妖精事件



 世界が俺を絞め殺そうとしているように思える。
 もう夏が近くて、でも今夜は湿度が高い。暑い。汗が出る。なんだか目が痒い。羽虫が鬱陶しい。ジェームズとは喧嘩中だ。ガールフレンドが妙な事を言い始めた。貴方はわたしのことを見ていないのよとかそういう類の話だ。なぜか女は俺にこの手の話をしたくなるらしい。それとも奴等の間にそういうマニュアルがあるのか?ああ、革靴に泥がついている。腹が立つ。上級生に因縁をつけられた。お前の彼女なんか盗るか!殴った右手の骨が痛む。授業中口ごたえをしたら減点された。とどめはスリザリンの奴に呪いをかけられた。ああもう世の中馬鹿ばっかりだ。
 ジェームズやリーマスは俺を「癇癪持ち」だという。断じて違う。馬鹿が多い所為でスマートに物事が流れない、この不愉快さが奴等には分からないのだ。苛々すると俺の体温は確実に上昇し、眼球がひりひりとする。何故俺だけがこんな気分にならなければならないんだ。
「シリウス、たぶん君、落ち着いた方がいいよ」
 隣を歩いていた友人がそう言った。名をリーマスという。
「落ち着け?落ち着けだって?」
「そんなに長い手足を振りまわさなくったっていいよ。舞台劇じゃないんだから。何を怒ってるのさ」
「暑いし虫が鬱陶しいし、女は御機嫌斜めだし、上級生は馬鹿だし、呪いを掛けられた!これを喜べるなら俺は新しい宗教を興すね!」
「シリウスはハンサムだから」
 ……リーマスの話は時折、いや頻繁にトリッキィだ。サーカスのブランコ乗りのようにあちらからこちらへとジャンプを繰り返すものだから、追うのにはかなりの勘と知識を必要とする。
「確かに俺はハンサムだな、それで?」
「ああ、うん、ごめん。ええと君はこうやって見ているぶんにはとても涼しそうだ。すらっとしているしね、顔の造りもそういう感じだし。彼女は君が根気よく説明するつもりさえあれば、和解できるはずだし、ハンサムだから上級生から絡まれるのは税金みたいなものだ」
「外見が涼しそうでも俺が暑いんじゃ意味がない」
「それに風がでてきたよ。ほら、君の髪が揺れている」
 本当だった。リーマスに指を指されてはじめて気付いたが、汗ばんだ額の表面をさらりと撫でていく空気があった。宥められた気がして悔しかったのが顔に出たのか友人はにっこりと笑う。いや、こいつは理由などなくても大抵笑っているのだが。
 彼の笑顔はなんというか独特だ。おそろしく眦が下がって、満面の笑みという感じになる。独りでこっそり美味い物でも食っているような顔。こんな夜更けに、月の下で見ると非現実的でぎょっとする。
「……ハンサムでも呪いには掛かる」
「・・・・・・」
 俺は呪いをかけられている。
 ある日突然に、痛みを覚えるようになった。一日に何度も、肺や心臓や体中あちこちに。
 それと同時に急に息が苦しくなったり、頭がフラフラしたりした。校医に診察してもらっても結果は「健康体」。どこにも痛むような要因はないと言う。しかし俺は現にこんなにも痛い。
 生まれてこの方、不調と言えば睡眠不足や風邪くらいしか経験した事のなかった俺は、いちいち絶叫したくなるくらいのショックを受けた。
「薄汚いヘビめ!決闘での勝負なら3秒で殺してやるのに!」
「あんまりね、殺すとか言うもんじゃないよ」
 犯人は分かっている。スリザリンの、爬虫類に似た顔をしたあいつだ(名前など覚えてやるものか)。他人に不快感を与える自動装置のように、口を開けば嫌味か詰問かあるいは密告だ。あの湖底のヘドロそっくりの素敵な頭の中は、何か俺達とは違う緑色のものが詰まっているのだろう。陰気な顔でいつも薬草学の実験に血道を上げ、趣味は嫌がらせ、友人も持たずチラリとも笑わない。まったくあんな悪霊みたいな人間が本当にいるとは驚きだ。今のところあいつがこの世に存在している意義を、俺は考えつけない。
「いや。この呪いが解けたらあいつだけは殺る。絶対、絶対、絶対にだ!」
「……本当にセブルスの呪いかなあ……?」
「俺達は何回あいつに煮え湯を飲まされた?全部忘れたのかお前は!!」
「飲まされた煮え湯の、倍量をきっちり飲ませ返してるじゃないか君達は。それに彼なら、授業中に君の失態を大声で言いつけるとか、もっと大っぴらな路線だと思う。呪いを掛けて人知れず君を苦しめるなんてセブルスらしくない」
「奴をファーストネームで呼ぶのはやめろ!」
「どうして?」
「奴と俺はお前の中で同列なのか?違うなら今後は俺を『魂の友人シリウス』と呼べ」
「分かった。スネイプ氏。これでいいだろう?」
 リーマスは笑ったままで仕方のなさそうな顔をした。器用だ。初めのうちは全部同じ笑顔に見えたこいつの表情も、少しずつ見分けがつくようになった。リーマスはリーマスなりに、笑ったままで不安になったり不機嫌になったりしているのだ。どうして思ったままを顔に出さないのかは知らない。個性、とでも言うのだろうか。ジェームズは以前「世界中がシリウスばかりになったら面白くないだろう」と言っていた。奴が何を伝えたいのかよく分からなかったが、リーマスにああしろこうしろという気持ちは少なくなった。
「ジェー……」
「いやだ」
「ジェー、しか言ってないけど」
「ジェームズに相談すればいいのに、だろう?い・や・だ」
「君達って時々よく分からないよ」
「分からないのはジェームズだ」
 ジェームズという俺の友人は「謎」という言葉が手足を持って動き出したような男だ。洋服を脱ぎ着する如く日々の印象が違う。時に嫌というほど熱く饒舌、次には陰鬱なペシミスト、思慮深い的確な行動をとったかと思えば、次の瞬間目も当てられないヘマをやらかす。ジェームズ役の俳優が何人もいるのかと思うくらいだ。確実なのは俺にとって彼は無二の友達で、ジェームズも俺を大切に考えているというただそれだけ。むしろそう思えるのが不思議だった。そういえば一度もそんな話はしていないのだ。けれどジェームズが俺に、リーマスに、ピーターに対して少なからぬ友愛を抱いているという確信だけを俺は持っている。奴の魔術の一種なのかもしれない。もっともそれがなければあいつの友人など即日辞職なのだが。
 今回我等の眼鏡をかけた王子様は、窮状を訴えた俺をしばらく眺めてこう仰せられた。「その件に関しては独力解決しろ。シリウス・ブラック」どうやら王子は非人情週間であられたようだ。
「ジェームズは僕達に何を考えているか悟られるくらいなら死ぬほうを選ぶよ。ジェームズが死んじゃったら大変だ。だから僕達は彼が何を考えているか知らないでいい」
「何だその訳の分からん宇宙の理屈は!!」
 いや、実際のところリーマスとジェームズの間はとても上手くいっているのを俺は知っている。奴等は1度も喧嘩をしたことがない。ジェームズはリーマスのあるがままを好み、リーマスはジェームズの言動全てを反発せず受け入れる。
 俺もそういう風にあるべきなのだろうか。リーマスのように?あるいはジェームズのように。……「世界がジェームズばかりになっても面白くない」ん?あの言葉はもしかしてこういう使い方をするのか?
 俺達はいつもに比べてとても小さな声で喋っていた。今は消灯後で、ここは俺達の部屋ではないからだ。見つかれば大減点間違いなしだが、もう慣れた行為なのでそんなヘマをする訳もない。
「……やっぱりもういいからお前は帰っとけ」
「やだよー。僕まで目を離したらシリウス何をするか分からないもの。それと夜の散歩がしたいし。月も細いからね」
 ムーニーの名に相応しく ぼんやりと歩く彼を見て、俺は発作の前兆に似た胸の苦しさを味わった。そう、リーマスは病気だった。呪いや油断やそういったものとは関係なくずっと昔から。慣れもあって、もうあまり痛くはないのだとリーマスは言う。彼は辛さや苛立ちを口にしない。ただじっと丸くなっている。俺にはそれが本当に不思議で、真似の出来ない事だと思う。
「ごめん」
「なんで謝るのさ?別にシリウスが無理に僕を誘ったんじゃないだろう。僕が勝手に付いて来たんじゃないか」
 呪いに関しては1人で処理するつもりだった俺だが、間が悪かった。リーマスと部屋に二人っきりのときに胸の痛みが始まったのだ。肋骨の裏側がひどく痛んで突然手足を縮めた俺に、彼はおろおろと部屋を右往左往した。その様子に心の弱っていた俺はつい言ってしまった。
「俺はもう駄目かもしれない……」
 すると彼はいつも通り一拍遅れたタイミングで
「それってシリウスが駄目人間って事?」
 とコメントした。あまりのショックに、つい何もかも喋ってしまった。後悔したが後の祭りだ。
 それからリーマスは持てる時間の全てを俺の病気の解明に使ってくれた。自分が情けなくて何度も追い払おうとしたのだが、彼は珍しく頑固に(リーマスは自分の内側の世界に関しては激しく頑固だが、他人の領域に関しては極端に非干渉を貫く)俺の側を離れなかった。無視しても邪険にしても大きい眼をして覗き込むようにこちらを見ていた。秘密だが、俺はこういう類に弱い。犬とか猫とか。頼むからそんな顔をするのはやめてくれといいたくなる。
 結果、リーマスと俺は図書館の住人となってあらゆる本を読む事になった。まずは呪いに関して。しかし、胸部痛や眩暈、呼吸困難を起こす呪いが全世界に一体幾つあるか。授業で習う魔法ですら沢山ある。ましてや奴がホットな気分でアフリカの呪いを使ったのか、それともクールに日本の呪いでキメたのか、あるいはエレガントにしたくてケルトの呪いに挑戦したのか、あんなヘドロ人間の気持ちなど俺に分かろうはずもなかった。つまりは呪いの種類が不明である。イコール解呪が出来ない。証明終わり。
 そして薬草学。あるいはヘドロ男は呪いではなく、俺に一服持ったという可能性もあった。同じ症状を起こす毒薬の解毒剤を片端から調合して片端から飲んだ。一向に効かなかったが何故か肌の色艶は良くなった。リーマスは「ますます色男になったねえ」と暢気に喜んでいたが。どうでもいいが彼は本を読むのがとても遅い。俺が1時間で読める本の5ページ目を3時間かけてまだ読めていなかったりする。まあ詰まるところ役に立っているようないないような……。それでも俺は病には「完治」と「罹病」という2つの状態しかないと思っていた。オンかオフだ。関わる要素は「治療」1つだけで。しかしその途中経過において、心配してくれる人間が側にいてくれるだとか、背中を押さえてくれたり、大丈夫かと尋ねられたりするというのが、こんなにも気持ちにおいて重要だとは考えてもみなかった。病気をした経験がないからだ。リーマスは俺達が側にいるようになって、少しでもこんな気持ちがしたのだろうか?だったらいいなと俺は思う。
 最終的に、俺は召喚を思い立った。(ジェームズのベッドの脇に「ザ・召喚術」という本が置いてあって、それがヒントになったのだがリーマスには言っていない)出来るだけ穏やかな性質で、呼び出すのに魂やらキモやら子供の首やらを必要としない何か。それでいて俺に掛けられた呪いの種類や治癒方法を知っている何か。俺達は初心者でも呼び出せる中で、比較的位の高い魔物を物色した。
「着いた。ここだ」
 校舎と校舎の間の、中途半端な空き地。草を取り払うと、1週間かけて俺が描いた円と直線と記号と天使の名前が複雑に組み合わさった図がそこに現れる。リーマスは制作途中ずっと「誰にも見せられないのが残念なくらい綺麗だ」と感嘆していた。自分で見ると特にそういう風には感じないが、絵画を習っていたのが関係しているのかもしれない。
「リーマス、準備は?呼び出している間は魔方陣から出られないぞ」
「いや特には。僕は見ているだけだしね。君を応援するばかりだよ我が友」
 そう言ってリーマスはのんびりと笑った。こいつは「世界が明日終わりますよ」と言われても、きっとこうやって笑っている奴だ。なので魔物を召喚するくらいで泣きっ面になる筈もない。なんで俺の周りには感情の蛇口が故障している奴ばっかりなんだろう。
「シリウス、発作?」
「違う。呼ぶぞ」
 俺は準備してあった様々の小道具を順番に手にとって儀式を始めた。タブレットや短剣やタリズマンで五大元素のマークを描き、各々精霊への祈りを唱える。五つの文節一つ一つが、これまた嫌になるくらい長い。
 魔法を文系とするなら召喚は明らかに理系だ。方位や時刻や日時が厳格に定められていて、一つでも違えると絶対に術は作動しない。準備するべきアイテムも、召喚者が口にする食物も、衣服の素材も、すべて決められている。ああ、俺はこういうのは嫌いだ。フィーリングで何とかなる魔法のほうがいい。
 馬鹿長い予備儀式を終え、抜き打ちで寮の点呼がありはすまいか等と頭の片隅で考えながら、ようやく俺は召喚本番の祈章に入る。
「我は頭なき霊なり。足元をも見通せる力強き不死なる炎なり。我は彼なり。罪を裁きたる者なり。我は彼なり。その汗は地上に降り注ぎ満ち溢れん。我は彼なり。その口は常に炎を発す。我は産む者にして結びつける者なり。我は世界の恩寵なり。我が名は蛇に巻かれた心臓なり。疾く来たりて我に従え」
 別に自慢する訳ではないが、俺は覚えようと思って覚えられないものがない。一目見れば大概のものは覚えられるし、二度見ればどんなに長く複雑な何かであってももう忘れる事はない。ジェームズだってそうだ。しかし世の中の大半の人間にはそういう機能が備わっていないと彼から教えられて、俺はしばらくショックだった。それって不便じゃないか?
「我に耳傾けよ。ロウブリオア、マリオムダ、バルナバオ、アサロイナ、アフナオイ、アイ、トテアブラルサ、アイオオウ、イシュレイ、全能の生まれなき者よ。我に耳傾けよ」
 術が失敗するとは思っていなかった。習っていない呪文であっても禁止されている危険な魔法であっても、必ず俺は習得したし成功させた。この力は俺に従順だ。いや、魔法に限らない。他の奴等が苦労していること全部、端で見ていると俺には出来る気がするし実際そうだ。だいたいどうして奴らは能力の60%くらいしか出さずに生きているんだ?どうして完全に集中しない?俺には彼等が目隠しをしたままで「真っ直ぐに歩けない」と嘆いているように見える。ましてや魔法の本質は集中と熱狂と探究だというのに。
 風の成分が変わってきているのを感じる。吸込むと酸性の味のするピリピリとした空気。
「妖精達の女王、ティターニア!」

「Quattuor Portate,patens esto in nomine Dominus Luce et Tenebrae」

 女の声がした。来る。俺はそう確信した。
 甲高い、穏やかな、ヒステリックな、眠そうな、様々の女の声がフランス語であるとかラテン語であるとかイタリア語であるとか、あと俺の知らない言語で「わが名は…………私を呼んだのはお前か?人間の男よ」とそう言った。言葉はやがて収束し、エコーを残しながら英語だけになった。英語を話していた声はとても低い。
「嘘」
 リーマスがつぶやく。嘘とは何だ。
 前方から聞こえていた声が、恐ろしい勢いで後方へ移動し、左右に分散し、上方から聞こえ、その度にエコーが残る。聞き取れる言葉は「わが名は」「私を」「人間の男よ」。
 土を踏む音がして、気付いたときには女が法円の回りをゆっくりと歩いていた。
「わが名はティターニア。妖精達の女王。夜の守護者」
 初めに目に付いたのは不自然にデカイ頭だった。高く結いあげられ、そしてバウムクーヘンみたいにしっかりカールされて肩のあたりで反り返っている白い髪。そしてドレスだ。ドレスといってもパーティーで学校の女の子達が着ているような控えめなヤツじゃない。ウェストは独楽の先端みたいに細く、腰はカボチャみたいに膨れていて、スカートは中に7人隠れられそうなほど広大なドレス。ブルーが基調になっていて、光る水色の硬い生地に紺色の糸で矢鱈めったら刺繍がしてある。つまりはあれだ、詳しくないが18世紀の頃のフランスのファッション?あの「噴火口でダンスをしていた」と言われる時代の、国民を怒らして革命を勃発させた衣装道楽者達が着ていた服だ。
 そのフランス王朝時代の幽霊の肌は布みたいだった。といっても形容ではなく、肌色の布を表面に貼ってあるのだ。粗い布目が頬に見えている。目は黒かった。目の穴に石油を注ぎ込んで表面張力で一杯一杯丸くなっているとしか思えない感じに黒い。光線の加減で、油特有の虹色の揺らぎが見える。今にも黒い液体が眼からこぼれ出しそうだ。つまりはギンギンに人間じゃない。分かっていた事だが、俺は初めて事態の深刻さを真面目に考える。召喚の事故は十中八九術者が法円から外に出てしまうケースだ。さっきまでクィディッチのお気に入りプレーヤーの話をしていた悪魔が、うっかり外に出た途端に魔法使いの頭をねじ切ってチョコレート菓子みたいにひょいと口に入れてしまう事は当然起こる訳だ。どんなに彼等が人語を解し親しみやすい外見をしていたとしても、円の外に出てはいけない。絶対に。俺はリーマスの腕を掴んだ。こいつときたら魔物が「目の中にゴミが入りました見てください」と言えば「え?左目ですか右目ですか?」と言って一歩前進するに決まってる。
「孤島の牢獄の闇よりも黒い髪をした少年、ごきげんよう」
 女はキスを手のひらで送るような、顔の横でひらりと手を振るような、曖昧で優雅な仕草をした。女が動くたびに何かが軋む音がするのが凄く気持ち悪い。
「酷い裏切りに遭って10年泣き続けた瞳よりも潤んだ目をした少年、ごきげんよう」
 そしてリーマスへも同じように。
 女の香水の匂いに混じって、糞尿の匂いがする。なめらかに英語を話しているが、切り込みっぽい唇は虚ろな空洞を見せたまま動かなかった。こいつらは姿形というのを特に必要とせず、今見えている外見も便宜上の間に合わせなのだろう。
「我が名はブラック。ブラック家のシリウス。我が質問に真実を以って答えよ女王」
「もとより承知。天国と地上に関するすべての事柄について話そう。知りたいのは己の死か?栄誉か?召喚者ブラック」
 俺の死についても栄誉についても、今問えばこの魔物は答えるのだ。俺は虚を突かれて言葉を失った。足元の草が揺れて、俺のズボンの裾と女のドレスの裾を撫でている。
「シリウス、病気」
 リーマスが、「あんな長い祈りの文句を暗記しているのに、どうして肝心の用件で詰まるんだ?」とまさにそう書いてあるような呆れ顔で囁いた。違う。お前と一緒にするな。
「我が体は病、呪いに蝕まれている。その治療方法を聞きたい」
 沈黙。無機物を寄せ集めた顔をした女には表情がない。だからその沈黙がどういう種類のものか、対峙する俺にはさっぱり分からない。
「呪い?」
「胸が痛む。いや体中が痛む。呼吸が苦しい。頭がボンヤリとする。こんな酷い病気は経験したことがない」
 女の口から、洞窟を渡る風に似た音がした。夜の夜中に見ていると最高に不気味な光景だ。女の子がいたら気絶くらいはしたんじゃないか?
「ヤバいかな?」
 俺はリーマスに頭を寄せて囁いた。
「ううん。たぶんだけど君、笑われてるよ」
「どうして分かる」
「なんとなく……」
 女の首がガクリと前に傾いで、目から黒い液体が零れ落ちる。俺は吐き気がして口元を覆った。
「どこが笑っているんだ!」
「だってさ、君ときどき僕達を「殺す気か?」ってくらいに笑わせる事をやるじゃないか。君は気付いてないから僕達は必死で笑うのを我慢するけど」
 何だと!?
「ジェームズは横を向いて、咳き込む振りをしてごまかすのが上手いんだ。彼女のこの音、その時のジェームズの息の音に似てる」
 分からん。お前の言う事は分からんリーマス。
「では治療法を教えよう、ブラック家の息子シリウス」
 音を立てながら女は首を揺らしている。リーマスの言う通り笑っている風にも見えるし、俺達を食いたいのを我慢しているようにも見える。
「その呪いを解く方法はひとつ。その魔法陣の中でキスをして御覧」
 勿論ちゃんとした英語だったのだが、ひとつひとつの単語の意味は分かったのだが、文章になる段階で脳が拒否をしたので俺は聞き直した。
「………………すまない、もう一度」
「この三日月の元で、心臓と心臓、唇と唇を重ねるのだ」
「俺には抱き合ってキスをしろと言っているように聞こえるが?女王」
「如何にも、そう言った」
「相手は!?」
「お前の後ろに鳶色の髪の子供がいるだろう?」
「リーマスとキスしろと!?」
「そうだ」
「……年若い者と侮って愚弄するか?」
「そんなつもりはないとも。召喚者ブラック」
「儀式に制約されているその身を努忘れるな。誓いをたがえると酷い目に遭わせるぞ」
「くどい。うぬらを弄って何の得がある。我が夫の名にかけて嘘ではない」
「一応言っておくと、リーマスは男なんだが……」
「千里を見通すこの目だ。先刻承知」
 万策尽きて俺は恐る恐るリーマスを振り返った。何となく、彼も慌てていればいいなと思っていたのだが期待空しく奴は
「キスだって」
 とそう言った。馬鹿みたいに真面目な顔をして。俺は力が抜けて法円の上に座り込んでしまった。
「どうしたのシリウス?キスをしたら治るんだよシリウスの呪いは。簡単で良かったじゃないかキスなんか」
「キスキス言うな」
「何でそんな顔しているのさ」
「誰と誰がキスするか分かっているのか?」
「シリウスと僕」
 俺は顔を覆った。ルーピン星のルーピン星人とはどうも話が噛み合わない。ここは慌てるところではないのか?もしかして俺が間違っているのか?
「あ、でもガールフレンドを連れてきてあげていたら良かったねえ。そういう意味でしょう?シリウスが今落ち込んでいるのは」
「……うん、お前にしては上出来の解答だ」
「なんでそんな恨めしそうな顔を?」
「考えさせてもらえるだろうか女王。日を改めてという訳には?」
「再び方位が揃うのは半年先になるがそれでもよければ好きにするといい」
 そんなに待ったら苦しみ死んでしまう。
「あ、誰か身代わりを呼ばせてもらえないかな?女王に聞いてごらんよシリウス。例えばジェームズとか」
 リーマスの表情には何の変化もなかったのだけれど、俺は引っ掛かりを感じた。
「おい、お前何を考えた?」
「え?何も……」
「嘘をつけ」
 彼は自分の病気が感染する種類であるのを気にしているのだ。あるいは俺が気にしていると思ったのだ。そんな下衆な事をもし一瞬でも考えるくらいなら、俺はこの首を切り落とす方を選ぶというのに。
「何が嘘?」
「仲間の中で誰かとキスしなくちゃいけないんなら相手はお前だ!」
 こんなに必死の形相で言う事ではない気もするが、俺は大声で叫んだ。さすがのリーマスもたじろぐ。
「それは……どうも……どういう基準で僕なのか聞いてもいいかな」
「ええとなんだろう、顔?とかかも」
 深刻な様子で「顔……」と呟いたリーマスに俺は確認をする。
「それよりお前はいいのか!?キスだぞ?!」
「うん。さすがに結婚しろとか言われると考えるけどね」
 ……まず考えるのか?断るんじゃなくて?
「この場合のキスは、多分ほっぺにするやつじゃないぞ?」
「うーん、一年生の男の子みたいだよシリウス。それくらいはいくら僕でも」
「だけどお前は」
「シリウス、僕の病気がキスで治るとしたら、君はその相手になるのを嫌がったりするかい?」
「……しない」
「だろう?同じだよ」
 大きな目がぴったりと一本のラインになって、見事に彼は笑った。眦の下がったいつもの笑い顔だ。
「すまん」
「ええと、僕は何をすればいいのかな?」
 リーマスが忙しく手を伸ばしたり前髪を上げたりしたので俺は吹き出した。どうして額を出す必要があるんだ。俺と手がぶつかる。業を煮やして「お前は動くな」と言うと、彼は動かなくなってじっと俺を見上げてきた。
 俺と同じシャンプーと石鹸の匂いがする。当然か。寮の備品だからな。それに混じってココナッツのような香り。これは何だ?菓子の匂いか?
 ああ、目を瞑った方がいいかな。と言ってリーマスは目を閉じた。見慣れた寝顔になる。何て事だ。俺達は本当にキスするみたいだ。いや、するのだが。
「シリウス、くすぐったい」
 近距離で息が掛かるのが不愉快なのかリーマスは鼻の頭に皺を寄せた。しかし背中から息を吐き出すわけにはいかないじゃないか。唇以外、どこにも触ってはいけないような気がして俺は突っ立ったままでリーマスに顔を寄せた。いつも女の子とキスするときに肩や頭の後ろや腰に廻している腕のやり場がない。まさかバンザイをする訳にもいかない。どうすればいいんだ一体。
 リーマスは目を閉じている。瞼すら動かない。こいつはいついかなる時でもこうだ。こんなに動揺して心臓を鳴らしている俺が間抜けみたいだ。……ああ、でもお前はいい奴だ。知っていたけれど改めてそう思う。
 リーマスの吐息が唇にあたった。リーマスは息をしている。当たり前だが。
 夜の空気にさらされていた唇は、2人とも乾いていた。さらりとした感触だった。
 俺は、友人リーマス・ルーピンとキスをしている。特急の中で出会った時には、まさかこんな事になるなんて夢にも思わなかったのに。
 まだ、彼の病気を知らなかった頃に「実家に帰らないといけないんだ」と告げる彼の青ざめた表情。普段より却って丁寧な笑顔で、俺はその顔が無性に癇に障った。
 叫びの屋敷で彼の秘密を暴いたとき。噛み裂かれた小動物みたいになって床に倒れていたリーマスを見たときの自分。血が怖いなんて、そんなのは小説の中に書かれてあるだけで自分には関係がないと思っていた。でも良く知った友達が真っ赤に染まっている姿はどんなに恐ろしかったか。流れ出た彼の血に引かれて自分の血が逆流したみたいだった。彼が死ぬと思った。血が沢山流れていて本当に彼が死ぬと思った。気付いたら俺は涙を流していた。ジェームズはあの時の涙については、一度も俺をからかったことはない。
 あらゆる場面の色々なリーマスの表情と俺の感情が、何故か蝶の大群のように吹き荒れて俺を翻弄する。胸が痛い。今までの発作の中で一番強烈なのが急にやってきて、俺は彼に掴まった。
 授業中の。
 教師の冗談に皆が笑い出してから、ゆうに1分が過ぎてやっとリーマスは笑い出す。
 はっきり言って彼を良く知らなければ頭がゆるいんじゃないかと思っていたかもしれない。
 ジョークを聞いて、「それってどういう事なんだろう」と目が大きく見開かれて、やがて笑顔になる変化を俺は全部思い出すことが出来る。何故ってずっと見ていたからだ。リーマスは楽しそうに笑う。小刻みに揺れる小さな丸い頭。午後の授業風景。きっと十年先、二十年先でもあの笑っているリーマスの顔を思い出したら自分は幸せな気分になるんじゃないのかな、とそんな気がした。もし十年先、二十年先に俺が最悪の不幸の底にいて、何かひとつでも楽しい事を思い出したくなった時は、この時間がいい。眠くてだるい授業。けどリーマスは笑っていて、俺はそれを見ている。後ろには当然のようにジェームズがよからぬ小細工に夢中になっていて、その隣には必死に板書をしているピーター。こういう、うんざりするくらい当たり前に奴等のいる場面を俺は思い出したい。
 分かったと思った。
 俺は自分でも驚くほどリーマスを良く見ている。こんなにも優しい視線で。それはどうしてか?
 彼は暖かい頬をしていて、にこにこと笑う。髪が細くて柔らかい。俺と同い年で若く、腕も体も健康的でしなやかだ。でもこの体は深刻な病を抱えている。それをじっと耐えている。真似の出来ない忍耐力でもって。ジェームズとは違う意味で俺はこいつを尊敬している。
 本当に俺はようやく分かる事が出来た。
 最初の発作が起こった場所と時間を思い出せ。あれは部屋で、みんなで笑っていたときだ。ジェームズの冗談があんまり面白くて、リーマスは俺の胸に頭をすりつけるようにして笑った。俺は急に胸が痛くなって、食あたりしたようだと皆に告げ、その日は早く眠った。
 次の発作は?部屋に戻ってきたらリーマスが本を読みかけたまま眠っていた。その能天気な寝顔を見た瞬間だ。
 では次は?廊下で話していたら下の中庭でリーマスがホウキを持ってどこかへ行く最中だった。一人で歩いていたのにもかかわらず、彼は相変わらず楽しそうな顔をしていた。それを見た瞬間だ。
 次は?その次は?次の次は?
 こんなことが起きるとは予想もつかなかったので、俺は呪いかと思った。
 肺や心臓が痛み、息が苦しく、頭がフラフラとする。古典文学作品で散々言われていた症状じゃないか。
 ……俺はリーマスに恋をしていたのだ。
 俺は知らなかった。俺は少しも気付かなかった。
 キスは、これまでのものとはまるで違っていた。女の子達とのキスは「いい匂いがするな」とか「背中まで柔らかいなんて、女の子って奴は一体何で出来てるんだろう」とか、頭の芯は冴えていて探るような気持ちが強かった。正直、悪戯の計画を入念に練っている時のほうが余程エキサイティングで。しかし今はそうではない。体のあちこちが痛み重く痺れ、けれどあまりの心地よさに思考が薄れてゆく。
 俺は俺のやりたかった事を悟った。
 リーマスにキスしたかったのだ。
 唇だけではなく、この小さな額や、耳や、頬や瞼に。
 1秒考えたあと、俺は左手でそっと彼の背を抱き、右手で彼の髪に触れた。予想した通り、リーマスはちっとも気にしていないようだった。得をしたような、または逆に情けないような気持ちになったけれど、俺はそのまま口付けを続けた。
 呪いじゃない。ましてや中毒でも病気でもない。
 ああ、そうだ俺は彼が好きなんだ。
 水中にいて呼吸をしていなかった人のように、俺は大きく息を吸い込んだ。
 俺は恋を知らなかった。あの、ガールフレンド達に対する「可愛いな」とか「面倒くさいな」とかいう淡い気持ち。あれをずっと恋だと思っていた。
 これはもっともっと残虐で力をもった、掴まれたら逃れられない暴君だったのだ。そう、最悪の病気のような。
 一種最悪の呪いのような。

「分かれば呪いは解ける。或いは、分かったところが呪いのはじまり」

 ティターニアがそう囁いた。俺はリーマスから唇を離す。薄く目を開いたリーマスを見て、初恋の相手なのだなあとそう思った。初恋だ。相手は男だ。大切な友人だ。武器も防具もなく、ただひたすら殴られている負け犬のような気分になった。
「シリウス……大丈夫?」
「ああ、うん」
「呪いは解けたみたい?」
「うん。呪いは消えた」
 ヘドロの呪いではなかった。というかヘドロは全然関係なかった。祝福あれヘドロ。その調子で俺の人生には一切関わるな。
「よかったシリウス。寮を抜け出しているんでなければ大声で叫びたいくらい嬉しい」
「ありがとうな」
 リーマスの顔は、笑ってしまうくらい今までと違って見えた。色鮮やかに。綺麗に。慕わしく。呪いだ。この力は呪いだ。
 俺はリーマスの顎を指ですくって頬にキスをした。そうしなければ胸が破れて死ぬかと思った。予想通り彼は少し目を丸くしただけで、すぐに微笑む。……お前は本当に抜けているなあリーマス。
「こんなに笑ったのは何百年ぶりだろう。シリウス、礼を言う」
 女がそう言ったので、俺は振り返って降参の印に両手を上げた。
「感謝する妖精の女王。まあ確かに可笑しいだろうな。いいさ、笑え」
「また何か問題が起きれば呼ぶがいい。時間も距離も越えて来よう」
 お前は、おそらくだが苦戦するだろう。ティターニアはリーマスに聞こえないようにそこだけ小声で俺に告げる。俺は仕方ないので頷いた。そんな事は妖精に聞かなくても分かる。
「我はこの儀式によりて拘束されし霊を解放せん。速やかに汝らの場所、住処に戻れ。祝福のあらんことを。我は今、この神殿が滞りなく閉じられしことを宣言す」
 閉会の文言を唱えると女の姿はすっと後方に遠のいていき、やがては見えなくなった。俺もリーマスも人にそうするように手を振った。女王が手を振り返したかどうかは見えなかったけれど。
「本当に妖精を呼んで、自分で呪いを治しちゃったねえシリウスは」
「ああ?うん」
 呪いじゃなかったけどな。
「物語のヒーローみたいだ。君のそういうところ」
「・・・・・・」
 物語の悪女みたいだ。お前のそういうところ。
 けれど。
 俺はリーマスと2人で魔法陣を消す作業をしながら考える。
 俺はどうやらこの恋を諦めたりするつもりは少しもないらしい。この恋は俺にとって呪いであると同時に、リーマスにとっても最悪の呪いになるだろう。なにせ相手が俺だ。物語のヒーローとまでリーマスに言わしめた俺。若く、色々な才能に恵まれ、体力もあり、頭も悪くない。手段を選ばない。欲しいものを諦めたことがない。リーマスを熟知している。弱点も、隙も。労を惜しまない。段々彼が可哀想になってきた。
 しかしリーマスの性格からして、俺が嫌というほど打ちのめされるだろうことも容易に想像がつく。お互い様だ。
 ともかく今の俺は負ける気がしない。どんな距離だって走れるし、どんな時間でも待てそうに思う。それくらい自分に自信があるし、……リーマスが好きなのだ。
 きっと妖精に頼ることはないだろう。
 そう考えると、俺はリーマスに「帰ろう」と言った。友達の声で。
 彼はにっこり笑って頷いた。












メラ長いですね。お疲れさまでした。
はい、学生時代の彼等が恋愛っぽいので
当然これは他の話とはパラレルです。
しつこいですが、ここの人達は学生時代に
恋愛感情はありませんでした。

豆サイト限定の話ですが、
デキましたー→疑いましたー→人が死にました→
再会しました→関係も再開〜という人生が歩めるほど
柔軟には見えないので…ここの人達…。(アタマカターイ)
今デキてるなら昔はデキてない。
昔デキてたなら今はデキてない。
どちらかの2人なら書けるのですがねえ。なので
今デキてもらうためには昔デキてないことに
していただかなくてはならんのです。

えとですね、このパラレルはあと2作続きがあるのです
(超短いのと普通の)。いつか書いてお見せできればいいのですが。
ここを読んでいる方は大半が作り手さんではないかという
変な思いこみがあるのですが、全部出来上がっているものを
頭から引っ張り出すのって皆さんは面倒じゃないですか?
「あー!もうー!私はその話は知ってるよう!」
みたいな。

召喚の呪文は『サメクの書』とか『物見の塔の儀式』『ゲーティア』
とか他色々から。怖いのでデタラメを混ぜました。

でもこれはどちらかというとオリジナルでやるべきですね。
シリウスがリーマスを好きでも、意外性ないし!!
しかしオリジナルでやるとキャラ立てに更に枚数食って
倍くらいになる……わあ絶対やりたくない!

地位と名前のある妖精ってあんましいないのです。
仕方なくタイターニア。苦しい。タイトルは響きが良いので
使用しただけで、コティングリーとは何の関係もありません。
あ、全部英国つながりだ。

……若い頃のシリウスさんはブイブイですね。

2003/06/23


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