男性と犬 子供は公園で信じられない物を見た。 まるで朝に見ているアニメーションの中の生物にしか思えなかった。 この国特有の何処までも続く曇り空。 雨は上がったばかりで公園の緑も舗装された小道も水浸しで。世界中が濡れたサラダみたいだ、と歩いていた子供は思った。 近所に住む叔母の家からの帰りで、公園を通ってはいけませんと禁止されているにもかかわらず、彼はこの道をよく利用していた。 犬を散歩させる大人達や体操を黙々と行う人々がいつも居るので、子供なりに危険は少ないと判断したのだ。 実際、今までこの公園でトラブルに遭ったことは一度もなかった。 しかし今、一本道の前方からやってくる男性と黒い犬を見たとき、子供は思わず足を止めた。 距離はまだ100mほどあるだろう。しかし犬はもう十分に近付いているように見えた。遠近感が狂っているのでなければ、それは常識では考えられないくらいの大きさをしていることになる。そう、動物園か何かの檻の中にいるのが相応しいくらいの。 犬と男性は並んで歩いている。時折男性は犬に何かを話しかけているようだった。 犬の背の位置がもう少し高ければほとんど男性と並んでしまう。それでなくとも男性は細身で、犬がその気になればボロ雑巾の如く振り回して噴水の中に投げ入れる事も可能に見えた。 「……今からでも遅くないから君は帰った方が良い。これじゃ目立って……」 地味な色のコートを着た男性は、子供が一人目を丸くして突っ立っているのに気付いてにっこりと笑った。 「こんにちは」 「……こんにちは」 挨拶をした後で、子供は犬が鎖を付けていないのを見て思わず悲鳴を上げそうになった。鹿でも一噛みで仕留められそうな大犬が野放しでうろついている。(もっとも鎖をしていたところで持ち手がこの貧相な男性なら、結果は大差ないということは少し考えれば分かるのだが) 走って逃げ出したいという欲求が高まったが、犬は逃げると必ず追いかけてくるのを体験していたので子供は何とか辛抱をした。この犬に噛まれたら救急車が来る前に死んでしまうのは容易に想像が付く。 「この犬は絶対に人を噛まないよ」 子供が何を考えているかを読みとったように男性は犬の首筋を撫でた。 ゆっくりと、人に説明するのに慣れた口調。子供の知っている誰かを思い出させる態度だった。 おずおずと、少年は何という種類の犬なのかを尋ねる。 「そういえば聞いていないな」 上出来のジョークを聞いたと言わんばかりに男性は吹き出した。 犬はじっと飼い主を見上げていたが、馬鹿にしたように尾を振ると先に歩き始める。 「君、マイペースも大概にしないと……」 犬相手の言葉遣いではなかった。では自分に言ったのだろうか?と子供は混乱する。 「ああ、彼と暮らして長いからね。よくこうやって話すんだ。食べるかい?」 男性は大人が大人相手に煙草を勧めるように、至極真面目な顔でポケットからキャンディーを差し出した。 子供にも犬にもとびきり丁寧に接するこの男性に驚いていた少年を見て、ふと彼は手を引っ込める。 「おっと、知らない人に食べ物をもらうのは良くないか」 「いえ、いただきます」 慌てて受け取ると子供はさっそく包み紙を剥いて口に含む。キャンディーは今まで食べたことのない不思議な味がした。 「パッディ!」 男性が呼びかけた方向を見ると、犬は濡れた路面に貼り付いている新聞の上に立って俯いていた。じっと動かなかったのでまるで新聞を読んでいるように見える。 「パッドフット!捨ててある新聞なんか読んじゃ駄目だ」 犬はじっとこちらを見た。そして一度だけ面倒そうに尾を振ると再び新聞に視線を戻す。あまりにも『うるさい』という仕草に見えて子供は笑った。あやうくキャンディーが口から飛び出すところだった。 本当に新聞を読んでいる風に見えた。というよりその黒犬は奇妙な具合に犬らしくなかった。子供の知っている犬は、口を開けてだらりと舌を出して息をしていたし、尾を振ったり進んだり戻ったり何かと忙しく動き回っていた。この黒犬はともかく動きが少なく、動作の前にはじっと考えるそぶりをした。 「先生……あ!じゃなくて、ええと」 男性が不思議そうな顔をして子供を見る。同時に子供は男性が誰を思い出させるかに気付いた。学校の先生だ。 「おじさんはお散歩中ですか?」 「いや、もうすぐ男の子が家に遊びに来るので、乗り換えの駅まで迎えに行くところだよ」 「犬と一緒に?」 「そう、犬と一緒に。電車に乗せてくれれば、だけど」 言葉だけは困ったような調子であるが、表情は幸せそうだった。子供はこんな立派な大人の男性がこんなに嬉しそうな顔をしているのをこれまでに見たことがなかった。 「乗せてくれるといいですね」 「ありがとう。パッディ!ちょっとこっちへ来てこの子に挨拶くらいしたらどうだい」 子供が反射的に手を差し伸べると、黒犬はしばらく子供と男性を見比べていたが諦めたように(少年はシュッという牙の間から漏れるため息を確かに聞いた)カリカリ爪の音をさせてこちらへやってくる。 しかし犬らしく掌を舐めたりはせず、儀礼的に顎で手の甲をつついた、それだけだった。 「じゃあ、気を付けて」 男性は苦笑しながら子供へと手を振ったが、子供はしばらく首を傾げてその奇妙な犬と人間の組み合わせを見送った。 黒犬からは、子供の父親が使っているのと同じシェービングクリームの匂いがしたのだ。 そういえば私シリウスの大きさって良く分かってないかも。 ええと、小山くらいでしたっけ?小山って基本何メートルくらい? BACK |