日本AS友の会副会長 M
女性部長をさせていただいていますMです。よろしくお願い致します。
いろいろ思うことがあり、ここ数年、
芸術療法やカウンセリングの勉強をしています。
自分の過去を振り返り、整理をする機会が何度も与えられます。
その度に思うことは、「AS友の会」が無かったら、
そして出会わなかったら、私はどうなっていただろう、
ひょっとすると未だに治療方法と生きる意味を求めて
人生を彿径っていたかもしれません。
そう考えると新しく正しいAS情報や
同じ病気を抱えながら生きる仲間のことを知ることができて、
先輩の生きる姿から多くを学べる「AS友の会」は、
ほんとにありがたく素晴らしい意義ある会だと思います。
田中会長や井上事務局長や会を立ち上げて下さった方々に心より感謝致します。
友の会もそうですが、私が私を受け入れて生きていけるように、
いろいろな出会いの中で「気付き」を頂いて今があるように思えます。
そんな話を私の病歴と心の変遷と共に書かせて頂きたいと思います。
しばらくの問お付き合いください。
体の痛みや関節のこわばりは、
今から35年前の多感な高校生の時に始まりました。
いろいろな病院で検査しても病名がつかず、
辛い痛みも医師や家族に理解されず、
家の中では怠け者と言われ、
いったいこれから私はどうなってしまうんだろうとひとりで悩みました。
このとき病名がついていさえすれば
もう少し家族の理解が得られたのではないかと悔しく思います。
今、高校生の私に会えたなら、
「孤独の中よく踏ん張って生きていたね!」と抱きしめて
チョコレートパフェを3杯くらいご馳走したいような気持ちがしています。
卒業後、
がんばって専門学校を卒業して念願のテキスタイルデザイナーになりましたが、
体が辛くて辞めざるを得ませんでした。
悔しさもありましたが、負け惜しみでなく、
一度は夢を叶えることができた幸せを忘れないでおこうと思いました。
その頃のことを思い出すと涙が出ます。
仕事を辞めても体調は悪いままで家に居ましたが、
病名も治療法も無く理由が分からないまま痛みが増し、
体が固まっていくことは恐怖でした。
この人生をどう理解し受け止めれば良いのか、
こんな私の生きている価値はあるのかとほんとうに悩み続けました。
発病してからというもの痛みの途切れる時は全く無い状態で、
夜には特に体が辛く、枕が涙の染みだらけでした。
家族が探してきてくれたり、
私が聞いてきた民間治療薬や治療法をいろいろ試してみましたが、
よく効いたと思えるのは鎮痛剤だけでした。暗中模索でした。
母は金額にすると家が1件建つとよく冗談を言います。
つくづく同じ病気の仲間の体験や情報が聞けることはありがたいと思います。
26歳のとき、不安を抱えつつも「病気丸ごと引き受ける」
と言ってくれた同級生の夫と結婚をしました。
しかし痛みと体調不良はだんだん酷くなり、
子どもを産む自信も心の余裕も無く、
夫の「お前が居たらそれでいい」の言葉に慰められました。
しかしどこに行っても産まない女性の居心地は悪く、
悲しむ私に「夫婦の問題を他人にとやかく言われる筋合いはない」
と怒りながら慰めてくれた夫の言葉がありがたかったです。
晴れの日、嵐の日いろいろ有りますが、
それもお互いが理解しあうために必要なことなのかもしれません。
今まで一緒に生きてくれたことに心より感謝しています。
20代で仙腸関節もくっつき、頚椎も背骨も一本化し、
30代では両股関節が固まって曲がらなくなり、
36歳には全身真っ直ぐな「お琴」のような体になりました。
36歳で両方の足に人工股関節を入れて、
再び立ち上がり杖で歩くことができました。
でも股関節の曲がりが悪く、座るのは苦手です。
ASでは重度の方だと思いますが、
その人工関節置換手術の入院中に、
もっと重度の難病の方々と知り合いました。
動かない体でも、今与えられている状況の中で美しいもの楽しいことを見つけ、
感じることを大切にしている人が
「ゆっくりと見なければ見えないものがあるよ」と教えてくれました。
明るく人を思いやり身軽に手助けしてくれた人が、
「私の手はみんなの手よ」
という私の一生の宝物になったキャッチフレーズを下さいました。
「治ってからではなく『今』人の手を借りてやりたいことや行きたいところに行きなさいよ」
と教えてくれた話題豊富な車椅子の人。
ひとは病気でもこんな風に生きることができるんだと勇気と希望をもらい卒業した
“寝たきり大学”でした。
手術後は、不思議なことに少しずつ体の痛みが和らいできました。
友人からの声かけで障害者の作業所を立ち上げて、
外に出かけることが多くなってきました。
曲がらない振り返れない体を「かわいそう」と言われて悲しかったり、
子どもに笑われて措けなかったり、
「ぐずぐず歩くな」と言われて恥ずかった私に「何で怒れへんねん」
と教えてくれたのは、障害を持った先輩たちでした。
「この体でどこが悪いねん。差別するな! レッテルはるな!
障害があってもぼくはぼくや!
神様にもらった命を勝手にランク付けするな!
何で障害者を社会の仲間に入れへんねん。
この社会には今日障害者と明日障害者になる人しかおれへんねんぞ」。
私の中の人権意識の低さと偏見に気が付きました。
他人を計ったその価値観で自分のことも計っていたのかもしれません。
こんな自分や人生は嫌だと私自身を否定し、
障害を持ったらもう人生終わりやと思っていた私に、
「ここからがほんまの人生やで」と教えてくれたのは、
もっと重度の障害を持った先輩たちでした。
「普通って言葉は、
それぞれの事情や様子を無視した乱暴な差別用語と思うねん」
と言った先輩の言葉に絶句する私。
そう言われればそうだ。
いろいろなものを切り捨てた曖昧な言葉だ。
普通という言葉をよく使っていた私は、
自分の中の普通を問い直しました。
障害を抱える人が、
社会と戦わなければ生きていけない厳しい状況がこの社会にあることは、
健常者からは見えにくい。
「知らないでごめんなさい」の連続でした。
今では福祉の言葉の元にずいぶん建物のバリアフリー化が進んで
スロープやエレベーターなどが設置されてきたが、
時代の人権意識を反映して古い建物は段差だらけで、
車椅子や杖の人のことは考えて作れていない。
私も電動車椅子を使うようになって
「段差だらけの建物が私に入るなと言ってるようだ」
と表現した先輩の言葉が分かるようになりました。
このように便利になるまでには、
「ここにはこれが必要だ」と声をあげて社会や会社と戦い、
勝ち取ってきた先輩たちがいてくれたことを知りました。
特に足が痛む時など「よくぞここに付いていてくれた!」
という手すりなどに出会うと、
「ここに必要」と声を上げてくれた人がいたのかもしれない!
と思わず手すりと握手してしまいます。
少し前までは、
車椅子でバスや電車に乗るときは数日前に連絡しなければ乗れませんでした。
そのもっと前は乗車拒否は当然でした。
乗車の権利を戦い続けて勝ち取ってくれた先輩がいたから、
いつでも乗れる今日があるのです。
「あたりまえ」に暮らしているその影で「あたりまえ」を作ってくれた人がいることは、
なかなか見えにくいです。
今でこそ街で車椅子の方をたくさん見かけますが、
20年くらい前には無かった光景でした。
時代が良くなるように思えたのですが、
自立支援法という法律の改正で、
せっかく作り上げた生活が経済的に続けられない人や
今まで利用していた施設の利用を止めざるを得ない人も出てきました。
生活が変わって、培ってきた人間関係も切れてしまうことが、
障害者にとってどんな痛手か想像力を働かせて考えて欲しいと思います。
隔離されることなく行きたいときに行きたい所に行けて、
自分で考えて選択し、それを周りに伝えて協力を求め、
平等に社会参加できることが自立することであり、人権を守られることです。
この二つは重なっているのですね。
そんなことも改めて知ることができました。
ゆっくり私の中で私を受け入れる作業が始まりました。
またピアカウンセリング(同じ背景を持つ者同士の相談)
やカウンセリングの勉強を始めて、自分の心の傷に改めて気がつきました。
成長過程でほんとの気持ちを受け取ってもらう経験が少ないと、
発散されなかった感情が抑圧され心の傷となることがある。
自分を全面的に肯定してくれる人に出会い信頼を取り戻し、
その関係の中でほんとうの気持ちや感情を出し、
自分の中にある問題に対してちょっと客観的に見ることができて、
相手の気持ちも考える余裕ができて、
自分の負うべき責任もあることを感じ、
以前否定された感情を受け入れ、
自己受容して歩みだす力が出てくるということだと思います。
自分で自分を肯定できると封じ込められていた自分の持つ力が発揮されます。
16年前に初めてAS友の会の集会に参加して、
同じ痛みを語り合っただけでも感情が発散される思いがしたことを思い出します。
なかなか出会うことが少ないASという同じ背景を持つ人が集える
友の会の存在はほんとうに貴重です。
総会や集会でいつも感じる空気の柔らかさは、
理解されにくい痛みに練られた優しさからきているのかもしれません。
AS友の会で知り合った仲間がいてくれることは足もとを支えられているような心強さを感じます。
そしていつも困ったら答えてくださる田中会長や
井上事務局長が居てくださることはありがたいです。
ASに悩みどう生きて行ったら良いのか悩んだときは是非、
総会や集会にご参加ください。
またインターネットの掲示板での出会いも広がろうとしています。
そんな私たちの貴重なAS友の会をみんなで支え育てて頂きたいと心から思います。
どうぞこれからもよろしくお願いいたします。
おまけ…関西のひとが書いても「かんとうげん」
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