ダイアリー









 ホグワーツで、僕達4人組はちょっとした伝説だった。ありとあらゆる独創的な悪戯を成し遂げ、その完璧な計画と証拠を微塵も残さない実行力は今でも現役の悪童達の憧れの的だ。行ってはいけない場所、やってはいけない事、校内の秘密の伝説や仕掛けはすべて制覇した。次々に新しいクラブを作り、委員会や秘密結社を作り、校内探偵事務所を作り、果ては有限会社を興したりもした。あの頃、ホグワーツの流行は僕達から生まれていた。もちろん遊びの方面ばかりではなく、学生らしく勉強もした。スポーツも。一生懸命毎日勉強している生徒は、けれど遊んでばかりいる僕達に太刀打ちできないのだった。ジェームズ、シリウスは特に凄かった。彼等は僕達の中でも別格の、言わば化け物だ。
 僕達が卒業するとき、あのマクゴナガル校長が、挨拶の途中で声を詰まらせ泣いてしまうというハプニングがあって、役員のダンブルドアがとても困っていた。(ダンブルドアは、本当なら彼が校長をするはずだったと誰もが言う有名な大魔法使いなのだけれど、教授時代に過失で生徒を一人死なせてしまって、それで役員をしているのだそう。そのトムなんとかという名前の生徒の写真をロケットに入れて、今も首から下げている真面目な人だ)まあ、つまりはそれくらい僕達は印象の強い生徒だったってことだね。
 僕達4人のメンバーを紹介しよう。ジェームズ・ポッター。シリウス・ブラック。リーマス・J・ルーピン。それから僕、ピーター・ペティグリュー。
 僕達は最高の仲間で、互いを兄弟のように思っている。もし彼らの為に死ななければならないとしたら、僕は喜んでそうするだろう。彼らもまた僕の為にそうする。僕達は普通の友達ではない。宿命とか運命といったものに集められた仲間。僕は初めて彼らに会った時、鳩尾の辺りがぐっと押えられるような気がして、口がきけなかった。そういうのって分かるかな。ともかく普通じゃない感じ。こんな友達に、誰もが出会える訳ではないというのを僕は知っている。彼等のような友人を持てて良かった。しかも3人もだ




 ガン、という景気のいい音がしてジョッキがぶつかった。
 いつものようにジェームズがビールを飲む。彼はビールを、ヘビが固形物を飲み込むように、つるりと乾すのだ。その様が面白いので、僕とリーマスは自分のジョッキはそっちのけでジェームズの観察をしてしまう。もう習慣になってしまったので彼はちっとも気にしない風情でビールをもう1パイント注文すると、料理に向かって指を擦り合わせて相好を崩した。
「キャセロール、キャセロール、キャセロール。ああ冬の神さまだね。魚と芋はまだかな?バターが嫌というほどぶち込まれたパイも注文しようよ!冬は脂を摂らなければ。ねえ、リーマス。君はもうちょっと太ったほうがいい」
「君こそ棒人間みたいに痩せている」
「待ってよ!僕はいま吹き出物がひどいんだ。そんなにバターを食べるわけにはいかないよ」
 僕とリーマスが同時に喋ったが、ジェームズは構わず返事をする。
「食べても食べてもそれ以上に動き回るからね。家にはリリーが作ってくれた僕専用の車輪があって、僕はいつもそいつの中で走ってガラガラ回しているという寸法さ。構うものか!ピーター。吹き出物供に、どちらが主人か分からせてやれ!」
 僕達は月に1度か2度、このパブで会う。ホグワーツを卒業してからの習慣だから、もう何年になるだろう。席や椅子、注文する料理から何から、誰がどこにコートを掛けるかに至るまで全て決まってしまっている。僕はここに来ると安心出来た。店主も顔なじみだし、料理も味が良い。集まっている彼等は僕の友達で、気を許していい人々だ。誰も僕を馬鹿にしないし、利用もしない。話を真面目に聞いてくれる。この店で彼等に会うと、何故か学校時代に戻った気分になった。そういえばジェームズとリーマスの顔は、気持ちが悪いくらい昔と変わらない。なので、益々僕は錯覚する。変わったのは毛が薄くなって、本格的に太り始めた僕だけだ。
 魚と芋のフライが来て、僕とリーマスは慌てて自分の食べる分を取り分けた。なにしろジェームズは、これから漬け込んで熟成させるのかと思うくらいビネガーをふり掛けるのが好きなのだ。毎回これには閉口する。
「集まってるな!このデブと病気持ちと山火事頭!」
 大きくはないけれど、美声なのでハッと人を集中させる声がした。シリウスだ。現れた彼に僕達は3人一斉に挨拶をする。
「遅いぞヒモ男!」
 旧友への挨拶にしては品が悪いけれど、パブの中に女性はいなかったので許されるだろう。ジェームズが「いや、擬似恋愛をサービスして金品を得る男、ときちんと言うべきか」と笑った。最後にやってきた4人目の仲間シリウス・ブラックは自分に向けられた皮肉へ、鷹揚に笑いながらこちらに歩いてくる。汚いコート(おそらく彼が持っている中で一番安物の)と汚れたジーンズという服装にもかかわらず、どこか違う星の人が薄汚れたパブに降臨したという印象はなくならない。それが足取りの所為なのか、姿勢の所為なのか、それとも単に整った顔の造りの所為なのかそれは分からないけれど、彼は何をしていてもノーブルに見えてしまう種類の人なのだ。おそらく死ぬまで。
 当然ながら彼は非常に女性に人気があって、定期的に付き合う女性を替えていた。シリウスはまっすぐな黒髪で、吊りあがった眼や眉に異国的なところのあるハンサムな顔立ちをしている。加えて気品があって長身で陽気な性格、頭も悪くないとくれば、女性にしてみれば好物をぶら下げられた馬のような気持ちになるのだろう。ただ、彼には欠点があって、酷い飽き性なのだけれど。今の彼のお相手は、年上の美人でグラマーな人妻らしい。その年上の美人でグラマーな人妻は、シリウスに趣味の良いプレゼントを沢山贈る。それで先程の蔑称という訳だ。
「山火事頭って言うな。傷つくなあ!もう」
 そう言ってジェームズはビネガーのぼとぼと滴るフライをシリウスへ差し出した。嫌な顔をしながら、シリウスは子供のようにそれを口にする。
「で、今月はどうだった?怪我はないかリーマス」
 リーマスに乱暴な事を言ったけれど、シリウスは飽きっぽい性格からは考えられないくらい忍耐強く彼の病気のケアをしてきた。脱狼薬が開発され、アニメーガスになる必要がなくなった後も、満月前と数日後には彼に手紙を送って近況を確認しているようだ。
「ああ、うん。先月と同じに。そろそろ気候が毛皮向きになってきて嬉しいよ」
 リーマスは自分の病気の事を気にしなくなった。
 少年時代の彼はこんな風ではなかった。病気の話になると(それが例え僕達が心配して掛けた言葉でも)じっと苦痛に耐えるような顔をして黙っていた。彼は秘密が洩れる事をいつも恐れ、普段から心のどこかが身構えていた。
 今の彼は病気を、ただの病気として捉えている。自分から口にしたりはしないけれど、頑なに隠すこともしなくなった。時折ジョークさえ言う。「でも出来るなら水虫とかの方が良かったよピーター。水虫なら満月の夜に散歩できるからね」
 それについてはジェームズが今も自慢する。彼はリーマスを洗脳した。ジェームズは良い事にしろ悪い事にしろ自分の業績や所業を吹聴したりはしない人なのだが、この件に関しては特別だった。そして僕達も当然だと思う。ジェームズには能力があった。そしてそれを上回る恐るべき根気があった。それでも10年以上かかった。彼は人が必要とする時、正しいタイミングで正しい言葉を与えるという、超能力に近いものを持っていた。彼は言葉を間違えない。そんな彼がひたすらリーマスに言葉を与えつづけた。時にはわざと喧嘩に持ち込み、時には笑い飛ばし、もちろんそれらの10倍も励まし。
 その「治療」は同い年の子供が友達にするようなものには僕にはとても思えなかった。もっと大人で、プロフェッショナルな人が報酬を貰ってするような何か。それでも途中で投げだして失敗してしまいそうな事を、ジェームズはやってのけたのだ。
 僕はジェームズのしている事は徒労に終わると思っていた。リーマスは一見素直な性質のようだが、その実は石の羊よりも頑なだったからだ。でもジェームズは成し遂げた。彼が「進め」と言ったら、石の羊は歩き始めた。
 リーマスの頭の中身はジェームズによって変えられた。
 「コツさえ分かっていれば、洗脳は100%可能だ。主義に反するから最初で最後だけどね。でも後悔はしていないし、僕が一生のうちで一番誇れて、甲斐のあった努力だよ」とジェームズは言う。リーマスは何も答えず微笑むばかりだ。
 じっとリーマスの顔を見ていると、彼が
「ピーター、仕事のほうは最近どう?」
 と微笑みながら聞いてきた。
「相変わらず。失敗ばかりだよ」
 明るく言うと、シリウスは笑ったが、リーマスとジェームズは無言だった。
 今日は仕事で随分と失敗をして、色々な人に何度も頭を下げたのだけれど通じなかった。一番怒っていた人達など、杖を僕に向けるくらい激昂していた。
 僕はいつもこうだ。ぼんやりして大事な仕事を失敗してしまう。僕には酷い想像癖があるのだ。
 例えいつどこで何をしていようと、想像が始まるともう駄目なのだ。現実はぼんやりとしたものになってしまう。なので僕は頻繁に頓珍漢な事を言ったり、とてつもないヘマをやらかしたりするのだ。けれど、考えてもみてほしい。視界は望遠鏡で覗いたみたいに遠く丸く小さく、音は夢の中のように小さく聞こえる。触った感触もはっきりしない。味もしない。そんな世界で彷徨うって事がどんなものか。僕はそんな場所で考え続ける。「いまここで、僕がこんな事を言ってしまったらどうなるだろう」「僕がああいうことをやってしまうとどうなるだろう」「もしかしたらあれはああいう風に見えているけれど、実は違うのではないかしら」想像は止まらない。2つの世界で生きているようなものだ。しまいには実際に僕が言った事、やった事が分からなくなってくる。あれは空想だったのか、それとも違うのか。
 リーマスは「それはうっかりと事故に遭うかもしれないから、家の中だけにしておいた方がいいよ」と言ってくれる。でも意志で止められるものじゃないんだ。
「まあピーターにとって空想は呼吸みたいなものだからね」
 ジェームズはいつも言う。
 そう、空想を止めるという状態がどういうものなのか、僕には分からない。たぶん目が見えなくなったり、音が聞こえなくなったりするのとまったく同じ状態なのではないかと思う。それは身震いするほど恐ろしい事だ。
「じゃあ、飲んで忘れろよデブ!」
 シリウスが腹の立つ事を大声で朗らかに言う。これで慰めているつもりなのだから、どうしようもない。
 けれど不思議と、どこかほっとするような気もした。
 僕達はもう一度乾杯をした。









「幸福について、最近俺は考えるんだ」
 シリウスは今日も精一杯汚い格好をして座っていた。でも相変わらず舞台役者が貧乏人の役をやっているように見える。
「幸福について考える前に人妻と別れるのが先決だよ」
 と僕が言うと、彼はうるさいとか何とか文句を言ったが、機嫌の良さそうな笑顔はそのままだった。本来の彼はそれがいくら的確でも、他人からの忠告は鼻で笑って無視するタイプだ。僕は何度か、シリウスがガールフレンドや年配の人からのアドバイスを、あの貴族階級の人がやるような眉をちょっと顰める表情で退けるところを見ている。でも彼は、僕とジェームズ、リーマスに叱られたり助言されたりすると、まんざらではなさそうな顔をするのだ。そのあたりが、少し犬めいていておかしい。
「お前等はいま、幸福か?」
 シリウスの問いかけに、ジェームズが何かを言いかけ、同時にリーマスはジョークを言いかけた。声がかぶって聞き取れなかったが、リーマスは「ヒモ」という不穏当な言葉を口にしていたように思う。2人はお互いに譲り合うジェスチャを見せ、結局はジェームズが口を開いた。シリウスは「後で個人的に聞こう。リーマス」と小声で言う。
「幸福の話をするにはメンバーが不向きだと思うけど」
 ジェームズは頬一杯に肉をほおばっていたので実際はもっと不明瞭な言葉だったのだが、まあこんな意味だろう。
「どうして」
「僕達はサンプルが特殊で対比が難しい」
「え?そうか?」
「例えばリーマス。君は幸福かい?」
「ああ、うん。幸福だよ」
「それはどうして?」
「休みの日に天気が良くて、読んでいる本が面白いと、ああ幸せだなあ…と普通に思うけど。それから毎晩眠るときにこれから眠れるなんて幸せだと思う」
 僕とシリウスは額に手を当てて天を仰ぎ、うめく仕草をした。
「そしてピーター、君は幸福か?」
「え……?突然言われても」
 分からない。でも、リーマスの言うように休みの日に天気が良くて本が面白くても僕は幸福を感じない気がする。そもそも僕には読書の習慣がないし。
 幸福って何なんだろう。お金?地位?だったら僕にはシリウスのような財力や美貌や、ジェームズのような才気はない。リーマスみたいに日常の小さな事に幸福を感じる感覚すらない。
「丸・三角・バツで例えるなら?」
「三角かな……」
 なんだよ三角って、とシリウスが不思議そうな顔をしている。
「ちなみに僕は幸福だが、僕がどうして幸福か、その幸福論に付いてはぶっ通しで語って20時間くらいかかるので割愛する。明日は仕事のある日だしね」
 ジェームズはつるりとビールを乾して、次のやつを注文した。
「ただひとつ言えるのは、幸福というのは物質ではない。状態だ」
 ああ、それは以前ジェームズから聞いた事がある。学生の頃だったろうか。
「幸福を追求しすぎると、人は不安になって不幸になる。呼吸のリズムを意識すると、訳が分からなくなって苦しくなるのと同じだ」
 参考になっただろう王子?と問い掛けるジェームズに、シリウスは全然、と首を振っている。その横顔を僕は見る。
 ブラック家の資産を継承し、美貌に恵まれ魅力に溢れ、出来ない事は何一つない彼だが、でも見た目通りの華やかで幸福な人生を四六時中やっているのではないのかもしれない、と僕は思っていた。
 以前、シリウスと少しの期間一緒に暮らした事がある。
 当時の彼は1週間に2度は自分の部屋に女の子達を呼んでパーティーを開いていたのだが、あまりに騒ぎすぎたので大家に追い出されてしまったのだ。新しい住居が決まるまでの間、ということで彼は僕の部屋に転がり込んできた。3週間くらいだったろうか。
 彼との同居は楽しかった。
 彼は生活が終始滅茶苦茶な男で、帰宅時間が一定しなかった。朝に帰ってきたと思えば1日中寝ていたり、3日間帰ってこなかったりする。けれど、シリウスのすることは全部遊びみたいで、なんだかドキドキした。突然テーブルに一式揃えた上でフルコースを作って夕食をしたり、サンドイッチとシャンパンで床に敷物を敷いてピクニックをしたり。夜中に起こされて2人でポップコーンを作った事もあった。朝日が昇る頃、無人の道路を彼のバイクで飛ばしたこともある。マグルの競馬も教えてもらった。
 忘れっぽくって時に短気で八つ当たりもされたし、酒臭くて閉口したこともあったが、シリウスには天性の遊びのセンスがあって、彼と一緒にいると何でも楽しかった。
 夕方僕が仕事から帰ってくるとシリウスがテーブルでビールを一杯やっていて、今日あったデートでの出来事を物凄い勢いで話してくれる。その話がまた起承転結があって、面白くて、僕は笑いすぎてスーツのボタンが外せなくなる。それで彼は朗らかに言うのだ。「ようデブ!夕食がまだならこれから町へ一緒に出ないか?」と。
 けれどどうしてだろう、あんなに忙しそうにしていて、あんなに笑っているシリウスなのに、その日々に彼が満足しているように見えなかった。
 夜明けに窓の外を見ている、ぼんやりとした表情を見たからかもしれない。ごく普通の独身男性の部屋に、突然孔雀が降ってきたみたいな違和感のある美しい顔。でも彼は放心していた。老人みたいな目で。
 それとも彼がガールフレンド達の話によく使う、「どうでもいい」という形容詞のせいかもしれない。1人でバイクに乗る時のどうしようもない乱暴な運転のせいかもしれない。後先を考えないお金の遣い方や、全然身体の事を考えない生活習慣が悪いのかもしれない。ともかく僕は、シリウスはリーマスやジェームズ程には安定していないのかもしれないなと思った。上手く説明は出来ないのだけれど。
 あれから彼なりに色々考えたのかもしれない。一生今の状態で無茶な遊びを続けるのもいいかもしれないが、僕達だって年を取るのだ。シリウスが幸福について見つめるのは良い事だと思う。
 そういえば、今日も僕はまた仕事上で酷い失敗をして、上司は怒り狂った。今夜はその愚痴を皆に言うつもりだったのが、シリウスの話ですっかり忘れていた。まあいいか。
 もう一度乾杯しよう、シリウスの幸福に。と僕が言うと、シリウスを除く全員が賛成した。









 店の前の道路に、路上生活者が座り込んでいた。汚れて縮んだ海藻のような姿をした、完璧な浮浪者だ。
 中に入ると、リーマスはもう席にいて一人で飲んでいた。彼は不思議に何をしていても満ち足りていて楽しそうに見える。僕はちょっと笑い、いつものビールなのに君が飲んでいるとものすごく美味しそうだと言った。そしてさっそく1杯注文する。
 路上生活者からの連想で、僕は不景気の話をした。職がなく家もない人だっているんだから、少しぐらい仕事が大変でも文句を言ってはいけないね、と言うと、彼は心配してくれた。本当は明日からでも転職先探しを始めようとしていたくらいなんだけど、リーマスには大丈夫だよと笑って見せる。
 そこへジェームズが現れた。
 その日はリリーがエヴァンス家の資産相続権をすべて放棄するという書類にサインをする日だった。ダーズリー家を訪問して、その帰りに妻子連れでこの店に寄ると言っていたジェームズはしょんぼりと1人だった。
「何かあったんだね」
 リーマスと僕は同時にそう叫んだ。ジェームズのしょんぼり度合いときたら肩を床に引きずりそうなくらいだったからだ。彼をここまで落ち込ませるのはこの世界にただ一人、赤毛の女神リリー・ポッターしかいない。
 ジェームズは脱いだコートを丁寧に8つ折りにしてその上に座った。心ここにあらずといった様子だった。僕達が彼の為に注文したビールを、まるで女の子のように1口舐める。
「出て行けって言われ……」
 そう絶句すると彼は眼鏡をはずして(リーマスがそれを受け取った)涙をぬぐい始めた。
「やっぱり先月僕らが止めた通り、君は留守番をしていた方が良かったんじゃないかな?」
 リーマスが最早なにがあったとは尋ねずに彼のくせっ毛に手を置いて優しく言う。
「だって、リリーを1人で行かせたら、彼女はどんな無礼な目に遭っても耐えてしまう!そしてそれを僕には話してくれないんだもの!!そんなのは嫌だ!僕は嫌だ!」
 ジェームズは頭の上に置かれたリーマスの手に、更に手を重ねて駄々をこねた。そう、まさに子供のやるようなやつだ。
「彼女がそうするのは、それは君のためだからだよ」
「僕はそんな信頼するに足りない男なんだろうか?」
「君は怒る自分が嫌いだろう?リリーはその辺をよく知っている。彼女は君に楽しい生活を送ってもらいたいんだ」
「そんなのは御免被る!楽しい目ばかりじゃ嫌だ!彼女と一緒に侮辱されたい!不愉快な目に遭いたい!」
「ジェー……」
「ああそうさ!僕は変態だ!さあ、僕を変態って呼ぶがいい!」
 とうとう彼はわっと泣きだした。全然驚くにはあたらない。彼はこういう人格も持っている。いや、人格の多さで何かを散らしているのだ。
「そもそも聞いてくれ君達よ!」
 ああ、聞きましょうとも大将。僕とリーマスは歳月に培われたコンビネーションで同時に頷く。
「杖は最初からリリーに取り上げられていた。絶対騒ぎを起こさないという約束までさせられた。ねえ彼女はそんなにまでしてあの骨と玉の夫婦に気を遣って、どういうつもりなんだろう。僕より彼らを愛しているんじゃないかしら」
「違うよ、彼女は自分が結婚した男性が紳士だって、ダーズリー家の人々にも知ってほしかったんだよ」
「僕はお釣りが来るほど紳士だよ!発芽しそうなくらい紳士だ!漏れてしまうくらい紳士だ!」
「知っている。僕達と彼女は知っているが、ダーズリーの家の人はそれを知らないだろう」
「ダーズリー家の人達だって?彼等は僕が紳士である云々以前に紳士そのものを知らないよ!」
「いや……」
「僕はブタ相手にシルクハットをかぶってお辞儀しようとは思わない。それが紳士じゃないというなら、残念ながら僕は違うんだろう。だいたい家の玄関を入ってから挨拶をして、食事の席につくまで、ずっと金の話だ。この前あれを買ったとか、取引で幾ら儲けたとか。あんまり長く続くものだから、僕を会計士か何かと間違ってるんじゃないかと思ったくらいだ」
「あー、そうなのか」
「その話が済んだら、次は誰それの食事会に招かれたとか一緒にゴルフに行ったとかそういう話だ。そこであった面白い出来事が語られるかと思ったらそうじゃない。それで終わりなんだ」
「へえ」
「リリーは僕の聞いた事もないような優しい声で「まあ、そうなんですの」とか言ってるんだ。僕はダーズリー氏に決闘を申し込もうかと思ったよ。悔しくてクラクラした」
「申し込まなくて幸いだ」
「それはいいよ。始まって20分ほど経ってからだけど、ああ自慢話だったのか!って気付いたから」
「随分遅いな」
「問題はその後だ。ダーズリー家は決して困窮している訳ではない。訳ではないが、そちらのような特殊な家には普通の財産の管理は煩わしいだろうから、それを肩代わりする、つまりは親切だと彼は言うのだね。そして後々若い世代に管理させるにしても、ハリーには荷が重い、奴等の息子の百貫デブが適任で―――」
「その子供にも何か名前とかあるだろうに」
「とオヤジが言いかけたとき、何故か横にいた親族とかいう触れ込みのこれまた表面積が一番狭くなる形にデザインされた女が言ったんだ『犬でも、親が悪いとどこかおかしな子犬ができる』って。『特に母犬が悪いとそうなる』って」
 なんて馬鹿なマグルなんだ!!!
 僕とリーマスはテーブルに載せていた手にぎゅっと力を込めた。そのマグルの女も(表面積が一番狭いって……球形?そんな人間いるんだろうか)ジェームズに皮肉を言いたいなら、彼自身を雄犬に譬えるくらいにしておけばいいものを。そうすれば、せいぜい玄関を出るまで犬の鳴き真似をやめない、程度の報復で済んだのだ。
 ジェームズは沈黙した。そしてにっこり笑った。それがまた心底怖かった。
「そうだね、杖は取り上げられていたから。僕はテーブルによじ登って、紳士なら決してやらないような事……いや、頭のまともな男なら決してやらないような事をやった。ヒャッハーとか何とか奇声をあげながらね」
 無言でやると怖いから、とジェームズは言ったが、奇声を上げたって怖いものは怖い
「彼等はしばらくオレンジパンチを飲めないと思うよ。というかパンチボウルに入った飲み物全般」
「まあ……でも君はパンチはおろかあらゆる飲み物を自宅で飲めなくなった訳で……」
 リーマスが小声で言うとこれまでの悪魔的な微笑みはどこへやら、彼は綿の抜けたぬいぐるみみたいな様子になってくったりとテーブルに頭を伏せる。
「もう僕は駄目だ……リリーは僕を捨てたんだ。ああ、僕はこの場で朽ちて塵となるだろう……」
「店に迷惑だからやめなよ」
「胸が張り裂けてもう何をする気力も起きない。息をする力もない。トイレに行きたいけどそれすら面倒だ」
 行って来い!とリーマスと僕とでジェームズの襟首を掴んで立たせる。それでも彼はまだくすんくすんと泣いていた。
「あれ?ジェームズ、背中に何かついているよ」
 リーマスが彼のセーターの背を引っ張ると、小さな紙切れがかさりと鳴った。店に入って来たときにはコートを上に着ていたので見えなかったが、それはメモのようだった。
「本当だ。何か字が書いてある。えーと『仲良し会に参加の紳士の皆さま、お勤めお疲れ様。明日になったらこの野良鹿を送り返して頂戴』リリー。……ええと、よかった、ね」
 ジェームズは蕁麻疹のできたカニみたいになって背中を引っかき、メモを剥ぎ取った。黒目が何度が上下すると、今度は奇声を上げて僕とリーマスを渾身の力で抱きしめる。
「ありがとう君達!!」
「いたたたたた……いや、何もしてないから!」
「おめでとう僕!!」
「苦しい!苦しいからジェームズ!うん、おめでとう。で、トイレに行ったら……?」
 息も絶え絶えにそう言うと、ジェームズは渋々抱擁をやめてくれた。リーマスと僕は3歩下がって彼と距離をとる。
「じゃあちょっとパンチを足しに行ってくる」
 とジェームズはウィンクして去って行った。僕とリーマスはしばらく考えてげんなりした。








 ジェームズはいつも通りに笑いながら食事をしている。
 リーマスもいつも通りに飲んでいる。
 でもテーブルにはびりびりと緊張が走っていた。僕はこういう場合どうしたらいいんだろうと胃の痛くなる思いで当り障りのない話を続ける。2人が酒に酔う体質だったら良かったのに、残念ながら2人とも、特にジェームズにとって酒は血行を良くする効果しかない。
 ジェームズは激しく怒り狂っている。僕達にはそれが分かる。
 アンブリッジというカエル顔の役人が、とある法令を制定した。そのニュースが今日新聞に載ったのだが、その法令のせいで自動的にリーマスは職を失い、今後もあまりまともな職には就けそうにないことが決定した。
 ジェームズが真剣に怒ったところを、学生時代3度ほど見た事がある。
 一度は僕がいじめに遭って骨折したとき、一度はリーマスの秘密が暴かれたとき、一度はシリウスの親族に対してだった。
 最初のうち、恐ろしい早口でジェームズは幼い頃に読んだ童話の暗唱を始める。
 『チムとラムとタンプは3匹のこぶたのきょうだいでした。きょうはいちばへおかいものです。チムとラムとタンプのこうぶつはまっかなひつじのにくとなつめとほしぶどうですチムはいいましたねえにいさんきょうはひとつぼくにさいふをまかせてくださいなラムはいいます』
 その表情と口調の壮絶さは、悪魔を呼び出す時の呪文もかくやという、鬼気迫るものだった。僕は時折このジェームズの唱えていた童話の夢を見る。あの白白と冴えた彼の瞳の光を。
 それでも怒りが収まらないと彼は次第に震え始める。自分の肩をしっかりと抱きしめて。
 性癖で、怒ると僕は感情が制御できなくなる、と彼は言った。
 出会った者は怒りの対象であってもなくても、その人間の一番望まないことをやって滅茶苦茶にしてやりたくなるんだ、そう言ってジェームズは部屋から出て行き、1日戻ってこなかった。
 リーマスの秘密を暴いて僕等を陥れようとしていたスリザリンの生徒は、ホグワーツを去った。僕は彼等がどうなったのか、積極的に知ろうとは今も思わない。
「もともと沢山働くのは苦手だしね」
 と急にリーマスが言った。いつもののんびりした口調だった。社会的な保証が、人権が、失われるかもしれないのだ。僕だったら不安で不安で、友人に会って食事をしようという精神状態には到底なれないだろう。でもリーマスは違う。「いざとなったら山に入って自給自足で生活するよ。たまに君達が遊びに来てくれたらそれでいい」子供の頃からの彼の口癖だ。
「君は昼寝をしないと体調が優れないからね」
 ジェームズがのんびりと返事をする。けれど普段の彼とは決定的に違う。目の色が、声の温度が。
 昔に比べたら、彼は完璧に自分の怒りを押し隠す術を身に付けている。でも僕達には分かる。彼の腸は煮え繰り返っている。
「ジェームズ」
「僕は落ち着いているし、正気だよ。馬鹿な真似はしない」
「…………」
「という話をしようとしたのではないの?それ以外の話だったら腰を折ってごめん」
「うん、まあ……君の言う通りだ。でも……」
「リーマス、君の態度を僕は尊敬する。君が友人でよかったと思う。この話はこれでおしまい。だから何か楽しい話をしよう」
 彼は決定を覆さない。この話は終わりなのだ。そして彼は馬鹿な真似はしない。けれど巧妙で残酷な事をするだろう。リーマスはそれを止めたかったのだ。しかし例え僕達でも、ジェームズが1度やると決めた事を止めるには彼を殺すしか手はない。
 なんだってこんな時にいないんだろう。シリウスの奴は。
「シリウス……」
 僕は思わず呟いた。彼がここにいれば、もう少し救いのある話になったかもしれなかったのに。
「そういえば、今日もとうとう入ってこなかったね」
 リーマスはきょとんとした顔でシリウスのいない空席を見る。前回の集まりも結局姿を見せなかった。
「そろそろアレの時期だったか」
 ジェームズは先刻までの気持ちを切り替えたのか、パチンと手を打った。僕達は目を見交わして嘆息する。
 来ないのも納得だ。彼には持病があったのだ。
 シリウスは秋頃になると段々と塞ぎがちになり、そしてやる気がもげてしまうという癖があった。二十歳を過ぎた辺りから毎年そうだ。
 常日頃は喧しいくらい元気な男なので、その落差は何というか痛々しい。
 数年前など、篭城するシリウスの自宅のドアを杖で吹き飛ばし、スナックやジャンクフードの屑で埋まった彼を掘り起こし3人でそこから救出したくらいだ。
 彼は最初のうちはふにゃふにゃと虚ろな目で文句を言っていたが、僕とリーマスとジェームズが交代でなにくれと世話を焼いているうちに正気に返った。
 僕も大概自分を落ちこぼれ社会人だと思うのだが、シリウスは僕とはレベルの違う脱落者のような気がする。彼は類稀な美形であったり、ジャンルを問わず有能で、何をやらせても他者の追随を許さないが、しかし欠点も破壊的だ。こんな僕でも同情する。
 今日もシリウスが姿をあらわさなかったら、一度家を訪ねてみるべきかもしれない。と僕は思った。もし、毎年の秋の症状で酷く落ち込んでいたとしても、リーマスの窮状を知ればきっと怒りのあまりそれを忘れるだろう。彼はそういう男なのだ。
 その日、深夜まで3人で待ってみたのだが、何時になってもシリウスの現れる様子はなかった。








 あれからしばらくして、ニュースはアンブリッジの失踪、発見を伝えていた。彼女は精神に異常をきたし、到底復職は難しいらしい。新しい法令もマクゴナガルとダンブルドアの働きかけにより、見直しに向けて進んでいるところだ。その件に関してジェームズは何も語らない。
 数日前僕はシリウスの部屋を訪ねたが、合鍵で入った部屋は無人で綺麗に片付いていた。どうやら彼はしばらく家に戻っていない、そんな気がした。
 僕もジェームズもリーマスも、戸口をちらちらと窺う癖がついてしまっている。でも僕達は相変わらず飲んでいた。
「実はこの前から転職を考えているんだけれど」
 僕がとうとうそう言って、ジェームズとリーマスは固まってしまった。
「2人はどう思う?」
 友達に仕事上の相談をされるのは初めての体験だ、とジェームズはハムスターのようにモグモグ口元を動かして言った。「僕はあまり一般的な職に就いた事がないから、頓珍漢な回答をしてしまうかもしれないけど」と指を擦り合わせている。どうやら緊張しているらしい。
「えーと、そもそもピーターはどうして仕事を替えたいの?」
 と、こちらも緊張しているらしいリーマスに聞かれて僕は一生懸命説明した。失敗ばかりしてしまう事。そのたび周囲の人を酷く怒らせてしまう事。劣等感に捕われて益々袋小路に入ってしまう事。そもそもこの仕事に向いていなかったと感じる事。
 僕は4人の中で一番話が下手なので、起こった出来事の説明も順番が滅茶苦茶だった。同じ話を繰り返していると途中で気付いて慌てて元に戻ったり、どうにも言葉が出てこなくなって黙り込んだりもした。それでもジェームズとリーマスは熱心に頷いてくれた。そして真剣な顔で考えてくれている。それだけで励まされる気持ちがして涙が出そうになった。
「君は役に立っていると思うけどな」
 ジェームズが両手を打ち鳴らす。
「君は就職したてのころ、凄い業績を上げたじゃないか。みんな君には一目置いている」
「そんなことないよ。あのプロジェクトは後で失敗だったって話になったし」
「あの仕事は君にしか出来なかった。そうだろう?」
「うん……それはそうなんだけど。それにしても良く覚えているねえジェームズ」
「自慢だったからね」
「……ありがとう。でもね、いまは駄目だ。今の僕は無駄なんだ」
「組織を構成する上で無駄な人間なんかいないんだよピーター。必ずどこかのパーツにきっちり収まるようになっている。そらへんのパズルを上手に嵌めるのが、給料を余分に貰っている「管理職」って人々の役目なんだが……どうもピーター、君の職場の偉い人達は仕事の手を抜いているようだ」
 ジェームズはぴんと指を広げた両手を合わせて、落ち着いた声でそう言う。子供の頃からの習性で、僕は彼のこの声を聞くと盲目的に何でも信じてしまう。何しろジェームズは神のように自信に満ちているから。彼は僕達に嘘を言わないし、嘘を言った場合は後で現実にして見せた。
「ジェームズが言うと、そんな気がしてくるよ。これも洗脳かい?」
「そうかもしれない」
「でもどうして?どうしてジェームズはそんなに僕達の為に惜しまず尽くしてくれるの?本当はジェームズは凄くものぐさで非人情的なのに。僕は知っている」
 ものぐさとは言ってくれるね。と愉快そうにジェームズは笑った。
「僕は僕の友人が貧乏くじを引くのをよしとしない。ズルをしてでも取り返したくなるんだよ。これは性分で、もう治せない」
「新興宗教の教祖様になれば成功間違いないのにね」
 とリーマスが優しく言う。
「不特定多数の人間の運命なんか、僕は関与したくないよりーマス。で、ピーター、騙されたと思って1ヶ月そのまま働いて御覧よ。また何か変わるだろうさ」
「うん……。君がそう言うのなら」
 僕のこのジェームズへの気持ちは、友情というよりいっそ宗教と言った方が相応しいかもしれない。それくらい僕は彼を盲信している。
 僕は?いや、僕達は、だ。
「シリウスも、行方不明になってないでここに来ればいいのに。ジェームズに相談に乗ってもらったら一挙解決しそうなのに」
 僕がそう言うと、ジェームズとリーマスは妙な顔をした。
「行方不明?シリウスなら毎回いるじゃないか」
「え?」
「気付いてなかったの?ピーター」
「いるってどこに!?」
「店の表」
 不思議そうにこっちを見る彼らと、混乱してきょろきょろする僕の目がかち合った。そして漸く僕は合点がいく。
「店の表……?あっ!もしかして浮浪者!?」
 浮浪者、ではなく僕が浮浪者だと思い込んでいた小汚い男の姿が脳裏に蘇った。伸びた髪と髭で顔は良く見えなかった。顔さえ見えていたらそりゃあ僕だって見間違えたりしない。彼は酒瓶を横において、俯いて小さくなっていた。
「じゃあどうして声を掛けてやらないのさ!」
「掛けたよ」
 聞けば毎回ジェームズとリーマスは店の表に座り込んでいるシリウスに挨拶して入ってきたらしい。そしてよければ中に入れと声は掛けたらしい。一応。
 こういう場合は無理にでも店の中に引っ張りいれるのが友達じゃないのか?そう言えばジェームズとリーマスはこちらが助けてほしいという要請をすればとても親身になってくれるが、そうでない場合はとてもワイルドに独立独歩を貫く男だ。もう今更言う気もしないが、普通の感覚を持った人というのはこのグループには存在しない。強いて言えばそう、僕くらいのものだ。
「可哀相じゃないか!!」
 僕は慌てて立ち上がり、走って行ってドアを開けた。
「シリウス!!」
 一度雨が降ったのか、地面はタールを塗られたみたいに光っていた。人々の白い吐息が、人間に付き従う白い精霊のように長く尾を引いて通り過ぎていく。夜の町を行く人達。ゆっくりと、或いは急ぎ足で。彼等が楽しんでいるのか疲れているのか、僕には分からない。
 誰もシリウスに注意を払っていなかった。ゴミの如く彼はただ座っていた。あんなに何もかも秀でて美貌に恵まれ皆にちやほやされていた彼が、と思うと変に涙が出そうになる。
「シリウスってば!何をしているのさ!」
 僕が大きな声で言うと、通行人が驚いてこちらを見た。肝心のシリウスは俯いたまま、ちらりと片手を上げる。
「中へ入ろうよ!もうすぐ注文したアイリッシュシチューが来るから!」
 シリウスは首を振る。伸ばしっぱなしの黒髪も揺れた。まるで脱獄犯だ。
「ていうか凍死しちゃうから!」
「……から……」
「ええ?」
 しばらく喉を使っていなかったのか、ごろごろと絡んだ声を彼は出した。あの美声は影もない。
「酒を飲んでいるから、大丈夫だ」
「それ違うだろ!それ違うだろうシリウス。そんな所に座っていて、一体どこの誰が喜ぶのさ!」
「……中は明るいから嫌だ」
「ムササビか何かか君は!じゃあ家に居ればいいのに……」
 と言いかけると、シリウスが目を逸らしたので気付いた。ああ、シリウスは僕達の顔を見たかったんだ。だからここに座っているんだ、と。
 うずくまっているシリウスは小さかった。足が長いから、畳むと小さくなるのだ。普段は無駄に身の丈が長い彼なので、こうしていると無力で哀れな別の何かに見える。
「だったら僕達を外に呼べばいいじゃないか。そしたら君の話だって聞けた」
「格好悪いだろう、そういうの……いつも俺ばっかり……」
 シリウスはウィスキーの瓶から直接酒を飲んだ。完璧主義の彼らしく、一番安物の酒だ。あんなものをラッパ飲みして、明日どんな状態になるのか僕は考えたくもない。
「え?それってどういうことさ」
 僕は背後のジェームズとリーマスを振り返った。何となく口を挟もうにも挟めない気持ちらしく、兄弟喧嘩を前にした父親と母親みたいな顔をしている。
「お前達はちゃんと大人みたいに生活している」
「シリウスだってしてるだろう。ていうか臭いよシリウス」
 「風呂に入っていないからな」とシリウスはあっさり言う。彼からは限りなく浮浪者にそっくりな臭いがした。けれど、彼愛用の香水の匂いも少しだけした。妙なハーモニーだった。
「……お前達はちゃんとしてるけど、俺はちゃんとしてない」
「いや、してるじゃないか。ちゃんと社交界デビューして、古い家の当主然としている」
「あんなのは適当だ。でたらめだ。違う」
「違うって」
「俺は変なんだ」
 どこかの店で、盛大に乾杯の唱和がされた。ごつんごつんとジョッキの当たる音がここまで聞こえてくる。
「大人になりたくない。お前達と遊んでいたいんだ。3日くらい寝ないでいたずらの準備をしたり、他の寮の奴らと戦争したりしたい。1日こんなことがあったと寝そべりながら報告し合いたい」
 突然シリウスは少年の頃とまったく同じ激しい調子の独白をした。ぎょっとするくらい彼は変わっていなかった。卒業して以来、彼がこんな喋り方をする所を一度も見ていなかった。成長したのだと思っていたが、違ったのだ。
「家で暮らしていると、皆が俺を大人みたいに扱う。大人だけど。そうすると俺は色々なことが出来なくなる。もう窓から外へ飛び出していくのは変なのか?小便の飛ばし合いをするのは?悲しいときに泣いてはいけない?腹が立っても怒っちゃいけない!許さなくてはいけない!年寄りでも理解できるつまらないジョークを言わなければならない!うんざりだ!」
「でも」
「俺はずっとこのままでいるんだろうかと思うと時々気が狂うほど不安になる。どうして俺はいつまでも子供がするような事に執着するんだろう。でも他の奴らみたいに大人の真似がちゃんと出来ない。子供のままだ。お前達が手の届かない立派な人間に思える。でも俺には出来ない。駄目だ。大人になるのは嫌だ。詰まらないことばかりだ。俺は頭が変なんだ」
 彼のアニメーガスの形態、黒犬のイメージそのままに、シリウスは激しく吠える。でもぶるぶると怯えて、困惑して、助けを求めている。僕達に。彼は凄い奴だけど、でも時々壮絶に駄目な男だ。きっと一生こうなのだろう。でも何度だって僕達は彼を助ける。だって僕達は最高の仲間だから。僕は言った。
「うん、変だ、シリウス・ブラック。お前は変で、馬鹿で、そして臭い」
 僕は本心からの気持ちを素直に表現した。彼は変だ。何でも出来るくせに妙な事が出来ない。分かってない。そして困っている。
 僕は僕を説得するときのジェームズの話し方を思い出しながら喋った。
「何だって?」
「不安なのが君だけだなんて、思っているんじゃないだろうな!そんなの僕だって不安に決まってるだろう!何しろ君みたいに家柄にも才能にも美貌にも恵まれていないんだから!今すぐにホグワーツのあの僕らの部屋に帰りたいくらいだよ!」
「才能?美貌?」
「ほら、その程度のことも分からない!だから君は子供なんだ」
「いや、でも」
「この先が詰まらないなんて誰が予言した!まだまだ何が起きるか分からない!禁断の森を探険していた時と同じだ!もしかして僕達4人が敵同士になって戦うかもしれないんだぞ!」
「それはないだろうお前!」
 シリウスが勢いよく顔を上げた。そして僕はタイミングを逃さず、自分の空想癖を思うさま暴走させた。
「じゃあ、ジェームズが浮気してリリーに爆殺されるかもしれない。ハリーが大きくなって世界の救世主になるかもしれない。リーマスとシリウスが結婚する日だってくるかもしれないだろ!」
よっぽど驚いたのか、シリウスは切れ長の目をまん丸に見開いた。そうやっていると彼はもの凄く若く見える。
「それも……ありえないだろう……」
 背後でリーマスが真面目に「とりあえず申し込まれたら考えるけど……」と呟いている。考えるのか。断るんじゃなくて。
「100%ないとは言えない。だって僕達は大人だから結婚も出来る。明日から有休を取ってエジプトへ行く事も出来る!アラスカに行く事も!マグルの電化製品100個だって買える!エッチなショーにだって行ける。大人だから先生に叱られない!無制限の冒険だよ?分からないの?シリウス」
 シリウスは驚いたショックでか、しばらく黙ったままだった。それからちょっと笑って「エッチなショーは、確かにいいよな」と言った。「そう、鼻血も出ない。大人だから」僕は返す。ジェームズが吹き出した。
「まったくどういう頭してるんだよ。俺とリーマスが結婚だって?」
 ニヤっと笑うと、もうすっかり彼はいつもの僕等の友人シリウス・ブラックだった。強い目の光も元通りだ。
「ピーターの妄想が僕達の中で一番ぶっ飛んでいる。それは間違いない。ちなみにリーマスはお前との結婚も悪くないって」
 ジェームズは腕を組んで上機嫌だ。「考えると言っただけだってば」とリーマスが訂正してる。やれやれ、という表情でシリウスが2人を見上げていた。髭も髪も伸び放題、汚れていて色々臭かったが、ふざけている友人を見る彼の目は相変わらず優しかった。どこか頼りな気と言ってもいい。シリウスに教えてやったらびっくりするだろうけれど。
「立てよこの顔が取り得のヒモ男」
 僕はニヒルな口調でシリウスに手を差し出した。
「君なんかが口にした事もないような美味いビールを店の中で奢ってやるからありがたく思え」
 それは冷えているんですかい?だんな。とシリウスは下手くそな貧乏人の真似をして、手を合わせる。
「ああ、冷えているとも。ジョッキに露が浮くくらい」
「あんたは最高だ。ペティグリューのだんな!」
 そう言って、シリウスは素早く立ち上がり僕を抱きしめて額の辺りに派手なキスをした。ぶちゅっと音がしてリーマスは笑い、ジェームズは拍手をしている。
 僕は大げさに悲鳴を上げ、服の袖で顔をぬぐった。
「そんなに嫌がることないだろう!」
 とか、真剣に言っている。まったくシリウスときたら幾つになっても子供のままで、仕方のない奴だ。いかれてる。
 でも、こっちを見て優しい顔で笑っている。
 ほんとうに。
 君みたいないかれた奴は一度アズカバンにでも入獄するといいよ。僕は言う。皆が爆笑した。




 あれ?でも、君はもうあすこに入ったんだっけ?
 考えるがよく分からない。僕はよく空想と現実を取り違えるから。
 
 ジェームズが僕の名を呼び、何を注文するかを尋ねている。
 僕は店に戻る事にした。大切な仲間と、冷えたビールが待つ暖かい店に。
 ああ、人生に必要なものは実はそう多くない。真の友人と、冷たいビール、それとほんの少しの想像力。それさえあれば、僕はこれからも幸福に生きていけるだろう。 
 『幸福というのは物質ではなく状態だ』
 まさにその通りだジェームズ。君のいう事はいつだって正しい。




















このお話は20万ヒットのリクでして
リクエスト主、石崎様(今はじめて公表!)から頂いた
お題は「ピーターとシリウスがメインに出てくる可愛い話」でした。


「うん、まあ可愛い話だよね」
と思った方へのあとがき
(或いは長いあとがきが嫌いな方へのあとがき)

皆様ご存知の通り、ものすごく書くのに時間がかかりました。
自分への戒めの為に書いておくと、ええと1年。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい石崎様。
キリリクを書くのは初めてで、気負いすぎました。
お気に召すといいのですが。いいのですが…。





「え?これって可愛いどころか
真っ暗に陰惨な話じゃないの?」
と思った方へのあとがき(一応反転)。

ごめんなさい石崎様!
可愛くねぇ!
可愛くねぇよ!
(いや、オチに目をつむれば何とか……。こ、こわいい話……?/だめだろうそれ)
駄文にある一連のお話と、パラレルでは「ありません」。

現実にあった事を、自分の都合のいいように脳内修正するのは、人間なら誰だって
無意識のうちに少しはやっていると思います。それの多い少ないはまた別として。
ピーター君はそれが常軌を逸して多い人なんでしょうね。
彼が小説を書いたら、案外面白くて怖い幻想小説が出来るかもしれません。
そして人間は脳内の設備さえ整っていれば勝つ事は出来なくても、決して負けることはないのです。
明るい意味でも暗い意味でも、想像力さえあれば幸福に生きていけるのです。
(非常に興醒めですが一応全年齢向けに書いておくと、話の始めにピーター君が
仕事に失敗したとき怒り狂って杖を向けてきた人は……現実世界の先生とシリウスです)

重複ですが、書くのにすっげ時間がかかりました。
(書いているうちに30万ヒットも40万ヒットも過ぎてしまっ…)
や、あの、「キリリクなんだよね……キリリクってやったことないけど、
こんなテキトーでいいの?てゆかこれ面白いの!?分かんないよ?」
とか思って、違う話にチェンジするというのを2、3回やりました。
「そもそも私に求められてるのってなんだろう……」みたいな、自分ラビリンスの建設に励んでしまいましたよ。(笑)

せっかくキリを踏んでくださった石崎様に悪い事をしました……。
うわーんごめんなさい。でも捧げます。もしよろしければ、受け取ってください石崎様(ボエム95話も一緒に)。

 
2005/02/20


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