バースデーと贈り物3
誕生日の朝に目を覚ましたシリウス・ブラックは、そこが現実の世界でない事を速やかに察した。 なぜならば、見慣れた自室の窓枠が壁の中央からずれており、しかも微妙に床と水平ではなく、そもそも窓の外に景色というものが一切存在しなかったせいである。 この懐かしくも大味な造形は彼の親友にして恋人、リーマスルーピンの魔法によるものだった。しかしシリウスが人を愛するのは、水平垂直に対して几帳面であるという基準に因ってではなかった。もしそうだったなら、自分はセブルス・スネイプと暮らしていただろう。己の空想に己でぞっとしながらシリウスは窓の微妙な歪みを修正したいという欲求と戦った。しかし杖はあるべき場所になく、どうやら今は魔法は使えないというルールのようだった。 シリウスはおそるおそる階下に降りて食堂のテーブルに着席した。おそらくここで待てば、誕生日を祝福するなにかの出来事が起こるだろうと考えたのだ。 しかし30分が経ち1時間が過ぎて、シリウスは自分の見通しが甘かったことを認めない訳にはいかなくなった。そう、ルーピンの魔法、ルーピンの想像力はそういった分かりやすく親切な、平凡なものではないのである。 シリウスはため息をついて立ちあがり、家の中の検分を始めた。 魔法で作られた自宅は現実のそれと比べて、比率や位置や色や可動部分が随分違ったけれど、それでも一応似せてはあった。それから3時間かけて彼は淡々と家の中のものを1つ1つチェックした。持ち上げたり壊したり。最終的にはクロゼットの奥にぽっかりと空いた黒い空間があり、そこから脱出するのだという事が分かった。 やれやれ、と安心して彼が這い進んだ先にあったものは、左右の反転した自宅と、またもや位置の少しおかしい窓枠のある部屋だった。 昔から、ルーピンのセンスの不思議さには定評があった。寮で共に暮らし、愛好する娯楽小説も共有するものが多かったにも関わらず、彼が魔法で作り出す色や形は人と違ったし、語る空想の物語はかなり風変わりだった。しかしジェームズも、そしてシリウスも、平凡で良識的な彼と、ちぐはぐな一部分を愛した。 シリウスはその場に座り込んでしばらく休憩したのち、もう一度先程と同じようにこの左右反転した家屋の中を調べて回った。今度は3時間かけても何も見つからなかった。この家で目を覚ましてから、10時間ほどが経過しようとしている。もし少年の頃にこの奇妙な家の冒険にチャレンジさせれていたなら。シリウスは考える。自分はおそらく半分狂乱した状態で叫びながらこの家を破壊したに違いない。彼は親友にして恋人の影響で、慎重で粘り強い気質に変化した。それは周囲の誰しもが認めていた。 「ムーニーの魔法にはまったく法則がなくて滅茶苦茶なように見えるけど、でも実はちゃんと本人の好みや、昨日経験した出来事や大事な思い出が織り込まれているんだよ」昔ジェームズが笑って言っていたのをシリウスは思い出す。 「リーマスの好きなもの」 シリウスは思い立って黒犬に変じてみた。体の表裏が入れ替わるような感覚。 しかし4つの足が床に触れるや否や、彼は細長い顎をあんぐりと開きっぱなしにしなくてはならなかった。 なぜなら突如部屋の中央に体長3mはあるだろうグリズリーが出現したからである。 シリウスが床を蹴ったのと、グリズリーが恐るべき一撃を繰り出したのはほぼ同時だった。 どうして俺は誕生日に熊と戦っているんだろう……。 もっともなつぶやきだった。どうして「熊」なのかという点においては、シリウスは自分の問いに自分で回答する事ができた。数日前の夜に、2人で世界の動物と自然を紹介する番組を見ていて、その回では熊を特集していたからだ。 しかしなぜ誕生日に?という問いの答えは分からなかった。熊はそれはもうすこぶる強く、殴られると猛烈に痛かった。どこに噛みついても戦闘意欲を喪失せず、逃げると追ってきた。家の外には出られないようだった。そして熊に5回殴られるとなぜか最初にベッドで目を覚ますシーンまで逆戻りするのだった。シリウスは目を覚まして、クロゼットを通り抜け、熊と戦うのを10度ばかり繰り返した。体感的には24時間以上が経過していた。そう、体感的には。 現実世界ではどのくらいの時間が経っているんだろう。そして俺がこの不思議な魔法世界で目的を達成できなかった場合の救済措置はあるんだろうか……。シリウスは先ほどからなるべく考えないようにしていた恐怖の疑問についてとうとう吟味した。悪魔に囚われた時とは逆に、現実世界では時間が過ぎてはおらず、下手をするとルーピンが全く気付かないままシリウスはこの空間に何千時間も囚われるという最悪のケースも予想された。ルーピンは時々シリウスの能力を荒唐無稽なくらいに過大評価している節があった。光栄なことだと思いつつも、さすがにこの不思議ハウスからの脱出は無理ではあるまいかとシリウスが思い始めた頃、また一つシリウスは彼の言葉を思い出した。 「グリズリーとパッドフットが毛繕いをし合ったら可愛いだろうね」 全く同意できなかったので忘れていたが確かに彼はそう言った。なのでシリウスは誕生日に熊を舐めるという、おそらく世界でただ1人が経験するスペシャルな挑戦をしてみた。 幸いにしてそれは正解だったらしく、毛繕いをされた熊は先ほどまでの殺人パンチが嘘のように友好的になり、シリウスにバースデーカードをくれた。カードはルーピンの手書きなのだろう熊らしき茶色の幾何学模様と、多少犬に似た絵が描かれていた。 それからシリウスは2階の窓から椅子を投げ捨て、キッチンでクッキーを100枚焼き、暖炉で家具を燃やし、バスルームで大きなカブトムシを見つけた。居間の床を高速で闊歩する首のない鶏を捕まえた。床板をはぐと下からハリーが現れ、天井からハーマイオニーが顔を出し、ロンはベッドの下にいた。魔法で作られた彼等は笑顔で祝いの言葉を述べた。深く考えると頭が変になりそうだったので、なるべく思考せずに黙々とルーピンの作ったゲームをシリウスは進めた。過去の事が無性に思い出された。 このゲームは、おそらくルーピンならば比較的苦痛なしに終了できるに違いなかった。子供の頃から彼は忍耐に特化しており、その強さは超人的だった。何か月もかかるような恐ろしく面倒な課題が出された時、多くの生徒がその苦役よりは罰を受ける方を選択したが彼は挫けず1人でやり通した。ジェームズとシリウスは、数週間かけて作業を短縮する魔法を新しく作りだして教師や他の生徒に称賛されたが、2人はルーピンのどこかが麻痺しているかのような根気強さを尊敬し、少し恐れた。 ジャムを舐め、ピアノを弾いた。首のない鶏を麺棒で伸ばしてニョッキを作った。葡萄を踏んでワインを作った。フクロウを追いかけ回し手紙を奪い、縦笛を吹いた。鉄道模型を煮溶かしてコインを鋳造した。体感時間は50時間を越えていた。 とうとう彼は偽の家の食堂に到達した。心境的にはよろよろとした足取りで、しかし幸いにも肉体的な疲れはなかったので実際にはなめらかな足取りで、彼は食卓に着席した。部屋は暗くなっていたが、やがて眼を刺すような光が近付いてきて、それはケーキの蝋燭の炎だった。 ケーキを運んできたのは2人の少年。ジェームズと、シリウスだった。心なしか記憶よりもややふっくらとした子供っぽい顔立ちの自分と親友が、バースデーソングを歌う。2人の少年は理知的な目をきらきらと輝かせ、完全に同じリズムで歌った。親密な仕草で彼等は目配せをし合いコンタクトをとっている。双子のように、鏡像のように、表情や動きが揃っていた。ルーピンから見た自分たちは、きっとこんな風だったのだろう。シリウスは思った。 ルーピンの創造する世界に彼本人は登場しない。これは昔からそうだった。初めて会った少年の頃、または再会したばかりの彼とは違って、現在の彼には己を消し去りたいという欲求はおそらくない。彼はそれなりに人生を愛しており、楽しんでいるのをシリウスは知っている。自分がささやかながらその変化に寄与できた事をシリウスは誇りに思っていた。なので彼の作る世界に彼がいないのは、個性のようなものだと理解している。好きなものだけで構成された世界を、彼は外側からただ見ていたいのだ。 歌が終わって、シリウスはケーキの蝋燭を吹き消した。少年の姿をした自分に拍手されながら、シリウスは胸が痛むような気持を覚えた。 ルーピンの計画では、シリウスの体を食堂に運んで彼が仮想の家でのパーティーを終えるのを待ち、あちらの世界でケーキの蝋燭を吹き消したシリウスが目を覚ますと、そこには全く同じケーキがあって彼はそれを微笑ましく思う、という筋書きだった。 しかし目を覚ましてケーキを見たシリウスは、ルーピンの予想していたように笑ったり驚いたりはせず、まるで生き別れの恋人と10年振りに再会した男のような激しさで、ルーピンを抱擁した。 ルーピンは考えた。「これはゲームが大変面白く感銘を受けたという表現だろうか」と。とりあえず彼の背や腕をぽんぽんと叩いてみた。シリウスが笑ったのでルーピンの髪が一筋ひらりと揺れる。 「ともかく努力して難しくしてみたんだけど、どうだろう、1時間くらいは楽しめたかな?あるいは2時間とか」 シリウスが口の端を一瞬だけ持ちあげる、困った時に見せる笑い方をしたので、「どうやら30分ほどで解けてしまったらしい。彼はあの手のゲームが滅法得意だからなあ」などとルーピンは考えた。 なのでちょっとしたサービスのつもりで、彼はわざと平板な声を作ってこう言った。 「ここでゲームの第一部は終わりです。15分の休憩のあと第二部がスタートします」 シリウスの肩がびくりと揺れて、彼は青ざめた顔でルーピンを見返した。さすがのルーピンもその尋常ならざる様子に気付いて、すっかり事情を聞きだしてしまった。 シリウスが仮想の家で、熊に100回以上殴られたり、26回蜂に刺されたり、7回蛇を踏んだり、3回カブトムシを食べたりして、50時間以上孤独に奮闘していた話のおおよそを。 珍しく動揺して恥じ入りながらルーピンは何度も謝り、何か言い訳をしようとしたのだが結局なにも思いつかずに黙った。 シリウスもあまり有効な慰めの言葉が浮かばず、「ゲームは解けたからいいとしても、俺の誕生祝いを俺にやらせるのはサービス不足だ」とだけ言って彼の手を握った。 これが彼等の「魔のバースデー監禁事件」の全容であり、それから何年か過ぎたあとも、この事件の話になるとルーピンは罪悪感で挙動不審になったので、シリウスは時々その表情を見るために事件を蒸し返した。 少しまだらに赤らんだ親友にして恋人の頬を見ながら、終わってしまった今となってはあれもまた悪くはないプレゼントだったなと、シリウスは後に懐かしく思い返した。 シリウス誕生日おめでとう! ルーピン先生がゲームクリエーターじゃなくてよかったな…という話。 ユーザーが救急病院に搬送されて話題になりそう…。 すごいストレスかかりそう…。シリウス強い…。 2017.11.03 |