブルに向かい合って着席し、雑談をする。そして私は薬を飲み、バスルームに入る。そういう習慣だ。シリウスは私に付き合って、バスルームのドアの前で夜を過ごしてくれる。万が一薬が効かなかった時に備えてのことで、私はそのお陰で不安なく満月を過ごせるのと同時に、その時間は口もきけず人間らしい一切の事は何も出来なくなってしまう屈託も忘れられた。
 シリウスは一晩中、実に様々な話をする。外国を旅行した時にスリの一団に囲まれた事。これまでに食べた中で一番変わっていた料理店の話。ブラック家の奇人変人列伝。怪談。彼特製のジョーク話(狼の姿の私が引っくり返って苦しまなくてはならないほど強烈な)。そして妙な寸劇。「宇宙人が攻めてきて、頭を金髪に染められてしまう助けてくれ」という事細かな実況中継。たったいま旅行から帰ってきたという設定のリーマス・ルーピンと繰り広げられる会話。新たなるアニメーガスの技に成功しキリンになったという彼。
 恋愛や友情は損得とは関係のないものだが、それでも私は得をしていると思う。こんなに面白い話をたくさん聞けるのなら、この病気も悪くないのでは?と考えるようになった程だ。

 しかし、もしかすると今日は久し振りに1人でこの夜を過ごすことになるのかもしれないな、と私は薬の瓶を手に取った。むかしは当たり前に過ごしていた時間。

 ふと、私の手に冷たい指が触れた。
「君、具合は大丈夫なのかい?」
 いつの間にかシリウスが側に立っていた。まったく気配がしなかったので彼が階下に降りてきたのに気付かなかったようだ。
「具合?何の話だ」
 彼は私の手から薬の瓶を取り、首を傾げる。
「?私の思い過ごしかな。君の体調が良くないと思っていたから」
「それよりお前はどうなんだ。昼寝から覚めたあと、身体におかしなところはないか?悪い夢は?」
「?……大丈夫だよ。君がキリンになる夢なら見たかもしれない」
「それは正夢だ」
 律儀な私の保護者はすっかり復活したようだ。そのあと彼は来月には開花するだろう私達の庭の花々の話をした。すっかり聞き入ってしまった私は、窓の外の暮れの色に気付き、慌てて彼に手を差し出す。
「その瓶を返してくれシリウス。今日の分をまだ服用していない」
 彼は無言だった。
「シリウス?」
 シリウスは、そんな趣味の悪い冗談をする男では決してない。なので私は彼がふざけているとは思わなかった。
「薬を」
「リーマス、今日はこれを飲む必要はない」
 私はしばらく黙った後、極力冷静な声で言う。
「シリウス。この薬の身体への悪影響云々という問題については、今この時間ではない時にゆっくり話し合おう。こんなやり方は君らしくない」
「違う」
「違う?では何が。ゆっくり考える時間が私にはない」
 陽の光は完全に消え去り、夜の空気が部屋に流れ込む。適量を守らなければ薬は効力を発揮しない。月が昇った後この部屋で何が起きるか、想像したくもなかった。
「リーマス。俺を信じてくれるだろうか。薬を飲まずに、ただここに座っていて欲しい。お前にとってつらいことは何も起きないと約束するから」
 立ち上がりかけていた私を制するように、シリウスは片手を伸べた。彼から薬の瓶を奪うことは出来ただろうが、とりあえず私は椅子に座りなおす。
「人が食事をするためのこの部屋で、獣に姿を変えるのが、つらい事でなくて何だと言うんだ。しかも君の目の前で」
「お前に説明する時間がなかったのを済まなく思う。だが、俺を信じてほしいとしか言えない」
「このまま月を待つのか」
「そうだ」
「……君は正気なのか?」
「この上なく正気だ。円周率を100ケタまで言ってもいい」
「でたらめを言っても私には分からないじゃないか」
 私はがっくりと顔を伏せた。正直いまの毎分毎秒が例えようもなく苦痛だった。彼の意図がさっぱり分からないし、元々この時間の私は不安定な所為もあるが、人間の姿をしたものと2人でいるときに満月の出現が迫っているという初めての体験が原因だ。しかも自分に最も近しい人間と一緒に。これで私が意識を失ってしまったらシリウスが無事であるという保証はどこにもない。
「シリウス。考え直してくれないか?」
「あと少し我慢してくれ」
「……まさか、君は私と」
 病を共有しようとして、という言葉が出掛かったが、私は強くその考えを否定した。それがどれほど酷く私を傷つける行為か、分からぬ彼でもないだろう。
 月が姿を現そうとしている。それが感覚的に分かって、額に汗が浮かび足元は震えた。幼い頃から何十年と、この恐怖は習慣だった。すべての細胞に染みついている。精神はシリウスを信じ彼の言葉に従おうとするが、身体が悲鳴をあげて抗う。
「せめて犬の姿になってくれないか?」
「必要ない」
「しかし私が、もし」
 シリウスの瞳は揺るがなかった。じっと穏やかに私を見ている。私は5歳の惨めな子供のように、ただ彼を見返して震えていた。
「悪いけど、耐えられそうにない。薬を」
「リーマス」
「どうかお願いだから」
「リーマス」
 彼は静かに立ち上がって、私の側まで来ると肩に手を掛け、窓のほうへ向かせた。人に触れられたショックで息が止まりそうになる私の目に映ったものを言葉にすれば、そう。
 月だ。
 月を私は見ていた。満月を。
「シリウス……」
「どうした」
「私は頭がおかしくなったみたいだ。すまない」
「どうして謝る?」
「もう君とは暮らせないから」
「夢を見ているとは思わないのか?」
「ああ、それかもしれない」
 彼は背後で笑ったようだった。
「さあ、立つんだリーマス。外へ出よう」
「まさか!立ち上がったら姿が変わるかもしれないじゃないか」
「どんな不出来な呪いだ。それは」
 彼は私の片手を取り、もう片方の肘を支えてどうにか立ち上がらせた。月の光が差している床を踏むのが恐ろしく、私は2、3歩よろめく。足に力が入らなかった。



 ドアを開けると一面の夜の空が見渡せた。
 どこまでも続く草むらと、勝手に伸びている雑木、それに満月。
 誰かが置き忘れた丸い鏡のようだった。
 どの形の月よりも強力な、真円のそれが放つ光には圧力さえ感じた。
 夜の球体の底に私は立っていて、天に穴が開いているようにも見える。すべてがあれに向かって収束していくようだ。
 私は顔の前に手をかざす。見慣れた私の指。その向こうに満月。存在する私の指。
 後頭部がしびれて、私の現状を認識する能力は急速に低下した。
「夢だろう」
「さあ?どうだろうか」
「夢だと言ってくれ」
 庭に置いてある古い木の椅子に、シリウスは身を投げ出すようにして座った。ぎい、と柔らかい音が鳴る。
「注意をしておく。走ったり飛んだりはしないでくれ。それから物を食ったり飲んだりも駄目だ。排泄も性交もいけない。残念ながら」
「夢っぽくなってきた」
「毎月見せてやれればいいが、おそらくこれが最初で最後だ。あとは薬学の進歩を待つしかない。無論分かっているとは思うが、お前の病を根本的に治した訳ではないんだ。満月を見せられるのは6時間。それ以上は無理だった」
「?君が何の話をしているか分からない」
「誕生日のプレゼントだ」
 低い魅力的な声でそう囁いて、シリウスは長い腕を上げて月を指差した。満月を。
「誕生日?」
 裏返った妙な声が出た。誕生日が何だって?
「忘れていたのか。やっぱりな」
「まさか君の魔法だと言いたいのか?」
「それ以外の何だと言うんだ。俺が先刻からお前にあれこれ指図していたのは何故だ」
「元々君は命令が多いから……」
「日頃お前に対して、俺は懇願ばかりしていると思ったが。どうか教授、俺の渾身の魔法をお楽しみ下さい」
 言われるまでもなく、私の視線はずっと月に釘付けだった。私が満月を見るのはこれが初めてになる。噛まれた年齢が幼すぎて、当たり前にあれを見ていた時代の記憶がない。
「初めて見るよ」
「ああ」
「さすがに美しいとか綺麗だとかいう言葉は出てこないけれど、圧倒的では、あるね」
「不愉快ではない?」
「うん。いまひとつ現実のことだとは思えないけど。これは一体どういう……」
「お前は手品のタネを知らないままにするタイプじゃなかったか」
「そうだけど、それにしても凄すぎるから」
「洟垂れの頃にアニメーガスを完成させたんだから、大人としては更にスケールアップしないと格好がつかないだろう。今度は独力で」
 いたずら完了、と彼は懐かしい台詞を口にした。
 不意打ちだった。なんとか堪えようとしたが、到底無理だった。
 私は涙を流した。
 声もなく頬を濡らす私をしばらくシリウスは見ていたが、やがてその両の手を広げてこちらを問うような目をする。
「いや、それは……」
 私は涙を流しながらもおかしくなって笑う。泣きながらの抱擁だって?しかも満月の下で。
「どうして?我々は恋人同士なのに」
 その前にいい歳をした男性同士だ。私は首を振る。シリウスは聞き分けのない子供を相手にする母親の目で、如何にも優しく待っている。それを見ているうちに段々どうでもよくなってきて、私はシリウスに歩み寄った。この強烈な月の光できっと変になっているのだ。
 私はシリウスに抱きしめられた。
 彼の長い腕が背を覆い、頭を撫でる。
「シリウス、感謝している。喋るのは得意でないから、到底この感謝を表現できないのが悔しいけど。君を喜ばせる為に、きっと私は何でもするだろう。それくらい感謝している」
「ほう。これからはずっと俺のベッドの上で全裸で暮らせといったら?」
「勿論そうする。毎分毎秒愛していると囁いてもいい」
 シリウスは愉快そうに笑って横を向いた。
「冗談だ。お前はいつも通りのお前でいるといい。恋人だか居候だかいまいちはっきりしないいつものお前で」
「聞き捨てならないな。君は居候相手にあんな事をするのか?」
「『あんな事』の内容を詳しく説明してくれないと、何とも言いかねる」
「自分の胸に聞け」
 私は額で軽く彼の胸を押した。シリウスは咳き込む。そのまま立ち上がって彼に背を向け、月を見上げる。
 月光に照る草は氷のようだ。それを踏みしめてみる。1歩、2歩。
「遠くに行かないように」
 シリウスは椅子に座ったまま、小声で注意した。
「君、さっきからどうしてずっと囁き声なんだい?」
「その方がムードが出るだろう」
「大声を出すと魔法が破れる?」
「いいや」
 私は見た事がなかった。満月の日の闇の色には紫が混じる。私は知らなかった。満月に照らされるとすべての物に真珠色の光沢がかかる。私は初めて知った。満月に照らされると、生き物はどこか得体の知れない遠くの場所まで行きたくなる。気分が高揚する。
 もう一度私は自分の腕を見る。月光を受けて人の形を保っている私の腕。私の足。私の影が人間の形をしている。何度でも見たい。獣の姿で見るよりも、遥かに近い月。見飽きることがない。
「満月を見て姿を変える化け物が存在するのも納得できるね。ダンスしたくなるくらい気分が高揚する」
 それではお相手しましょうか、とでも返事をするかと思ったがシリウスは無言だった。
「シリウス?」
 振り返るとシリウスは目を閉じて浅く呼吸をしていた。額に汗が浮かんでいる。私は彼の力のない小声を思い出す。そして先程の彼らしくない乱暴な座り方。椅子に倒れこむような。
 彼の所まで戻って頬に触れると、指から急速に体温が奪われた。日頃の彼の熱がない。
「まさかこの魔法のせいで無理をしているんじゃないだろうね?」
 疑問の形をとってはいたが私は確信していた。こういう場合シリウスは少々の不調は隠し通してしまう男だ。きっと現在見えている以上に悪い状態のはずだ。
 彼は瞼を開けて私を見る。
 腹立たしいくらいに落ち着いた表情だった。彼は私が怒るだろう事を知っている。しかし私が怒れない事もちゃんと知っているのだ。
「シリウス」
「そんな顔をするな。俺は平気だ」
「この魔法に何年かかった?」
「4年」
「アニメーガスには?」
「3年だったかな」
「その上、私のための魔法は昔も今も君の身を危うくした。私は君の人生を歪めている」
「……そんな話は聞きたくないな」
「いや、聞いてくれ。その事で悩んだ時期もあった。けれどもう気にしないと決めた。君の人生も、君も、私のものだ。……恥ずかしくて気絶しそうなので返事はいらない。こら、顔を覗き込むのも駄目だ」
「是非とも返事がしたいんだが」
「禁止する。さあ、もう君は部屋に戻って休みなさい。立てないだろうから私が手助けするよ」
 しかし呆れた事に彼は首を振って椅子を握り締めた。
「俺は感極まったお前にキス責めにされるのを楽しみに、この面倒くさい魔法を完成させたんだ。夢が叶うまでは断じてここを動かない」
 どれほど弁術巧みな者でも返答に詰まっただろう。発表すればそれなりの賞賛を得られるに違いないオリジナルの魔法を開発した男が、いい歳をした同性の友人のキスが目当てだったと駄々をこねている。眩暈がした。
「……具体的に何回くらいキスをすれば、そのキス責めとやらは成立するのかな?」
「回数が数えられるのはただのキスだ」
 横を向いて口を尖らせているその男は、眩暈がするほど情けなくて、しかし認めたくはないが魅力的だった。
「……了解した。済んだら部屋に戻るんだよ」
「どうかな?」
 シリウスの瞳に月光が映る。私の髪のアウトラインが月光に白く照らされる。私は彼の上に身をかがめてキスを始めた。額に、鼻梁に、頬に、瞼に、目尻に、勿論唇にも。なにしろ数が数えられてはいけないそうだから、長い作業になるだろう。夜とはいえ屋外で、まったく狂気の沙汰だが、おそらく満月の光にはそういう作用があるに違いない。
 私は笑った。シリウスも笑って私の背に腕を回した。
 素晴らしい満月の夜のことだった。











いつもの読後感ぶちこわし(?)系あとがき

シリウスは気絶しそうなのを
根性で堪えている。
この魔法を6時間維持するために
寿命を少し削るか、内臓を1つ損なうほどの
ダメージを彼は受けています。
そしてきっと物凄く失血している。
それと人体実験段階では3回ほど死に掛けて
ラッキーで助かってたりして。
(先生にバレたらたぶんグーで殴られる)

それでも恋人の喜ぶ顔を見たいという
生まれながらの恋の奴隷シリウス・ブラック。

原理は何だろうと随分考えました。
月に干渉したのか、
ウィルスに干渉したのか、
時間に干渉したのか。
まあでも月は物理的に無理だし
ウィルスを停止させることイコール
先生の全細胞を停止させることだろうし
時間に干渉するとSFになっちゃうので(笑)
たぶんシリウスは人間の身体に
とてもよく似た何かを作り、
そこに先生の意識を移したんだと思います。
(中身がカラの狼がどこかに転がっている)
(バーチャルな世界を創って
それを先生に見せるという手もありますが、
奴は本物志向の男なので/笑)

これたぶん相手がシリウスじゃなかったら
先生は殴り倒して薬をゲットしていると思う。
しかしシリウスが「飲むな」と言えば先生は従う。
逆にシリウスが得体の知れない薬を「飲め」と言えば
先生は飲む(そういう話もありましたネ…)。
どちらも自分の命より相手を優先している。
えろい。
でもシリウスと先生では、命の投げ出し方が
若干違うよね。

この話は西暦何年の話で、2人は幾つとか
特定できてしまいますね。
全然調べてませんけど。ガハハハ。

先生おたんじょうびおめでとう。
先生大好きー。

2007/03/10


BACK