笑い話


 居間に彼が入ってきた時、テーブルに並んで着席していた大人二人は目を丸くして「ハリー」とだけつぶやいた。しかしそれは仕方のない事だった。青年は何の連絡もなしにフルーパウダーで2階の暖炉から手前勝手に訪問し、自分の部屋を思う存分物色したあと、ようやく挨拶に降りてきたのだから。
「今まで2階に?」
「うん。前に来たときに忘れた書類が必要になってそれで」
「連絡くらい……」
「ただいま、先生」
 小言がルーピンの口から出る前に、ハリーは笑顔で彼を抱擁した。当然続きの言葉は世界のどこかへ消えてしまう。続いて青年は素早くシリウスを抱きしめた。ジャガイモの皮を剥いていたらしい彼は、慌ててナイフを下へおろす。
「ただいまシリウス。来週帰ってくる予定だったから、今日は会わずに行こうかと思ってたんだよ」
 にこにこと笑うハリーに、そんな事を言わないでお茶くらい飲んでいきなさいとルーピンが勧める。ハリーは椅子に座った。この家の居間は、一度腰を下ろしたら立つのが難しいくらい居心地が良い。どうやら今日はルーピンが読書、シリウスが芋の皮剥きをしていたらしい。ずいぶんと静かだったが、それはいつものことで彼等は何も会話をせぬまま、それでも2人一緒に自由な時間を過ごしている事が多かった。(「もしかすると僕には聞こえないシグナルで話しているのかもしれないけどね」とハリーは真顔で親友達に語ったこともある)
 ふと見上げると壁に2人分の礼服が掛けてあった。ハリーは瞬きをする。
「何かあった?」
「ああ、その服……そういえば1週間前にね」
 キッチンから返事がして、トレイを持ったルーピンが姿を現す。
「ブラック家に行ったんだよ」
「前に聞いていたブラック家の集まり?もう済んだんだ」
「そう。それが」
 そこまで言って、ルーピンは小さく吹き出した。
「何?何?」
「また思い出してしまったじゃないか……ぷっ……ああもう」
 ルーピンは自ら認める笑い上戸で、一度笑い始めると、この世の誰であろうとそれを止められない。トレイに載った陶器のティーセットが危険な音を立てた。
「先生、勿体をつけないで話してよ」
「だめだめ、ティーポットを置いてからだよハリー……」
 くっくっくっと心底おかしそうにカップを並べて、ルーピンはテーブルに寄りかかってひとしきり笑った。ハリーの目が益々輝いて、彼は小さく身を揺する。
 おそらくはシリウスの失敗談なのだろう。バツが悪いのか彼は顔を上げもしない。ジャガイモの皮がバケツに落ちるかすかな音がした。
「その日は朝から大変だったんだ」


 本家の嫡男が恐ろしい罪を犯し、そして例のあの人物から襲撃を受ける恐れが充分にあったブラック一族の人々は資産を凍結し、各地に身を隠していた。しかしシリウスの身の潔白が証明され、魔法界を脅かしていた原因が取り除かれてようやく彼等は晴れて集えるようになった。ブラック家本宅の門扉を打ち付けていた板は取り払われ、荒れ放題だった庭は人の手が入って見る間に元のシンメトリな状態に戻った。噴水の栓は開き、家具に掛けてあった全ての布は捨てられた。館の中に陽光が射す。
「どうして私が出席しなくてはいけないのか、どうにもよく分からないんだけど」
 その日の朝、ルーピンは揃えられた礼服とタイやカフスなどを前に呆然としていた。
「もう時間がないリーマス。まだそんな事を言っているのか」
 女性をエスコートして出席しないと変だよ、と彼は何十回目かのアドバイスを口にする。駅前の売店の女性の名や、村の中の若い独身女性の名、果ては1マイル近く離れた隣の家の主婦の名まで挙げられるに及んで、辛抱強く頷いていたシリウスは動きを止めてこう言った。
「黙って着替えるか、俺に着替えさせられるか、選んでくれリーマス」
 と。ルーピンは黙って新しいシャツに腕を通した。それを見守りつつ、友人の襟を直したり髪を撫でつけたりするシリウスの様子は幾分緊張気味のようだった。まさか、久しぶりに会う親族達を前に不安だから、それで自分について来てほしいのだろうか?とルーピンは思った。その時は。
 ブラック家のささやかなパーティーは、とてもシックで雰囲気が良かった。誰もが笑顔で、お互いの無事を心から喜んでいた。あちらこちらで抱擁が交わされ、涙混じりの歓声があがる。ルーピンは壁際で出来るだけ目立たないようにしながら、様々な年齢層の男女から声を掛けられて笑顔で答えるシリウスを見守っていた。

「それでそれで?それで終わりじゃないでしょう?何かあったんだよね先生」
 ハリーはとうとう辛抱できずに声をあげる。両手で包んだ紅茶のカップが傾いて、中身がこぼれそうになっていた。
「もちろんだともハリー」
 それをまっすぐに直してやって、ルーピンは悪戯っぽくウィンクをする。シリウスは相変わらず無言だ。


 彼がそれをスプーンで鳴らしたので、薄いカップが繊細な音を立てた。
 黒い髪をした彼。礼服によく映える黒。整った容姿と、幼い頃から叩き込まれた美しい姿勢。一時は一族の名を汚す宣告を受けたが、それを補って余りある栄誉を今のシリウスは手にしている。魔法界に彼を知らぬ者はいない。
 広間にいた全員の視線が彼に集中した。
 ブラック一族の皆さん、で始まる若き当主の挨拶。ルーピンはひっそりと微笑んだ。彼はこういう場面にこそ相応しい。優雅な物腰と張りのある声、理知的な言葉。
「ブラック一族の皆さん」
 彼がそう言って魅力的な笑顔でルーピンに手を差し伸べた。ブラック一族の皆さんと自分の間にどういう関係があるのか測りかねて首を傾げる友人に、シリウスは素早く彼へ歩み寄って手を取り中央へ導く。
 人々が好意的な笑顔で注目してくるのに気押されて、ルーピンは思わずシリウスを見た。笑顔ではあったが、かつてないくらい黒髪の友人が緊張しているのが分かった。
「彼の名はリーマス・ルーピン。僕の友人です」
 ルーピンは息を呑む。
 おそらくその瞬間、その場にいる人間の中で当のリーマス・ルーピンのみがこれからシリウスが何を言うつもりなのかを正確に理解した。どうしてここへ自分が連れて来られたのかも。何故シリウスが緊張していたのかも。
 そして彼は恥も外聞もなく友人を殴ってその場を走り去ろうかと真剣に吟味をした。いっそそうすれば良かったのだと、ルーピンは後で何百回も後悔することになる。

「僕は生涯のパートナーとして彼を選びました。若輩者の2人ですが、今後ともどうかよろしくお願いします」

 シリウスはその言葉の後、ルーピンの唇にキスをした。いままで交わした何百何千というキスの中で一番注意深く、丁寧なキスだった。軽く唇を合わせるだけの、けれど彼のルーピンに対する親愛の情が全て込められた接吻。これだけの数の人間に固唾を飲んで見守られてキスをするというのは、どういう気分がするのかをルーピンは初めて知った。そして出来れば一生知りたくなかったと強く思った。
 少しだけ残っていたざわめきが完全にやみ、まったくの静寂が訪れて彼の背を冷たい汗がつたった。「シリウスは今、とても酔っていて……」「彼はまだ寝ぼけていまして……」「余興をお楽しみ頂けましたでしょうか!」この場を取り繕う台詞が幾つか頭に浮かんだが、どれも無理があるようにルーピンには思えた。なので「よろしく」と背を伸ばして微笑むのが精一杯だった。そしてその後目に入るもの、耳にするものを意識的に彼は遮断した。ただ、大柄な婦人が床に倒れたのをうっかり見てしまったので、そのあと数日間ルーピンは悪夢にうなされる事になる。
 まるで御伽噺のラストシーンじゃないかと、心を落ち着けるため数をカウントしながら彼は空想の世界に逃避した。お城のパーティに呼ばれて王子様のキスを受けるプリンセス。せめてもう少し若ければ、いやそれ以前に性別が……などと魂の抜けた状態のルーピンをシリウスはあちらこちらと連れ廻して親族に挨拶をさせた。


 話が終わったあと、ルーピンはまだ笑っていた。しかしハリーの顔色は真っ青に変わっている。
 先ほどまでは、拗ねてうつむいているように見えていた義父が、実は恐ろしくて顔を上げられない状態なのだとハリーは気付いた。居残って100回ほどの「ごめんなさい」をノートに書き取りさせられた子供のような顔だった。
 青年は、ようやく察した。
 これは笑い話などではなく、自分は一種の懲罰に立ち会っているのだと。そもそも一週間前のパーティーに着ていった礼服が壁に掛かったままだという事からしておかしかったのだ。普段ならシリウスが片付けただろう。あれは見せしめに掛けてあったに違いない。
 全てにおいて機敏なハリーにしては随分と遅い。気付いた以上は絶対に巻き添えを食う気はなかったが、シリウスを擁護する気持ちもないではなかった。
 彼がこの問題に対して長い時間悩んできたのを知っていたからだ。
 ルーピンとの関係を世間に隠しておくのは、友人に対する手ひどい侮辱に他ならないと彼はずっと考えてきたようだった。
「そう、シリウスは本当に堂々としていた。言っても良ければまるで王のようだったよハリー」
(後日ではあるが、その瞬間の彼等の様子をハリーはそれぞれ別の口から聞く事が出来た。「その時のシリウスの顔は世界で一番保守的な人間でも、恥ずかしくて罵詈雑言を口に出来ないくらい高貴な様子だったよ」とルーピンは形容した。そしてその時のルーピンの顔は、過去一度も見たことがないくらい途方もなく動揺していたと別の機会にシリウスがハリーに語った。「あの顔を見られただけでも宣言した価値はあった。あとでどんな目に遭わされようと」と)
 常日頃ルーピンはシリウスに対して狂ったように寛容である。過失にしろ何にしろシリウスに陳謝する意志さえあれば、例え自分がどんな害を被ろうとも永遠にルーピンは彼を許すだろう。問題はシリウスの主義とルーピンの利害が真っ向から対立する場合である。その時2人の諍いが地獄的な展開をするのをハリーは嫌というほど体験してきた。
 そこでとうとう緊張に耐えられなくなったのかシリウスが机にナイフを置いて顔を上げる。
「人前で目立つのが嫌いなお前に、恥ずかしい思いをさせたことに関しては謝る。済まなかった、リーマス!」
 一気に大声でそう言うと、シリウスは物凄い勢いで目をそらせた。ルーピンはにこにこと首を傾げて、不自然でない程度の時間無言だった。
「君はどうしてそんなに青い顔をしているのかな?シリウス。私がさっきから一つでも怒ったかい?何か勘違いをしている」
「いや、しかし」
「私はいつだって君を愛しているよ。この前に一段とそれを実感したのだけれど?」
 そう言って珍しくルーピンはハリーの目の前でシリウスの頬に触れ、彼にキスをした。しかしシリウスの目が一杯に開かれ、唇が微細に震えているのをハリーは確かに見た。
 青年は溜息をつく。
 シリウスはいつでもこの調子だ。決して自分を曲げない。何度でも当たって砕けている。けれど、一見「無駄な努力をテーマにした馬鹿馬鹿しいコント」のような彼の行為ではあるが、ルーピン側に全く変化がないかと言えばそうではない。
 シリウスは気付いていないのかもしれないが。
 今もそうだ。シリウスは、その台詞を純然たる脅迫だと理解してひたすら身を縮めているが、ハリーはルーピンが半分は本心からそう言っているに違いないと思っていた。どうして自分には分かるのにシリウスには分からないのだろう、とも。
 ルーピンの笑顔の中に怒りはない。もちろん隠された怒りもない。あるのは沢山の愛情と、少しの戸惑いと、少しの混乱だ。彼だって困っているのだ、とハリーは予想する。
「ああ、そういう結論なら心配ないよね?じゃあ僕は帰るから」
「おい!ハリー!」
 悲痛な叫び声が起こったが構わずハリーは2人に背を向けた。

 まあそう、彼等以外の人間にしてみれば笑い話と言えなくもないかな。と階段を昇りながらハリーは考える。
 それもとても微笑ましい種類の。






元ネタは友人の家に遊びに行ったときに
突然何か芸をしたくなった私が、即興でコントをした劇を
ちょっと変えて小説化したものです。ええ、先生役=私
シリウス役=私、ブラック一族の皆さん=私、
ハリー=私で。
北島マヤin『女海賊ビアンカ』並みの大熱演でした。
……私の正気はともかくその時友人がゲラゲラ笑ってくれたので
タイトルは「笑い話」です。
先生がシリウスの礼節に負ける話。

この作品は耽美生活百科の木崎様と急遽
「文章決闘をしましょう」という事になり

「服装」
「刺激する(喚起する)」
「遺恨」

以上3つのキーワードをテーマに
1本書いたものです。あ、別に先方と
仲が悪いとか大喧嘩の最中とかいう訳では
ありませんので御安心を。

問題の木崎様の作品はこちらに直リン。
私もすぐに見に行きます。
楽しみ。はっはっはー。

ああ、それと決闘参加で駆け込んできて下さった
「山猫印」シマ様の作品と、
「サボテンの箱庭」シブ様の作品と、
「F e m i n i n」ハヤカワツカサ様の作品です。
「不眠の○」の三○様も日記にてチラリズム的に御参加…?
(一応伏せます。まるわかりながら)
乱闘です。殴り愛です。

2003/02/23



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